1ページ読書実践編第五頁:島崎藤村『破戒』②

斯ういふ言葉の中には、真に自身の老大を悲むといふが表れて、創意のあるものを忌むやうな悪い癖は少許も見えなかつた。そも/\は佐渡の生れ、斯の山国に落着いたは今から十年程前にあたる。善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな猛烈な気象から、種々な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗め尽して、今は弱いもの貧しいものゝ味方になるやうな、涙脆い人と成つたのである。天の配剤ほど不思議なものは無い――この政客が晩年に成つて、学もあり才もある穢多を友人に持たうとは。

島崎藤村『破戒』より引用

島崎藤村の『破戒』を読もう!続編

前回の続きです。
前半は二行くらいしか読めませんでしたので、今回は残りをバーッと読んでいきたいと思います。

今回の文章は、老人である「ある人」の人物描写がメインです。現代の小説にはこんな記述はないんじゃないかってくらい事細かく書かれています。
今の小説でこれをやれば、きっとくどくなっちゃうんじゃないかなぁ。これも、文語体の強みですね。

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人物描写を読もう

そも/\は佐渡の生れ、斯の山国に落着いたは今から十年程前にあたる。善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな猛烈な気象から、種々な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗め尽して、今は弱いもの貧しいものゝ味方になるやうな、涙脆い人と成つたのである。

とりあえず、現代語訳(できるだけ)

「そも/\は佐渡の生れ、斯の山国に落着いたは今から十年程前にあたる」:最初は佐渡に生まれた。この山国に住むようになったのは今から十年ほど前になる

「善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな猛烈な気象から」
ここは、適切な日本語訳が分かりませんでした。が、雰囲気は読めます。
「善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな」は「猛烈」という言葉の強調表現だと考えられるので、この二つはほとんど同じ意味でしょう。「気象」は「気性」のことだと思います。

しかし、折角なので調べてみましょう。「善に強い者は悪にも強い」はデジタル大辞林にありました。「善を熱心に行う者はいったん悪に向かえば、悪をも熱心に行うものである」と言う意味だそうです。
「ある人」は、本当に「猛烈」な性格だったことがここからうかがえます。日本語訳をしてみると「善にも強ければ悪にも強いというような激しい性格なので」という感じでしょうか。

「種々な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗め尽して」:様々な人の世の苦しみ、長く携わった政治での経験、権勢の争奪、党や派閥の栄枯の夢、または国事犯として入れられていた牢獄の中での辛い日々、その他多くの訴訟人と罪人の弁護、すべてのありとあらゆる社会の酸っぱい部分と甘い部分を舐め尽くして

「今は弱いもの貧しいものゝ味方になるやうな、涙脆い人と成つたのである」:今は弱い者や貧しい者の味方になるような、涙もろい人となったのである

ということでまとめてみよう。ちょっと風情がなくなったのは勘弁してほしい。

最初は佐渡に生まれた。この山国に住むようになったのは今から十年ほど前になる。善にも強ければ悪にも強いというような激しい性格なので、様々な人の世の苦しみ、長く携わった政治での経験、権勢の争奪、党や派閥の栄枯の夢、または国事犯として入れられていた牢獄の中での辛い日々、その他多くの訴訟人と罪人の弁護、すべてのありとあらゆる社会の酸っぱい部分と甘い部分を舐め尽くして、今は弱い者や貧しい者の味方になるような、涙もろい人となったのである。

気性の激しい人間

前回の記事では、「ある人」は昔の「創意あるもの」であった自分を思い浮かべて共感しているのだろうと想像しました。
なるほど、これだけ激しいことを過去にしていたのであれば、真正面から向かうべき思い出はたくさんあるでしょう。

政治に携わったり、牢獄に入れられたりと言う経験は、明治時代ならではの思い出だと思います。近代になって文明開化をさせられ、一気に西洋文化を受け入れさせられた日本で、変形と抵抗を繰り返していた状況で、人の生活は激しさを免れなかったと思います。

最近では、ここまでの人はいなくとも、これに近いような人間はいますよね。「目の前に困っている人がいれば助けずにはおられない」と言うような熱い人間。善であっても悪であっても確信犯的にやってのける。敵も味方もどちらも多い。Twitterなんかでフォロワーの多い人は、大体こんな感じなのではないでしょうか。

波瀾万丈な人生を謳歌した人間の老後生活は穏やかだった……かと思いきや、行動力がなくなっただけで「涙もろい」性格だけが残ったと、そういうわけだそうだ。
この1ページは比較的前半部分に位置しているが、この人物がいったいどういう事件に巻き込まれていくのか非常に興味がわいてくる。

この興味は、次の一文でより一層高まる。

この人にどんな友達ができたのか

天の配剤ほど不思議なものは無い――この政客が晩年に成つて、学もあり才もある穢多を友人に持たうとは。

天の配剤の不思議さ

「天の配剤」とは「善には善果、悪には天罰というように、天は物事を適切に配するということ」です。「因果応報」とちょっと似たような言葉でしょうか。

島崎藤村の『破戒』の話を、実は先日の読書会で(偶然!)聞いたのですが、この話はどうやら部落差別の社会をテーマにした作品だそうです。
「穢多」とは、江戸時代における身分制度である「士農工商」の中に入らなかった集団のことをいいます。彼らの職業は「穢れの多い仕事」が多く、死んだ牛馬の処理や罪人の処刑をやっていたといいます。
また、「穢多」の人たちは特定の地域にまとめて住まわされ、その場所は現在でも「部落(名前自体は廃止されている)」と呼ばれ、差別が残っているそうです。

「ある人」は、「善にも強ければ悪にも強い」といった性格から「目の前で困っている人」のために政治運動を起こしているような人でした。
明治時代では、「穢多」の人たちは「新平民」と名前を変えることになりますが、依然として民衆の差別意識は強く、おそらく政治運動の中にこの人たちのために動いていたということもあると思います。

だから、「ある人」が、「穢多の友人」をもったのは「天の配剤」とも呼べるものであるわけです。
しかも、「穢多の友人」には「学もあり才もある」……。これは、なにかしら事件が起こるに違いがありません。あるいは、もう事件が起こっていたりするのでしょうか。これは最初から読んでみないと分かりません。

「天の配剤」は何故あるのか

最後は少し本文から離れてみましょう。天の配剤、因果応報、身から出た錆……。「自分の行いが巡り巡って自分に返ってくる」といった類語が日本にたくさんあるのはいったいなぜなのでしょうか。

特に「因果応報」という言葉は、仏教由来の言葉でインド周辺から輸入されてきたことが想像できます。ただ、今回は歴史的な経緯について触れるのは避けておきます。

実は心理学でもよく議論されるバイアス(偏見)の一つに、「公正世界仮説」というものがある。
簡単に言えば、「良いことをした人には、当然良いことが起こるはずだ」という推論のことを言います。
通常はこれが変形して、「悪いことが起こった人は、当然悪いことをしていたんだろう」という感じで使われることが多いです。

例えば、ある女性が痴漢などにあったときに、「痴漢をされるってことは、その女が誘ったんだ。だから、その女も悪い」みたいなことを言う人は、このバイアスに判断がゆがめられています。
痴漢というのは、本人がどんな格好をしているかなどにほとんど影響がないことが分かっており、「女性にそういった意図があるかないかに関わらず」痴漢は起こり得るというわけです。

もちろん、この偏見を意識して避けるのはかなり困難を極めます。基本的に、東洋文化(日本を含むアジアなど)を持っている人に強い傾向があると言われていますが、基本的には全世界共通のバイアスです。

「かわいいから痴漢されたんだよ~」という慰めは更にひどいです。この人には、「かわいい」が悪い意味でインプットされていることが予想されます。
「かわいい」やつは、「普段はちやほやされている」から、「悪いことが起こる」という判断になっているといえるのではないでしょうか。

こういった心理的なバイアスがある以上、「天の配剤」といった言葉があるのは自然なように思われます。このバイアスは一方で、「悪いことが起こるから、悪いことはしないようにしよう」という態度を持たせることも知られています。
これが暗黙のルールとなって、大勢の集団であっても悪事が普通考えられるよりもずっと少ない状態でキープ出来てきたのでしょう。


いかがだったでしょうか。『破戒』は文学者の間では「問題作」と呼ばれているそうです。「部落差別」の捉え方が、当時差別反対運動をメインで行っていた「全国水平社」と異なっていたことから言われているそうです。

ただ、今回の1ページ読書から、島崎藤村の表現が本当に豊かであることが伺えたと思います。俄然読んでみたくなりました。

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