具体例をただ上げることの気持ち悪さ

スポンサーリンク

具体例が正しければなんでも正しいと言われることの危険さ

「そういうことです」のヤバさ

「これはおかしいじゃないか!」
と、いう言葉に対して、

「あなたは、○○のときも同じことを言いますか? そういうことです」
などと返す風潮がある。

Twitterでも、適当なスクリーンショットを添付して、「そういうことだぞ」の一言で晒し上げ、何かの意見を言った気になる。

「なにが、どういう理由で『そういうことだ』と結論付けるに至ったのですか?」と聞き返しても、具体例を挙げたことですべてを説明した気になっているから、まともに取り合おうともしない。

そういう風潮はひとえに、「具体例を言えば何でも許される」という思い込みからなる。もちろん、ある意見を言うのに、具体例をつけるのは必要なことである。この記事も、具体例から説明しようとしている。

しかし、具体例はあくまで、「十分条件である」という認識をもって利用することが大事だ。具体例が正しいからと言って、意見が必ずしも正しいとは限らない。
世の中には、具体例にそぐわない例、つまり例外がほとんどの場合に存在する。だから、全ての人間に言える意見を言うのは不可能でも、できるだけ具体例を一般化して、対象を広く持てる意見へと理論を組み立てていくこと(≒敷衍すること)が大事だ。

そもそも、「十分条件」とは?

十分条件とは、二つの集合A,Bがあるとき、「Aならば、Bである」という命題が真であるときのAの集合のことである。
例えば、「りんごであれば、くだものである」は誰が見ても真であるので、りんごは、くだものであることの十分条件ということができる。このとき、くだものは、りんごであることの必要条件である。

何かを結論付けるとき、本当はできるだけ必要条件でなくてはならない。なぜなら、結論に例外はあってはならないからだ。
例外があれば、その結論には必ずほころびがある。しかし、現実にはそううまくいかないわけである。ってことで、具体例をたくさん集めるわけである。具体例とは、十分条件だ。だけど、たくさん集めればいつか必要条件になるだろう、という流れである。

具体例をぶつけ、感情論に持っていく

しかし、しばしば、論じられる事柄があまりにも大きすぎて、その理論を成立させていく条件をすべてかき集めることができなくなることがある。
例えば、「日本人のダメなところ」とか、「女性問題」とか、「就職氷河期」などといった話題がそうだ。あまりにも複雑な条件が絡んでいて、その一側面さえ捉えることが困難な話題を問題にしようものなら、たちまち返り討ちにされてしまうであろう。

そこで、便利となるのが、「感情論」である。
簡単に言えば、「これをすれば、君は当然こう思うでしょ。だから、これは正しい」と相手を説得する技法である。
あるいは、「個人的には~だと思う」などとして、相手に共感を求め、その共感をエビデンスとして論を固めていく。

これをすれば、具体例によって足りない部分を簡単に埋めることができる。
人は、見たもの、聞いたものを直感的に正しいとするバイアスを持っている。だから、具体例がリアリティを持って実感できれば、少しくらい正しくない部分があったとしても、それを正しいと信じることができる。
例えば、「愛」なんかは、人間のそんな性質でもって支えられてきた概念である。嫌なところが垣間見えても、自分に誠実な一面を持っているから彼を信じることができる。それでうまくいけば、結果的にバイアスが良い方向に働いているといえる。

感情でもって例外を除外する

感情論の怖いところは、共感できないとしてそれを拒んだ時である。「普通はこう思うだろう」というところで論を固めようとする意図があるために、それを拒まれれば「普通じゃない人とは話したくない」ということになるわけである。

そういった世界では、「それは私にはわからない」が通用しない。もしこれを発言しても、「この人は違う世界に生きている」と、自分の世界から排除されるからだ。
一見、相対主義のように思えるが、「自分の世界から排除する」とはすなわち、相手には相手の文化があるということを認めるというわけではない。むしろ、自分の世界では「死んでいる人間」であると決めつけ、なかったことにしている点で絶対主義だと言えるだろう。

人は見たり、聞いたりすることは信じると言ったが、逆に信じられない存在を、まともに見たり、聞いたりすることはできない。
だから、「普通はこう思うだろう」にそぐわない存在がいれば、その存在を否定することしかできないというわけである。

このような、自己中心的にも見える説得のやりかたが、僕には気持ち悪く感じるというわけだ。この説得が正当化されてしまうと、人はほとんど感情でしか会話することができない存在となっていくだろう。


実は、僕もこの「具体例」を挙げ、それを無理やり一般化し「感情論」に持っていくという手法を用いている。ぶっちゃけ言えば、今のところそれしか意見の表明の方法が思いつかない。

この文章を書いてみて思ったが、この気持ち悪さは自己中心性以上に、自己嫌悪に端を発しているように思う。
ここまで書いたとおり、このような論の運びでは、必ず議論に限界をきたす。だから、「具体」から「抽象」への転換をもう一度考え直さなければならないと、僕は思う。

スポンサーリンク




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク