カリタスって何?すぐわかるアウグスティヌスのカリタス!

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神の愛であるアウグスティヌスのカリタス

忙しい人の為の解説・概略

カリタスは、キリスト教の無償の愛であるアガペーの概念が、プラトンの自己中心的な愛と出会ってできた、アウグスティヌスによる愛の概念である。
その特質を一言で表すのは難しいが、基本的には「神の愛」と訳されている。

アウグスティヌスによれば、カリタスはまずエロースの特質が現れ、神へと上昇したいという欲求が発生する。
しかし、神の威光を前にすると人間は自身の無力さに挫折してしまうが、アガペーの特質である神からの愛によって愛され、次第に人は神を愛するようになるという。

そうして、神を愛するようになった人間は、隣人を「神を愛する人」にするべく愛するようになるのである。

人間が無力さに挫折したとき、そのまま神を愛さずに、ただその人を愛するようになる愛をアウグスティヌスは「クピディタス」と分けている。
エロースが天上的エロースと感覚的なエロースに分けられたときは、愛する対象の差異が重要になったが、アウグスティヌスのカリタスとクピディタスにおいては、その対象に関する主体的な関わり方に差異が認められる。
カリタスが「神のための愛」であり、クピディタスは「自身のための愛」と考えられている。

今回は、このアウグスティヌスのカリタスの教義を詳しく解説していきたい!

エロースとアガペーが出会った!?

アウグスティヌスは紀元後354年から430年に生きたキリスト教の教父だ。しかし、彼は46歳の時に自伝である『告白』を残すが、それによれば若いときはキリスト教徒ではなく、マニ教徒だったようだ。

マニ教は、ササン朝ペルシアという国の青年マニが始めた宗教で、その特徴はゾロアスター教を元にして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、新プラトン主義、そして仏教をごちゃまぜにした、まさにいいとこどりの宗教である。俺が考えた、最強の宗教!ってやつだ。
この宗教が成立した背景には、人口が増え、交易が盛んになったことによって多数の文化が比較的寛容的に行き交いしたことが一因となっている。この時代を「ヘレニズム文化」と呼び、こうしたヘレニズム的環境では色んな文化が混ぜられた新しい文化が出来上がっている。

アウグスティヌスは若いときにマニ教に信じ、またプラトンの教えを引き継いでいた新プラトン主義に傾倒していた。ただ、彼は相当遊びふけっていたようである。
『告白』は、彼の若い頃のそうした失態を懺悔し、キリスト教に入信した経緯が書かれている。俺は無理だな…若い頃の黒歴史を本なんかにはできないわ(笑)

アウグスティヌスは新プラトン主義に傾倒していたためか、彼のキリスト教の教義に、エロースの概念が色濃く影響している。まさに、キリスト教のアガペーと、プラトンのエロースが出会ったというわけだ。

やばい、胸アツじゃん!どうなるんだよこれ!?

アガペーとエロースの統合の困難さ

しかし、事態はそう簡単ではなかった。

アガペーとエロースをもう一回復習しよう!アガペーは簡単に言えば無償の愛で、つまり、めっちゃお人よし、みたいな感じだ!
それに対してエロースは自己中心的な愛で、自分の目標のためなら方法をもいとわない、そういうめっちゃガキ大将みたいなやつだ。

お人よしとガキ大将、相性はいいのか?予想通り、実は全くよくない。というか真反対の性格だ。
後に『アガペーとエロース』を書き、アガペー類型とエロース類型に分けて愛の思想を分析したプロテスタントの神学者A.ニーグレンは、この時にお人よしのアガペーをエロースが侵略した!とまで言っている。
さすがにそれは、多数の反論が寄せられたけれど、確かに、真反対の思想をぐちゃっとくっつけるのはなかなか無理がある。
因みに、アウグスティヌスの教説は中世スコラ哲学者へと引き継がれていくが、その思想はまさにスコラ(スクールの語源、頭が固いという悪口で使われた)って感じで、めっちゃ複雑で難しい。

しかし、そのような困難の中、アウグスティヌスは、カリタスの教説によってこれをしっかりと統合するのである。カリタスは今回の主人公で、今のところはアガペーの進化形と認識してもらえればと思う。
要は、神の愛の形を示すことで、アガペーとエロースを無事組み合わせ、カリタスの教えへと発展させているのである!

プラトンだけじゃダメな理由

アウグスティヌスは、アガペーの中にエロースを取り入れる際に、愛が段階ごとに達成されるとして、「愛の秩序」を構想した。
愛に秩序を与えるという発想は、プラトンの「身体→魂→知識」というエロースの上昇段階から来ていると考えられるが、「愛の秩序」という言葉を使って愛の特質を説明しようとしたのはアウグスティヌスが最初だと言われている(エロースの詳しい解説はこちらで!)。

さて、プラトンの考え方の何がまずいのかを少しだけ復習しよう。プラトンによれば、肉体を愛し続けるのは、ダメ。魂は少しダメ。だから知識を最終的に愛そうということだった。
なんでダメかと言うと、肉体は簡単に言えばすぐ腐っちゃうからだ。だから、肉体を愛し続けるのは倫理的に良くない、みたいな感じである。

それはつまり、「肉体<魂<知識」という優先順位が与えられているとみなすことができる。ランク付けだ!しかし、これって全部神が作ったんじゃないの?神が作ったのに何で肉体はダメで知識は良いってことになるのか。

アウグスティヌスは、肉体も魂も知識もみな神が作ったものなんだから全て善だと考える。じゃあ、愛の秩序はどうやってつけるのか。
それは、肉体は「自分のために」愛しやすいから、それを避けるべきだ、という発想だ!

実はこれはものすごいことなんだよね!プラトン、新プラトン主義と、愛の本質を「何を愛するべきか」で考えていた。
だけど、アウグスティヌスは、神の被造物は全て善だけれど、「どうやって愛するか」によって、良いか悪いかを決めようとしたところに、これまでの発想をがらりと変えることになったのだ!

アウグスティヌスの「愛の秩序」とは

さて、いよいよ具体的に人間はどうやって愛せばいいのかを説明したいと思う。

アウグスティヌスはまず、真理を追究したい衝動に駆られる自己中心的な欲求を、人間は必ず持っていると考えた。つまり、アウグスティヌスは、エロースの衝動を最初に考えたというわけだ。
例えば、物体が重さを持つように、人間は放っておけばどんどん沈んでいくと、彼は説いている。それから脱するためには、そうした欲求が必要であるという発想だ。

さて、人間はどんどん真理を得ようと上昇していくのだが、あるとき神の神々しい光を目にするそうだ。神ってめっちゃ輝いてんだな。
すると人は、ああ、なんて明るい光なんだ、それに比べて俺は…と挫折してしまう。

さて、ここで神からの無償の愛、アガペーの出番だ!挫折した人は二つの道に分かれる。一方は、そのまま地上に留まり、自分のために他の肉体を愛する。どうせ俺なんて…みたいないわゆるメンヘラチックな愛をアウグスティヌスは「クピディタス」と呼んだ。

アウグスティヌスにとっては、クピディタスは避けたい愛である。実際アウグスティヌスはクピディタス的な愛に若い頃に実際縛られ、恥ずかしい黒歴史になっているのだから!
これを避けるときに、人にアガペーが降り注ぐわけだ。つまり、神からの無償の愛が、人間を神的なものへと向かわせるのである。そうして、人は神を愛することができるのだ。

このような、神への愛を「カリタス」と呼んでいるわけである。簡単にまとめると、地上に留まり自分のために他者を愛する愛をクピディタス、神を、神のために愛する愛をカリタスと分けたのである。
これが、アウグスティヌスが説いた「愛の秩序」の段階というわけだ。

カリタスと隣人愛の関係とは?

キリスト教の中心概念の一つに「隣人愛」がある。プラトンのエロースにおいては、隣人、つまり他の人を愛するのはほぼ不可能だった。
しかし、キリスト教においては「敵をも愛する」ような他者への愛は必要不可欠である。カリタスにおいてはどのように達成されるのだろうか?

率直に言うとひとたびカリタス的な愛を手に入れたら無敵だ。カリタスは、「神のために愛する」ことである。
それを他者に向けるには、「その人が神を愛する」ように差し向けることが肝心となる。そうすれば、その人を「神を愛する」がゆえに、その人を愛することができる。
アウグスティヌスは、隣人愛を、神を経由させることによって達成したのだ。

まぁ、この考え方は実はアガペーにもみられる。カリタスの何がすごいって、これを自己にも向けられるところだ。
「神のための愛」があれば、それがたとえ自分を愛することになっても、それは「神のために自分を愛している」ことになるため、自己のために自分を愛する自己愛と区別できるというわけだ。これは凄い。
因みに、これはまた別の機会に書きたいが、神のために自分を愛する愛を「真の自己愛」と呼び、自分のために自分を愛する愛を「罪の自己愛」と呼んで分けている。

まとめと今後

アウグスティヌスは、若い頃に傾倒していた新プラトン主義のエロースの概念と、自身が改宗したキリスト教のアガペーの概念を統合しようと、カリタスの教説を説いた。
その背景には、多数の文化が触れ合っていたヘレニズム的環境の影響が見られる。

アウグスティヌスは、エロースによる自己中心的な愛に端を発し、真理を追究する欲求をはじめに置いた。
真理の追求の途中で必ず、神的な光に出くわし、人間は一旦挫折する。挫折したとき、人間は二つの道が開かれる。そのうちの一つである、地上に留まり自分のために人を愛する「クピディタス」は、避けるべき愛だとアウグスティヌスは説く。

挫折の際に、神からの無償の愛であるアガペーに注がれると、人間の愛は神へ向かう。そうして神を愛するようになるという。
ひとたび神を愛せば、人間は「神のための愛」を考えなければならなくなり、隣人や自己でさえも「ただ神のために愛する」ようになる。これがカリタスの教説における「愛の秩序」である。以上がまとめです。

さて、アウグスティヌスの大きな功績は、「何を愛するか」から「どうやって愛するのか」という構想の転換だ。アウグスティヌスのこの愛の秩序の構想は更に中世スコラ哲学によって厳密に分析されるようになる。
アウグスティヌスの愛の秩序では、「どうやって神を愛するようになるのか」が知的合法則性に還元されないような説法、つまり論理の飛躍が認められる。彼の論理は「火の論理」と呼ばれていて、「神を見れば、どうしても神を愛せずにはいられなくなる」といった感じで、とても情動的なのだ。
中世スコラ哲学では、この愛の秩序は更に厳密に論じられ緻密になっていく。ただ、一旦ルターによって誤解されるが、パスカルやマックス・シェーラーといった人にも影響を与えることになる。

マックス・シェーラーといえば、倫理学を現象学に取り入れ、今の時代にも大きく影響を与えた人物である。そう考えると、僕らの愛の思想にも、アウグスティヌスは深く影響しているんだなぁと感慨深く思えるよね。

参考文献とお勧め図書

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