「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
夏目漱石『草枕』より引用
夏目漱石『草枕』の1ページを読む
初回は、「1ページ読書」のきっかけとなった場所を読んでいきましょう。
散文的になって読みづらい部分もありますが、ご容赦ください。読書体験を伝えるのが目的なので、雰囲気をつかんでいただければと思います。
まずは一読
文章を見渡した感じ難しい単語もそこまでなく、意味は分かりそうだったので、まずは文章を一読しました。
なるほど、「小説を読んで楽しむこと」を「人に惚れること」に例えているようです。
この具体例は分かりやすさよりも、なんだかこの会話の相手と楽しんでいるような印象を覚えます。
「話をするのも面白い」「毎日話をしたいくらい」「惚れこんでもいい」と思わせぶりなことを言いながら、「夫婦になる必要はない」などと距離感を気ままに言っているところが、なんともいじらしい。
ちょっと意地悪な言い回しをしつつも、自分の読書論を展開して相手に納得させる。僕もこんな話術がほしいなあ、なんて思ってしまいます。
夏目漱石の読書論
彼の読書論は、「小説なんか初からしまいまで読む必要はない」ということです。その根拠に「画工だから」と言っているが、その意味はこのページからは分かりません。
ただ、絵を描くような人間は、小説を最初から読まなくてもいいのでしょう。絵を描く人には、なんでも楽しめるような気質でもあるのだろうか。
小説は、「どこを読んでも面白い」のだそうだ。よく考えれば、小説を「人」とたとえて考えてみると色々と分かると思います。
僕らは人と話すと、ある一定の感想を得ます。「楽しい」と感じることも少なくない。しかし、ほとんどの場合僕らは相手がどんな人間だかわかっていません。
例えば、相手がどこでどんな風に生まれたのか。どんな家庭で、どのような場所で育ったのか。相手が何を考えていて、何が目的で自分と話しているのか、分かっているときはあるのでしょうか。
その一部分は分かっているかもしれない。しかし、それは到底「全て」ではありません。なのに、話していて楽しい。
それは小説も同じです。小説は、主人公や登場人物が過ごしている日常風景の一部を切り取って作品にしたものがほとんどです。
ある人物の人生全てを作品に収めることは不可能で、なんかしら省略されている。だから、僕らは永遠に主人公に関する「全て」のことは分かり得ません。しかし、僕らは小説を楽しむことができる。
そう考えたとき、「人」も「小説」も非常によく似た構造を持っていることが分かります。そうであるとき、「小説は最初から最後まで読まなければ、おもしろくない」ということがどんなに変なことかわかると思います。
小説を最初から最後まで読まなけれなならないのであれば、僕らは友達なんかできっこないでしょう。相手と、誕生から臨終まで共にしなければおもしろくないのですから。
しかし、その態度はある意味誠実でもあります。相手を分かろうとする気持ちは、親密なコミュニケーションを取るうえで非常に重要です。
だから、結婚を視野に入れている場合は、小説は最初から読む必要がある。最初から最後までお付き合いする必要があるというわけです。
「逗留」とは?
平板な単語が並ぶ中で、唯一意味が分からないのが「逗留」です。
ただ、「ここへ逗留するうちは」といった文脈なので、きっと「滞在」を意味するんだろうなぁって感じなのはわかります。
しかし、僕はこの本を読んでいないため、この発言者がどのように、どんな理由で滞在しているはかわかりません。
画工を自称しているし、ろくでもない読書論を語っているし、きっと着の身着のままで過ごしているんだろうなぁなんて偏見はありますが。
神奈川県「逗子市」の「逗」
さて、この「逗」の字。実は僕はこの「逗」にとても親しみを覚えています。
僕は横浜市出身なのですが、その隣に「逗子市」というものがあり、僕自身もよくいくのでとても頻繁に見かけます。ただ、この「逗」が何を表すのかということは考えたこともありません。
逗子市は、鎌倉市にも近く、非常にのんびりとした印象のある街です。逗子駅からすぐ歩いていけるビーチは砂浜が広く行き渡っていて、太平洋が一望できる眺めの素晴らしい場所です。
それを裏付けるように、夏になれば観光客であふれ、盛り上がりを見せます。驚くべきは、冬であってもヨットやサーフィンなどのウォータースポーツをしている人が散見されます。
逗子のビーチは、多くの人に愛されていることがわかります。
「逗」は留まるの意
とどまる。しばらくその場所にいて動かない。
goo辞書より引用
いつまでもイメージで語るのは良くないと思って調べました。なんと、「逗」の字にも「留まる」という意味があるそうです。
そうしたら「逗留」とは、とどまり過ぎなのでは……? もはや、寝ているだけだったりして。本の読み過ぎで、その土地と同化してしまう人を僕は見たことがあります。果たして、逗留の意味は、めっちゃとどまりすぎている状態を言うのだろうか……。
旅先などに一定期間とどまること。滞在。「湯治場に三か月間逗留する」「長 (なが) 逗留」
その場にとどまって進まないこと。また、1か所でぐずぐずすること。
- その場にとどまる時間。ひま。
全然違いました。裏切られたような感じです。同化するまでではなさそうです。
旅先に一定時間とどまるとは、なんだか楽しそうです。一つの所に住み込むのではなく、色んな場所に気まぐれに訪れて、自分の好きなことをして過ごす。現代社会ではほとんどあり得ない光景でしょう。
みんながみんな「逗留」を結構していたら、日本社会が破裂します。
これは余談ですが、この「逗」の字、中国語で検索をすると次のような意味が出てきます。
- からかう,いたずらする,ふざける.
- (子供などを)あやす.
- 引き起こす,誘う,招く.
- 面白い.
白水社 中国語辞典より引用
いやあほんと、おもしろいですね。「とどまる」とは全く違うニュアンスが出てきました。
しかし、あながちイメージと違うものでもなさそうです。この発言者、「逗留」しながら、女性を「からかって」遊んでいます。
夏目漱石がそれを狙ったのかどうかは分かりませんが、おもしろい一致だと思います。「何なら惚れてやってもいい」なんて、「别逗!(からかうな!)」です。
1ページから、色んな発見がありました。なるほど、初めから終わりまでこの小説を読んでいたらできないような、新たな読書体験があったように感じられます。
また気が向いたら、草枕から1ページ読書をしようと思います。例えば、「画工」がなんなのかが分かると、この1ページの読みがもっと深まるんじゃないかなぁ。