1ページ読書実践編第五頁:島崎藤村『破戒』①

斯ういふ言葉の中には、真に自身の老大を悲むといふが表れて、創意のあるものを忌むやうな悪い癖は少許も見えなかつた。そも/\は佐渡の生れ、斯の山国に落着いたは今から十年程前にあたる。善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな猛烈な気象から、種々な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗め尽して、今は弱いもの貧しいものゝ味方になるやうな、涙脆い人と成つたのである。天の配剤ほど不思議なものは無い――この政客が晩年に成つて、学もあり才もある穢多を友人に持たうとは。

島崎藤村『破戒』

今回は島崎藤村の『破戒』です。

この作品も受験知識としてしか触れる知識がありませんでした。島崎藤村は、この『破戒』という作品で自然主義文学の代表者として高い評価を受けることになるそうです。

島崎藤村自身は実に恋多き人生だったようで、教え子に対する片思い、姪との禁断の愛……など様々な恋が彼の文学に大きな影響を与えています。
また、身の回りの人も非常に不幸な運命を遂げているようです。彼の文学に特に影響を与えたのは、文明開化への反対運動を起こして牢死した父と、教師職を斡旋してくれたが自身は自殺した北村透谷でしょうか。

この時代の多くの人は、本当に波瀾万丈な人生を送っているんですね……。
恐らく、文明開化による思想の激動が、繊細な文学人を強く刺激しているせいもあるんでしょう。
ということで、今回はそんな時代の代表的人物である島崎藤村の『破戒』の1ページを読んでいきましょう。

島崎藤村『破戒』を読んでみよう!

この作品は、文語体で書かれています。なるほど、なかなか読むのに骨が要りますね。
見た感じ、語彙も難しそうです。

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とりあえず、眺めてみた。

正直な話、僕の読解力程度のレベルでは、この1ページがいったい何を言っているのかさっぱりわかりません。
ある人がいて、めっちゃ優しくて、だけど善やら悪やらに勝ったり大罪を犯して牢獄にいたり、出てきたら弱い人や貧しい者の味方になるような涙もろい人になっていたり。

しかし、こうして「書いてみる」と、これはある人の人物描写なんだなということがわかる。
「書く」という行為は不思議なもので、眺めているだけでは全く読めなかったものが、一生懸命筆を動かすことで何かとっかかりが見えるということが多分にしてある。

この場面で行われている動作を想像する

「ある人の人物描写」が大半であるということが分かると、次第に「この場面で行われている動作」がどれかが見えてくる。

この文章の動作は実に単純だ。該当箇所を抜き出してみたい。

斯ういふ言葉の中には、真に自身の老大を悲むといふが表れて、創意のあるものを忌むやうな悪い癖は少許も見えなかつた。

「斯ういう言葉」の内容は恐らくこのページの前を見ないと分からないだろう。だが、ここから「ある人が誰かに何かを言っている」という動作は想像できるはずである。

「斯ういう言葉」の雰囲気をつかむ

この言葉の具体的内容は想像できなくとも、その内容の印象は書いてあるのでわかる。

「自身の老大を悲む」とは、恐らくもう年老いているであろう「ある人」が、自分の老いを悲しんでいるということである。
なんで悲しんでいるかと言えば、「創意のあるものを忌むやうな悪い癖は少許も見えなかつた」とあることから、自分はもう「創意あるもの」ではないという諦念なのだろうと予測できる。

相手は自分とは違って「創意あるもの」と評価されているわけだから、恐らく若者なのだろう。
「創意」とは多分「自分で何かを作ろうとすること」と言う意味であろう。そういえば、若者のこういったチャレンジ精神は、しばしば「若気の至り」とか言われて馬鹿にされる。
特に、たかが二歳年上の先輩とかが、「最近の一年生は元気があっていいねぇ」などと言って「それに比べて自分は大人になった」と暗に匂わせてくるような場面によく出くわす。

きっと「悪い癖」とは、この「若者を馬鹿にする年上の悪癖」のことなのだろう。
「ある人」はこうした悪癖を持っていなかった。「真に自身の老大を悲む」に、「真に」とあるのは、自分は年老いてしまったんだという実感が純粋にその言葉にはあったというということだろう。

それと同時に、「ある人」は相手の「創意」に心の底から「共感」していると、そういう風に読めるのではないだろうか。以前は自分もそうだった。「ある人」は相手に「昔の自分」を見ている。
だから、「真に」老いを悲しむ言葉に聞こえたんだと思う。「ある人」は、しっかりと過去の自分の思い出に真正面から向き合っているというわけである

「真の老人」の言葉

昔は気性が荒かった人も、年を経れば丸くなるといったことがもう既に割と僕の周りにもある。

このあいだ、小学校のクラスで同窓会があった。僕の小学校は、クラスのほとんどが同じ中学校に進学する。その中で僕は外部へ受験したため、みんなとは一足早くお別れするという形となった。
いわば、ほとんど転校と同じようなものである。

ただ、地元の中学は荒れに荒れていて、違う中学に通っていた僕の耳に届くほど学校が崩壊していたようだ。だから、そこに通っていた同級生たちは地元にあまりいい思い出がなかったようで、同窓会なんてものはほとんど開かれなかった。
僕は、同窓会というものを楽しみにしていたから、こういった現状にいささか悲しみを覚えていたというわけである。

こういう状況で初めて開かれた同窓会だったから、僕は結構うれしかったことを覚えている。
いざみんなと対面してみると、10年も経っていたから全然見わけが付かない。ただ、名前を聞いてみると、少しだけ面影が残っているのが分かったりして、思い出の中の人物と一致させることが非常に快感だった。

そんな中で印象的だったのは、クラスの暴れん坊だった人が、所帯を持っていたことである。正直な話、僕もそいつの暴力の被害を何度かこうむっていたため、「こんなやつが!?」と最初は思ってしまった。
しかし、話をしてみると、丸坊主だった頭がふさふさになっていただけでなく、中身まで丸くなってしまっていたことが分かったのである。

「俺、今でも昔の友だちに合うと『あの時はやばかったよな』と声をかけられることがあるんだ。本当に昔はやんちゃだったからな。その度に、昔のことを少し後悔するんだ」

「そうなのか。正直俺も変わったなぁなんて思っちゃったよ。ごめんな」

「いいよ。あのときに振るった暴力が今でもチャラになるだなんて思ってない。だから俺はこういった後悔をずっとしなくちゃいけないと思ってる。その代わり、二度と同じ後悔をしたくないから、自分の嫁は大切にしていこうと思ってさ。そういえば、あと少しで子供が生まれるんだ……」

彼の言葉は、僕よりもずっと大人だった気がする。分からないけれど。なるほど、「真の老人の言葉」ってこのことなんだろうなって感じる。
彼は決して老人ではないが、「過去の思い出に真正面から向き合える」のは、老人だけなんだろうなって僕は思う。そういう意味で、彼は立派な老人だろう。


過去の思い出に真正面から向き合うにはどうしたらいいのだろうか。「真の老人」になるのは何歳だっていい。
「真の老人」の言葉は、心を打たれるものがある。島崎藤村の『破戒』からもっとヒントを得たいと思う(そういう話じゃない可能性の方が高いが(笑))

続きは、長くなりそうなので違うページで!

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