教養を身につけるためにやってはいけないこと

もっと教養を身につけなよっていろんな人から言われる。
確かに、自分でも教養が足りないなぁって思うときがある。

「はぁ、教養をもっと身につけたい!」と思ってウェブで検索すると、いや~出てくる出てくる。
「教養を身につけるための○○の方法」だとかなんとかって。
文部科学省の文章を引用してきたり、ポイントに分けて説明していたりして、なんとなく説得力があるように感じる。

端的に言えばそこで説明されているのは、「本を読め!」「映画を見ろ!」「資格試験の勉強をしろ!」というわけだ。
「は? 無理……」と思った方はきっと多いに違いない。ちなみに私もその一人だ。そんなん出来るわけがない。大体時間が足りない。
しかも、大抵は記事に自信がないのか、「でも、本当の教養は知識を身に付ける姿勢だ」みたいなまとめが付いている。いや、その「姿勢」が知りたいんだろ!

ということで今回は敢えて、「教養を身につけようと思った際にやってはいけないこと」を書いていきたいと思います。

教養を身につけるためにやってはいけないこと

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教養を身につけようと思うな

いきなり荒唐無稽なことを言うようで悪いが、「教養を身につけようとする」ことが、もう既に教養人としてあまり適切ではない。
何故そう考えるか、具体例を通して説明していこう。

”教養を身につけるために”本を読むな

教養を身につける方法として、「本を読め」と言う人は世の中にたくさんいる。
しかし、どんな本を読めば教養が付くというのだろう?

「教養を身につけたい」と思うとき、まず考えるのは「たくさんの知識を得たい」ということだ。確かに単純に知識を得るのであれば、読書が多分一番効率が良いだろう。

書籍は、(ちゃんとしたものである場合)ある分野の知識が体系立てて(整理されて)書かれている。
しかも、何回読み直しても誰にも怒られないし、書き込みもできる。しかも購入して部屋においておけば好きなときに読み返せる。

また、読むという行為は能動的なものである。というのも、本は「読もうとする姿勢」がなければ読めないからだ。
何もしなくても耳に入ってくる会話やセミナーとは違う。読書は自分から読ませる性質のために、知識が定着しやすいのである。

それ故に、読書はだ。

読書が能動的なものなら、つまり簡単に言えば、本を読むときには既に読みたいという姿勢を持っていなければならないわけである。
逆に言えば、その本を読みたいと思っていない人は、読書することができないのである。

大体、世間で教養がないと言われている人間は、学ぶ意欲がないからそう言われるわけで、そんな人が「本を読め!」なんて言われても何もできるわけがないだろう。
もちろん、大抵の人はおかしいと思っている。だから、「読みたいという姿勢」を「教養を身につけたいから本を読む」ということにして、本を読もうとするわけである。

「教養を身につけようと思って本を読み始めたんだよね~!」と言う人がどういう末路を迎えたかは想像に難くない。
この問題については後で指摘しようと思う。

“教養を身につけるために”色々手を出すな

「本を読む」は能動的な行為を必要とするために、学ぶ意欲のない人にはハードルが高かった。
そういう点で、「習い事」や「映画」、「旅行」は基本的に推奨できる。
今挙げたものはどれもある程度受動的な姿勢でも知識が身に付くからだ。

最終的には、知識の定着には能動的な行為は必要になってくるのだが、その入り口が受動的でも全然かまわない。
続かないのであれば、「お金をかける」なんかも良い手段だろう。お金をかければ、なんとなく途中でやめにくくなる。そういったことは、習慣をつけるためにも有効である。

ただ、「一気にいろんなものに手を出す」のはよくない。先ほども言ったように、知識の定着には能動的な行為が必要になってくる。
習い事をやったことがある人は分かるかもしれない。僕はバイオリンをずっと習っているが、「自分から練習しよう」という姿勢を身につけるのは実はかなり時間と胆力が必要だ。
というのも、上手くないうちは「早く上手くなりたい」という気持ちがはやる。そうなると、例えば方法論に固執しがちになるし、上手くならない自分に腹が立ってくる。そんな状態では、決して能動的な練習が生まれるはずはない。

理想的なことを言うと、時間と胆力は極力一つのものに集中させたい。
一つの経験を集中的に行うことで、自分の行動を細やかに修正したり、豊富な知識を体系立てたりしながら、他じゃ得られないことを体験するのが望ましい。
これは習い事だけではなく、音楽や映画も一緒で、一つの極、或いはジャンルを注意して聞く(見る)ことで、「語れる人間」へと自分を変容させていく。

こういったことは、いろいろ手を出してしまっては体験できない。能動的な行為をするには、じっくり時間をかけて実践をしていくことが大事だ。

教養がないと言うな

ここまでの説明を読んで、「能動的な行為」がなんで「知識の定着」に必要なの? とか、「学ぶ意欲」がないから教養がないってわけじゃないでしょ? みたいな疑問がわくのではないだろうか。

恐らくこの疑問は「教養」という言葉の定義が定まっていないことに由来するのだろうと思う。「教養のある人」とはどんな人のことを言うのか。
ということで、(多分無駄だが)辞書を引っ張ってみよう。

① おしえそだてること。 「父は其子を-するの勤労を免かれ/民約論 徳」
② 社会人として必要な広い文化的な知識。また、それによって養われた品位。 「 -を身につける」
③ 〔英 culture; ドイツ Bildung〕 単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために、学び養われる学問や芸術など。

大辞林 第三版「教養」より引用

と、こんな感じらしい。
「社会人」「広い文化的な知識」「品位」「素質」「精神的・全人的に開化・発展」をどれくらいの人間が説明できるか。
僕たちはこの辞書の定義から、実のところほとんど得るところはないはずだ

逆に、今ので「教養とは何か」が分かった人はもしかしたら本当に教養のある人間なのかもしれない。
次からの説明は、そういう人以外に向けたものである。是非、教養のある人は一層の努力をしてほしい。

分からない言葉を分かったつもりで使うな

「分からない言葉を分かったつもりになる」というのは、教養のある人を目指すときに一番弊害になることである。
例えば、受動的に人の話を聞いているときに、「分かったつもりになる」ことが常習化している人は、一切質問をしなくなる。というのも、本人は分かったつもりだからだ。

本当にわかっているのであればそれでいいと思う。しかし、質問をせずに聞く場合に問題になるのは、「本当にわかっているのかどうか判断できない」という点にある。
人の話を聞くのがあくまで「分かることを増やす」と言う目的の場合、「本当にわかっているかわからない」ことは不都合だ。そういう意味でも、質問をする癖をつけるということである。

ただ、この質問をすることは、やってみるとわかるが案外難しい。運が良く何かを疑問に思ったとしても、「今自分が何に疑問を持ったのか」を言葉に出来ないといったことに心当たりがある人も多いんじゃないだろうか。
その原因は、質問も能動的な行為に由来するということである。人の話をただ受動的に聞いていたのでは、質問をすることはできないだろう。

質問をする癖をつけるには、「分かったつもり」にならなければいい。少しでも分からなければ、それはもう「分からない」のである。
「分かったつもりになる」ことが一番起きやすいのは、(経験上)「分からない言葉を分かったつもりで使う」ときだ。
この言葉が通じてしまったときに悲劇は起こる。「あ、これはこの意味でいいんだ!」と決めつけてしまっては、「わからない」と思う契機がなくなってしまうだろう。

これは決して、「分からない言葉を使うな」と言う意味ではない。現に僕は、記事の最初の方で「教養」という言葉の定義を分からずに使っている。
言葉は流動的で、定義はその時代、状況や環境で変化する。いちいち定義をパリッパリに決めてから発言を迫られるのでは、会話が楽しくなくなってしまうだろう。
しかも、「定義を定めなくてはならない」というのは、「言葉の厳密な定義がある」ということを前提にしてしまう。それは、やはり「分かったつもりで言葉を使う」ことに他ならない。

言葉は恐れずにガンガン使っていく。しかし、それは決して「分かったつもり」で使ってはいけない。むしろ、「分からないけれどとりあえず使ってみる」くらいの心持ちが、教養ある人への第一歩になるだろう。

「教養を身につけようと思って……」が何故続かないのか。

「教養を身につけようと思って本を読み始めたんだよね~!」と言う人が何故続かないかは、ここらへんにヒントがある。

「教養を身につけよう」と思う人は、「教養」という言葉を「分からないくせに分かったつもり」で使っているものだから、実のところ何も考えていないのと一緒なのである。
だから、「教養を身につけようと思って本を読み始めたんだよね~!」はそのまま、「なんかよくわかんないけど本を読み始めたんだよね~!」と同じ状態である。

本はやはり能動的な姿勢が必要になるわけだから、「なんかよくわからないこと」を動機にして読めるほどハードルは低くない。
それゆえに、本を読もうとしても続かないのである。

同じ理屈で、能動的な行為を必要とするような趣味は、「教養を身につけるため」という動機では続かない。
「楽しい」とか、「役に立つ」とかが実践的にわからなければいけないのだ。

教養がないと決めつけるな

色々かいてきたが、言いたいことはこれである。
みんなに僕が勧めたいのは、「自分を教養がないと決めつけるな」ということである。

「教養」という言葉の意味は分からない。ただ、分からないなりに、先の辞書の「社会人」「文化的な知識」「品位」「素質」なんて言葉を拾いながら使ってみよう。
地球上に住んでいて、「文化のない社会」に住んでいない人はいるか? 品位が全くない人は? 人間としての素質がない人は? 全てが当てはまる人間はまずいないのである(いるかもしれないが、いたらいたでそれは一種の才能だと思う)。
だから、教養がない人はいない

逆に言えば、誰しもが「ある一定の教養を持っている」というわけだ。どんな教養か? それは人によって違うだろう。
ここまで生きている人は、社会の中である一定の影響を受けながら生きている。だから、自分はある一定のレベルで「文化的な人間」なのだ。どのように文化的かは分からない。が、とりあえずはまず「自分が今までどんな影響を受けてきたか」を反省してみるのが良いだろう。

とりわけみんなから「教養がある」と言われている人は、どこが原因でそういわれているんだろうかと考えてみるのもいいかもしれない。
僕自身は、「趣味」を持っている人が言われやすいんだろうなぁってイメージを持っている。だから、「習い事」や「旅行・映画」を先ほど推奨したわけだけど。

まずは、自分を否定しないところから始めるのが肝である。自分を肯定的に受け止めて、何ができて、何ができないかをきちんと体系立てて考える。
実はこの作業にも、能動的な行為が必要だ。自分を否定するのは簡単だが、肯定するのはやってみるとやっぱり案外難しい。

そうして、自分と社会とを様々な視点から(例えば、体系だった知識、あるいは経験など)を見つめ、それを会話に生かしたり、仕事に生かすことで「教養ある人間」へとステップできるのではないだろうか。

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