フッサールのエポケーを日常で実際に使ってみよう!

さて、今回はエポケーを日常で使うための記事になります!
ここでのエポケーとは、ドイツの哲学者エトムント・フッサール(1859‐1938)が始めた学問である「現象学」での操作的定義(方法としての言葉)を指します(1
エポケーとは簡単に言えば、「よく分かんない問題はとりあえず判断を保留にしちゃおう!」と言う意味です。

このエポケー、実は日常で使うととても便利なんです!
例えば、恋愛のシーンなんかでも、エポケーが使えます。いったいどういうこと?

ということで、早速解説していきましょう!

フッサールのエポケーを日常で実際に使ってみよう!

…しかし,そのような超越的客観がいったいどのようにして〈これこれしかじかの存在者〉として,すなわち〈意味的に規定された対象〉として認識されうるのか,という疑問を解明するのが〈超越論的〉現象学の課題である。それゆえ現象学者は対象の実在を素朴に認める態度を一時中止(エポケー)すると同時に,反省のまなざしを自分自身の意識作用そのものへ向けるための現象学的還元(または超越論的還元)を行わねばならない。

世界大百科事典「フッサール」より引用

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「○○とは何か」という問いの失態

「○○とは何か」という問いの所在

「哲学を勉強しています!」と自己紹介をするとほとんどの確率でこんな感じの無茶ぶりをされる。

「ずばり!人生とは何かを語ってみて!」

恐らくきっと、ほとんどの哲学界隈の人間は「いや、そんなの無理だわ!」って答えるかもしれない。
確かに「人生とは何か」といった問いは、哲学を勉強する動機にはなるかもしれないが、必ずしも答えが出せるわけじゃないのだ。
(もしかしたらスマートに、「人生とは何かを問うとき、いったい何が問われているのだろうか」とかなんとかいってみて、「うっわ、哲学科っぽい……」と言われるのもありなのかもしれない)

この先入観はきっと、道徳とか高校の倫理の教科での教え方なんじゃないかなぁとか思うんだけれど……。
それは置いておいて、とにかく「○○とは何か」が必ずしも哲学的議論の条件じゃないということをまずは覚えてほしい。

むしろ、どっちかっていうと日常での会話の方が「○○とは何か」って議論をする人が多い気がするんだよね。
例えば、「人生ってなんだ?」「恋愛ってなんだ?」「サッカーとは何か」とか……。「定義づけ」から議論を始める傾向はむしろ「自然科学(物理、化学、生物など……)」に見られる。
「定義が分からなければ、話なんかできないだろ!」っていう人もいるくらいだ。いやいや、会話してていちいち定義づけしていたら疲れんだろ!笑(もちろん、定義づけが足りなすぎる人もいる。「ヤバい」を連発する人とか)

「○○の実在」を疑わない「○○とは何か」

哲学が必ずしも「○○とは何か」と問わないことは分かった。でもなんで問わないの?
哲学って常識を疑って定義を厳密に議論していくイメージがあるんだけど、定義を決めないんだったらいよいよ曖昧な学問じゃないか!

まぁ、もちろん、哲学にはそういう側面もある。しかし、今回の「○○とは何か」を避けたいのには、他に理由がある。いやむしろ、「曖昧な議論をしたくない」からこそ問わないのである。

例えば、「恋愛とは何か」という問いを立ててみたとしよう。多分、一度は考えたことがあるんじゃないかな。
しかし、この問いを「ここに恋愛がある。それはいったい何か?」と書き変えるとまずさが伝わるんじゃないだろうか。
実はこの問いは、「恋愛の実在(=あること)」を無条件に前提にしてしまっているのである。

簡単に言えば、「恋愛とは何か」を問い続ける限り、その場の議論では「恋愛は実際にある」という前提を受け入れてしまっているわけだ。
これの何がまずいのか。「実際にある」はつまり、何か恋愛に対する全員の合意(=客観的合意という)が必ず存在するという思い込みを生む。必ず存在するという思い込みは、同時にその議論の参加者に「恋愛はあるんだよ!」という先入観を植え付けることになりやすい。

先入観がある議論が曖昧になりやすいのは言うまでもないよね。「あれ? なんか自分、何を話しているのかわかんない……」ということが起こるわけだ。
「恋愛とは何か」という問いから、「あれも恋愛、これも恋愛、うーん全部恋愛!」みたいなことになりがちなのはそういう理由からなのだ。

(※もちろん、「恋愛はない」と決めつけることも同じことである。「恋愛は○○だ」という思い込みがなければ、恋愛を完全に否定することはできないはずだ)

エポケーを実行することで議論が活性化する!

ここまでで、「○○とは何か」が必ずしも良い質の議論を生むわけじゃないということを説明してきました。
じゃあ、実際どうやって話し合っていけばいいの? ってところを紹介していきます。

経験を抜き出せ!

フッサールは、エポケーを「よく分かんないけどとりあえず判断を保留にしちゃおう!」という意味で使っている。
これの最大の利点は、「○○があるという先入観をなくす」ということなんです。

てことで、試しに「恋愛」について考えてみよう。
ここで「恋愛とは何か」と問い始めると、「恋愛は存在する」という先入観が生まれるんだった。ここで、エポケーを使うと、

「恋愛があるかどうかはとりあえず置いておこう。じゃあ、みんなが恋愛していると思うときってどんなとき?」

こうやって聞いてみると、結構具体的な経験を聞くことができる。
例えば、「心臓がどきどきしているとき」とか「相手の人と一緒にいて幸せだなと感じるとき」と言った感じだ。もちろん「僕はまだ経験したことない」と言った意見もありである。

そんな感じで、経験をたくさん出していけば、経験の共通点なり分類などを行うことができる。
短く言えば、「『恋愛そのもの』を語るのは無理だけど、『恋愛をしていること』は語れる」というわけだ。

こうなれば、会話の盛り上がりは決定事項であるように思う。
「こんなときも恋愛っぽくていいよね」とか「あの場所で恋愛するんだったらどうだろう」とかと言った経験の話につながっていくはずだ。

ただし、みんなちがってみんないいにはならないように!

ただ、経験の話をすると必ず訪れるのが、「みんなちがってみんないい」だ。
同じ経験を部分的に共有することはあっても、完全に同じ経験をしている人はいない

例えば、「恋人岬で鐘を鳴らした」ことのある人は何人かいるだろう。でも、その中で「お化け屋敷に入ってドキドキした」という体験をした人が何人いるかというわけだ。
いくつもこうやって経験を出していけば、完全に一致することは稀であることが分かる。同じ人間は一人としていないのである。

そうなると、「恋愛すること」に関して完全に同意する機会はほとんどないということになる。
「鐘を鳴らすのはわかるけど、お化け屋敷でドキドキはないわー」とこんな感じだ。

こんな感じで議論が平行線をたどった瞬間に、「みんなちがってみんないいよね。恋愛は人それぞれなんだよ」という意見が出るだろう。
しかし、忘れてならないのは、僕たちは今まさしく「恋愛」の話をしているのであって、恋愛が完全に人それぞれで、誰も共通の合意がないのであれば、この議論はまさしく無意味だったと結論付けてしまうことになるのである。

この、絶対主義(絶対だと決めつけること)の思い込みこそエポケーされなければならない。
簡単に言えば、「みんなちがってみんないい」という意見を出すことそれ自体も「一つの経験」でしかないというわけだ。
「ははっ、お前の魂胆は分かってるぞ! 早く帰ってユーチューブを見たいだけだろ!」と反論したらもしかしたら楽しいかもしれない。

経験はほとんどの場合方向性を持っている

みんなちがってみんないいの何が問題だったか。繰り返すとそれは、「恋愛の話をしているのに、ほとんどそれを無視した結論を出してしまう」ということだ。

恋愛の話をみんながしているということは、「恋愛ということ」に対して、興味を持っている、好きである、疑っている、憎んでいる、考えていると言ったようにある一定の方向性を持った態度を持っているということである。
この方向性をバラバラに考えてしまうのが原因で「人それぞれ」という意見が出てしまうわけだ。逆に言えば、この方向性がどこに向かっているのかを議論していけば「人それぞれ」といった結論にはならないはずだ。

そんなん、どうすればいいの!? それは分からない。けれど、例えば「恋愛しているのがどんなときか」と言う質問だけではなく、「どういう人と恋愛しやすいか」とか「恋愛コンサルタントは何をしているのか」といったことも話し合えばいいわけだ。
こうやってどんどん突き詰めて考えていって、結論は出せずとも一定の方向性を共有しながら深めていく必要があると僕は考えている。

まとめ

以上がフッサールのエポケーの効率的な使い方だ!

簡単にまとめると、

「○○とは何か」と聞くことは、「○○がある」と言う先入観を生みやすい。
だから、「○○」をエポケー(よくわからないけど、判断を保留にしておこう!)をして、「経験」に立ち返る。
その際「みんなちがってみんないい」みたいな結論を出さないように注意しよう。いっぱい話し合って、一定の方向性を共有しながら議論していくことが大切である。

というわけだ。

注意してほしいのは、フッサール自身は必ずしもこういった目的でエポケーを遂行していたわけではないということだ(2
だから、フッサールのエポケーを「なんでもかんでも判断を保留にすること」と理解することは間違っている。

ただ、非哲学者が日常で使う際には、こういう理解でもほとんど問題はないと思っている。
「○○がある」という先入観によって喧嘩したり罵倒しあったりするという場面が今の社会ではあまりに多いんじゃないかと思うことがある。そのときに「エポケー」という方法を知っておけば便利だろうと考えられるからだ。

このエポケーが少しでも日常の悩みに対するヒントになれば幸いです!

参考文献

(1 エポケーは本来「判断中止」の意味で使われていた。例えば、古代ギリシアの懐疑論者は「何一つ決定的な判断はできない」と言う意味でエポケーを用いていた。デカルトやフッサールは「判断はできない」という立場はとらなかったという点で、懐疑論者とは違う立場だと言える。
 
(2 フッサールは経験的自我から超越論的自我へと至る道(デカルト的道)としてエポケーを遂行する必要があると論じている(と言われている)。超越論的主観の問題は「経験的主観を超越する!?カントの「超越論的主観」とは⑧」で書きました。
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