沖縄県の「イデオロギーよりアイデンティティー」とは何か?

沖縄県の「イデオロギーよりアイデンティティー」とは何か?

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イデオロギーとアイデンティティ

最近、翁長前知事が亡くなられたことで、沖縄県知事選が行われることとなった。
そこで、翁長前知事が繰り返し唱えていた「イデオロギーよりアイデンティティ」という言葉が再びメディアに取り上げられるようになった。
しかし、おそらく「イデオロギー」という言葉は、あまり日常会話で使われることはなく、また、調べてもよく分からない言葉であるように思う。

なので、今回はこの「イデオロギー」という言葉を解説していきたい。そして、イデオロギーではなくて、アイデンティティが重要視されることがどのようなメッセージ性を持つのかを考えていきたいと思う。

イデオロギーとは?

イデオロギーとは、短く言えば「特定の団体や集団の政治理念」のことをいう。
かみ砕いて言えば、政治的な文脈における「この集団はこうあるべきだということを暗に示すような考え方」のことをイデオロギーと呼ぶ。

例えば、こんな風に使われる。

僕たちは、他人よりもお金を持っていることに美徳を感じている。だから、他人よりも短い時間で多くのお金をもらえるような仕事につこうと、日々頑張れる。
その価値感が普通になったのは歴史的に見ればごく最近である。その背景には第二次世界大戦後に日本が敗戦して、アメリカの資本主義的な経済が流入したことがある。

資本主義経済の元では、僕たちは一個人として自由な売買が守られる。自由に商売ができるのだから、他人よりも金を稼ごうという競争原理が生まれる。
だから、他人よりもお金を持っていることに美徳を感じるようになるのである。つまり、資本主義は、「他人より金を稼ぐのが偉い」というイデオロギーを持っているというわけだ。

どちらかと言えば、イデオロギーは負のニュアンスを持っている。例えば上の文章では、「本当に他人より金を稼ぐのはえらいのか?」と、イデオロギーを反省的に見直そうとするような意図が隠れているように読める。

現在の日本では、比較的給料が少ない職業(例えば、保育士や多くの技術職など)の給料を上げる必要性が叫ばれていたりする。それは、資本主義が持っていたイデオロギーによって格差が拡大していることに対する反発なわけである。
「金をたくさん稼ぐのが偉い」というイデオロギーは見直されるべきだ、とそういう感じで、この言葉は使われる。

イデオロギーという言葉の使い方

イデオロギーという言葉は、前述したとおり、政治的な文脈において使われる言葉である。
というのも、イデオロギーという言葉は、しばしば社会問題として扱われることが多かったからである。
だから、イデオロギーという言葉が日常会話で使われることはあまりないだろう。

ただ、僕個人としては、こんなに便利な言葉を、政治的な文脈に閉じ込めてしまうのは何となくもったいないと思う。
そこで、イデオロギーを、「この集団は、こうあるべきだという無意識な考え方」として、今回は色んな箇所で使ってみようと思う。

例えば、男子集団で、恋人にするなら誰か、という話をしていたとする。一人が、「あの子と付き合いたい」と言ったときに、誰かが「え、あいつブスじゃん」と言ったとする。
え? ブスで何が悪いの? というわけだ。そこには、「付き合う恋人は、可愛くなくてはならない」というイデオロギーが存在すると言えるわけである。

このように、「ある価値観が前提となっている場」でイデオロギーは存在しやすい。例えば、ダーツには酒が合うとか、野球部は頭を丸めるとか、そういったものもイデオロギーの一種だと言える。

自分が無意識にイデオロギーに従ってはいないだろうか。実は、イデオロギーを疑うことが、哲学の営みとして重要になる。もちろん、「イデオロギーを疑うのが哲学だ」という考え方も、一種のイデオロギーではあるのだが。

イデオロギーよりアイデンティティの意味は

イデオロギーという言葉が、頭に馴染んできたところで、「イデオロギーよりアイデンティティ」という言葉の意味について考察していきたい。
ただ、今回は「沖縄の歴史」や「政治運動」という文脈はなるべく考慮に入れず、言葉そのものが持つ意味を考えていこうと思う。政治的な意味が知りたいのであれば、別に調べていただきたい。

アイデンティティは、最近日常会話でもよくつかわれる言葉なので、詳細は省きたい。簡単に言えば、「自分が自分であると言えること」という意味である。
例えば、「僕のアイデンティティは、この本にある」と主張したとき、その本に書かれている内容が「他の誰でもない、僕自身を表している」という意味になる。

通常、アイデンティティを主張するのは難しい。というのも、アイデンティティはいくつかの要素が複雑に絡まって形成していることが多いからだ。
例えば小さい頃の記憶だったり、故郷だったり、友人の存在だったりする。複雑な文脈が、その人を確固たる存在たらしめる。

だからこそ、アイデンティティは、その対象にとって揺るぎないものとなる。深く刻まれたアイデンティティから発する意見は、誰にとっても軽視できるようなものではない。
「それは小さなころからとても大切にしていたもので、かけがえのないものだから、それが欲しい」という人から、平気でそれを奪うことはできない。

一方で、イデオロギーは「わがまま」のように聞こえてしまいがちだ。それは、アイデンティティと違って、「その人自身を表す」という文脈が抜けきっているからである。

例えば、「リンゴ農園を経営していて小さなころからリンゴを好きだった。だから食べたい」という欲求はアイデンティティに端を発していて説得力がある。
一方で「リンゴを食べているやつは凄い。だから食べたい」というのは、自分が何であろうと関係なく(自分の文脈に依存することなく)「凄いやつなりたい」というイデオロギーが垣間見える。

そうなると、「別にリンゴじゃなくてよくね?」という話になりやすい。だからなんとなく、わがままに聞こえてしまうのである。

アイデンティティは、その人、その集団の存在が左右する。だからこそ本気なのである。
「イデオロギーよりアイデンティティ」というメッセージには、「わがままで終わらせるのではなく、存在そのものをかけた戦いに身を置く」といった内容が含まれているのではないだろうか。

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