役に立つことばかりが重要ではないという論の見取り図

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役に立つことばかりが重要ではないという論の見取り図

「役に立つ」とは何か

役に立つとか立たないとか、もういい加減うるさいとは思うが、自分のことになるとどうもやはり「役に立つかどうか」が気になってしまう。もちろん目的語は、大学の学科である。

やっぱり自分が、人生の岐路に立った時に備えて、「役に立つこと」にまつわるいろんな話の見取り図を作っておきたい。
じゃなきゃ、「役に立たないんだからやめなよ」というアドバイスを鵜呑みにして、自分の好きなことができないまま人生を終える羽目になる。

「役に立つ」とは一体何なのだろうか。

「役に立つ」とはポテトチップスである

「役に立つ」とはすなわち、ポテトチップスのことである。

ポテトチップスは、文句なく美味しい。そして、食べ合わせは何でもいい。とりあえず、ジャガイモと塩がすきであれば、美味しく感じるわけである。
嫌いであれば、コンビニで他に売っている自分の好きな菓子を想像してもいい。ミルクチョコレートや、ビスケットなど様々あるだろう。

一方で役に立たないものとは、「コーヒー」である。

コーヒーを飲んだとき、最初に広がる味は「苦味」であることが多い。また、後にやってくる「酸味」もくせものだ。
コーヒーを始めて飲んだとき、恐らく「美味しい」と思えた人はほとんどいないだろう。コーヒーを飲むには、飲み続けて味わいを発見したり、飲み比べて色々な種類の味を知ったりしなければいけない。

ポテトチップスは万人に開かれていて、コーヒーは極一部の人に限られている。ポテトチップスを食べるのはリラックス要素が強いが、コーヒーを嗜むというと、なんとなく趣味の一環のように感じる。
だから、基本的にはポテトチップスの方が大勢の場合は好まれやすい。つまり、コーヒーよりも大勢の場=社会に役に立つわけである。

役に立たないものは、文脈依存的である

ポテトチップスとコーヒーの違いをより明確にしておくと、前者は文脈自由的であり、後者は文脈依存的であるということだ。
ポテトチップスを味わうのに、複雑な文脈に依存する必要はない。それに対して、コーヒーは、様々な銘柄や入り混じった味わいなど、入り組んだ文脈を理解する必要がある。
たくさんの種類を飲めば飲むほど、コーヒーの味わいは変わっていくし、自分だけの理解になっていく。そして、自分だけの世界を強固に築き上げ、閉鎖された空間をコーヒーで作りだすのである。

さて、こうなってしまっては、コーヒーは本当に役に立たない。「なんで美味しいと思うの?」と聞かれたときに、ありのままに答えてもきっと伝わらないだろう。味覚を共有するのはほぼ不可能である。

人間の言葉は、文脈依存的である

そういうわけで文脈依存的な言葉は社会の即戦力という意味で役に立たないといえる。しかし、人間の言葉のほとんどは文脈依存である。

人間の言葉は、高い文脈性を持って放たれる。
「かわいい」という言葉を一つとっても、人によって思惑は様々に存在する。それは、軽い気持ちだったり、下心だったり、相手を馬鹿にするためであったり。
人間は、こうした、複雑な文脈を要する言葉の最適解を模索しながら会話しているのである。
だからこそ、人間の言葉は高い文脈によって支えられていると言える。

人文学とは、人間の言葉を研究する学問である

人文学とは、人間の言葉を研究する学問である。

もちろん、喋り言葉や話し言葉ばかりではない。行動や現象を対象にした人文学も数多く存在する。しかし、行動や現象さえも、人文学はそれを言語に変換して分析する。そういった意味で、人文学は人間の言葉を研究していると言っているのである。

ところで、世界は(何回も主張している通り)「よく分からないもの」である。それは同時に、「言葉ならざるもの」であるということである。
人文学、特に哲学は、その「言葉ならざるもの」をいかに言葉にしていくかという営みであるように思う。「言葉ならざるもの」と「言葉」の壁は存外大きく(これを「記号接地問題」という)、それを表現しようとするがゆえに哲学の言葉は難解を極める。
「難解な言語」を解説し、運用していくにはそれだけ、たくさんの言葉が必要となる。つまり、文脈依存の強度がどんどん高くなっていくわけである。
それ故、哲学のほとんどは文脈依存的にならざるを得ず、結果的に少数の限られた人間にしか伝わらない学問となる。

そういうわけで、哲学は「役に立たない」と言われやすいのである。

文脈依存であればあるほど、役に立たなくなる

人間の言葉や行動に焦点を当てた研究である、文学や歴史学、そして社会学や心理学も例に漏れず役に立たない。
ひょっとしたら心理学などは、人の心理を、できるだけ量的な指標に変換して分析しようとする学問だから、一部には役に立つ学問だと言われているかもしれない。「人の心理を利用した○○」という触れ込みをよく見るから、そうなんだろう。

しかし、そういった量的な変数を利用する心理学や物理学でも、基礎的かあるいは理論的になればなるほど、やはり社会に必要であるように見えなくなってくる。
基礎研究というのは、概して文脈依存的だ。なぜなら、あらゆる実用に耐え得るものでなくてはならないからだ。エビデンス(文脈)が要る。


果たして、文脈依存的な学問を、「役に立たない」と決めつけて、本当にいいのだろうか。その答えは保留にしたい。ただ、世の中が文脈から自由になろうとすれば、残るものはポテトチップスしかなくなるということだ。

ポテトチップスしか味わうことのできない世界は、何とも味気ない。少なくとも、「深み」が足りないのは確かである。僕は、そんな世界に住むのは御免である。

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