大学になんか行かなくてもいいと思える理由

先日、ブロガーのはあちゅうさんやイケハヤさんが「大学に行かない方がいい」と言ってネットが少し盛り上がりました。

彼らは「大学に行かない方がいい」という根拠に、「自分が通っても意味がなかったから」と主張しています。
なぜ「意味がなかった」かという理由に、「周りで学歴を気にする人がいなくなった」とか「会社員になったほうが、社会の仕組みが分かった」ということを挙げています。

これらの見方は当然のことながら「アカデミズム(つまり、研究をしている人たち)」の側から反発されることになります。そもそも、「社会の仕組みを知るために大学に行く」というのは、大学の目的の一側面でしかありません。
それによって「大学なんか行かなければよかった」などと言われたら、大学の存在意義を勘違いされたと思うでしょう。

この記事では、まず彼らの主張の根拠をより明らかにしたいと思います。「なぜ大学に行かなくてもよかったと思ったのか」を明確にすることで、「大学の存在意義」というものを考察する足掛かりにしましょう。

大学になんか行かなくてもいいと思えるわけ

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ブログで売れるだけなら大学は必要ない

ところで、はあちゅうさんやイケハヤさんが炎上している理由がもう一つあります。それは、彼らが「高学歴出身」だということです。

ブロガーである彼らは「文章を書く仕事」についており、高度な技術を要する(と思われる)仕事をこなすには、「質のいい研究機関での教育」が基礎になっているはずです。
だから、「大学が意味ない」とは少々無責任なのではないか、というわけです。

質のいい研究機関を卒業しても「売れる文章」は書けない

実は、僕はこの批判には少々疑問があります。僕もいわゆる「高学歴出身」ですが、バズるような文章を書く技術は一切大学で学んでいません。

むしろ、ブログではいわゆる「論文調」が避けられる傾向があり、客観性を極端に重視した文章が嫌がられる傾向にあります。だから、どちらかといえば、「大学に行かない方が、ブログで成功する」という主張の方が正しく思えます。

高校課程をしっかり勉強しさえすれば、ブロガーとして売れる

「面白いものを見つけたり、何かをテーマにして文章を書く」ということは大学で鍛えられます。そこから、はあちゅうさんやイケハヤさんが成功したのは、大学でそういったことを学んだことが基礎になっているからだと言えるのではないかという批判も上がっています。

しかし、これもまた少々疑問で、実はこういうことは全て「高校課程」で学ぶことができます。
例えば現代文では、「教育」「社会問題」「現代思想」などがテーマになっている文章を読まされ、その文章に関する設問を解く訓練をします。
その際、「自分の興味関心を文章の中から見つけたり、現代社会で議論されているようなテーマに対する深い洞察を行ったりする力」が非常に重要になってくるわけです。

難関大学出身ならば、当然のごとくこのような姿勢を身につけさせられます。じゃなきゃ、あんな問題を時間通りに終えるなんてことはできません。
だから、はあちゅうさんやイケハヤさんの成功は、大学というよりも、高校課程の勉強が基礎になっていると言えるわけです。
だから、時間効率を考えるならば、下手に専門的で論文的な文章を大学で学ぶより、高校課程の知識を活用して稼いだ方が圧倒的にコスパが良いのです。

まとめると、「ブロガーとして売れる」ならば、「高校課程をしっかり勉強しさえすればいい」というわけです。

頭が良くなきゃ儲けられないのか?

ただ、僕は今現代文を塾で教えていますが、現代文をこのように学習できる人は実はほんの一握りです。現代文は、学習が非常に抽象的で実感がわきにくく、また、一年という短い受験勉強機関では完全には身に付かないという事態が多い。

だから、多くの一般人にとっては、やはり「よく仕事をするには大学に行かないといけないのではないか」という疑問が湧きます。
正直に言うと、僕はこの意見に賛同しています。「文章を書く」といったスキルを培いたいのであれば、素直に大学に行くべきだと思っています。
大学では、レポートなどの課題がたくさん出るので、ほぼ強制的に文章を書かせられます。この「強制」こそ、一般の学生の能力向上には一番効きます。

しかし、それは「ちゃんとした文章を書きたいなら」という条件に限ります。ぶっちゃけ言えば、「ブロガーとして売れるのに、ちゃんとした文章はいらない」と思います。

例えば、はあちゅうさんのブログからは知性が少し垣間見えます。彼女は恐らく、高校課程も優秀な成績で卒業したのでしょう。多分、大学を卒業していなくとも「社会の仕組みが分かった」というのはあながち言い過ぎではないと思います。

しかし一方でイケハヤさんの文章はどうでしょうか。うーん……? 正直言えば、「高校課程」もちゃんと終えているかどうかも怪しい文章です。
でも、彼は「ブログで年商1.5億円」を自称しています。これが嘘でないならば、なるほど、「ちゃんとした文章を書かなくても、ブログは売れる」というわけです。
だから、イケハヤさんは、はあちゅうさんとは違った理由で、「大学なんか通わなくてもよかった」というのは正しいといえます。

ちゃんとした文章を書かなくてもなぜ売れる?

では、どうして「ちゃんとした文章を書かなくても売れる」のでしょうか?

人は何を消費しているのかわからない

現代社会は、「消費社会」と呼ばれています。ここでの「消費」とは、「ご飯を食べる」とか「洋服を買う」とかも含まれますが、「余暇を過ごす」や「保険に入る」など「もの以外」のことも含みます。
詳しい説明は省きますが、現代を過ごす僕たちはあらゆる消費に囲まれています。今僕の目の前にあるパソコンやコップ、スマートフォンなどもすべて「消費による産物」です。

消費が飽和した社会で、実は僕たちは一体「何を消費しているのか」が分かっていないということが多くあります
例えば、「せんべい」を200円で買った場合、せんべいを消費したことになります。しかしここで「秋田県のせんべい」を250円で買ったとしましょう。
単純に考えれば、引き算をして「秋田県」に50円を払ったことになります。言い換えれば僕は「秋田県」を50円で消費したことになるとも言えます。

秋田県を消費……? よく考えれば「旅行」も奇妙なことが分かります。例えば秋田県に旅行したとしても「秋田県」を消費したことになるでしょう。
「秋田県のせんべい」と「秋田県への旅行」では、「秋田県」の消費の仕方はどう違うのか、いや、そもそも「秋田県を消費する」という言葉は正しいのか……。

何を消費しても満たされない

ここでの「秋田県」は、本当に存在する秋田県とはほとんど関係ない。この秋田県はもはや「記号」である。

「現代人は、『記号』を消費することでしか消費することはできない」と言ったのは、哲学者のボードリヤールである。ボードリヤールは、この消費の仕方を「記号的消費」と呼んだ。

「記号を消費する」とはどういうことか。先ほどの例でいえば、「秋田県」という記号は「せんべいと秋田県のせんべいの『差異』」から出てきた。つまり、人が記号を消費しているとき、「差異を消費している」といえるのです。
「差異を消費している」……なるほど、こうなると僕たちは「実体のないもの」を消費しているだけということになります。

「実体のないもの」を消費しているだけだとどうなるか。それは、「何を消費しても満たされない」というわけです。

差異が大きければなんだっていい

僕たちは「差異を消費して」生きている。だから、現代人はいくら消費をしても満たされない。
でも、それは社会の病理であって、個人には関係ない。楽しければなんだっていいじゃん! 社会が病んでいようがなんだろうが、自分さえ稼げばもうどうだっていいのです。

そういった状況で、人は自分が稼ぐために「差異」をどんどん膨らませながら「商品(笑)」を売っていくことになる。
商品は実体がなくても、差異さえ大きければいいわけです。だから、どんどん過激なことを言っていくことになる。

イケハヤさんたちが、「大学に行かなくてもいい」と言ったのは、もしかしたらそういった意図もあるのかもしれません。
世間一般では「大学には言ったほうがいい」という価値観が主流です。そういった場所で「大学に行かなくてもいい」という言葉は「差異」が大きい。だから、今回も大きな話題を呼んだわけです。

大学が役に立つかは誰も分からない

ただ、もちろん「差異」が大きければ必ず売れるというわけでもありません。じゃあ、どんな「差異」だったら売れるのか。実は、誰にもわからないんです。
「みんなが何を消費しているのかわからない」というこの現状では至極当然ですよね。だから、「数うちゃ当たる戦法」が横行することになります。こういった戦法が氾濫すると「質の悪い文章」も増えてきます。
こうなったら、もはやカオスです。生産者側も「何を売っているかわからない」し、消費者側も「何を買っているかわからない」わけです。めちゃくちゃすぎる。

こんな世の中で、「大学が役に立つか立たないか」と言った問題に対して、誰も結論をつけることができません。「役に立つとも言えるし……役に立たないとも言える?」と言った感じです。
始末の悪いことに「いつか役に立つかも?」なんて言う教師も出てきます。僕も生徒の頃に言われました。今思えば、なんて無責任なんでしょうか。でも、こんな世の中じゃ仕方がありません。

こうなれば、「大学に行かなくてもよかった」という主張は、現代社会に対する「本音」のようにも思えます。
「何をやってもよく分からない。なら、稼げる方法で稼ぐ。その方が効率が良いでしょ」というわけです。


以上が、「大学に行かなくてもよかった」と思える理由の内わけです。
「何をやってもよく分からないんだから、大学に行かなくていい」という本音を、消費社会である現代に生きる僕たちは抱かざるを得ないというわけです。

また、ちゃんとした文章は「高校課程」で十分に学べるし、学んでいなくても過激なことをたくさん書けば「とりあえず何か引っかかって売れる」わけである。
こんな社会の構造があって、どうして今更「大学の価値を評価できる」のか。

次回は、「大学に行く理由」を説明します。


次の記事→「社会に疑問を持ったら大学に行け

参考文献

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