文学とは既存のストーリーをぶち壊し新しく創造するものである

「なぁ、ドアを開けるとき、開けるか閉める、どっちのボタンを押せばいいの?」

僕は、エレベーターのボタンを押すときに、いつも迷う。「ばかだなあ」と思われることを知っていても、やはり聞いてしまう。

「なんでいちいちそんなこと聞くんだよ」

「あ? だって、開けるボタンを押してドアが閉まるかもしれねえじゃんか。そうなったら責任とれんのか?」

責任も何も、「開けるボタン」を押して閉まるわけがないだろと、友達は呆れる。
本当にそうか? 「開けるボタン」を押せば扉が開くってなんで分かるんだ?

文学とは、既存のストーリーをぶち壊し新しく創造するものである

スポンサーリンク

社会は「信頼」で成り立っている

常識に案外「理由」はない

僕は、左と右も時々分からなくなる人間だ。「左って、左と右どっちだっけ?」などという意味不明な質問も何度もしたことがある。
だから僕は、テレビゲームが苦手だ。あいつらは人への指示を「L」とか「R」とかで済ませてくる。ただでさえ分からないのに、Left(左)ボタン/Right(右)ボタンなんかで命令されたらテンパるのは当たり前じゃん。

考えたら、「開けるボタン」がドアを開ける理由も、「L」が左を表す理由も、本当はないんじゃないか。そもそも、エレベーターのドアが開くときに、「開けるボタンが押されたので今からドアを開けます」とは誰も言わない。だから、「開けるボタン」が必ずしもドアを開けてくれるとは限らないんじゃないか。
なのに、どうしてみんなは何にも疑わず「開くボタン」を押してドアを開けようとするんだろう?

「信頼」で溢れる社会

答えは簡単である。「信頼」があるからだ。

この社会はあらゆる「信頼」であふれている。僕たちは、たくさんの「はず」に囲まれている。
「おはよう」と言ったら「おはよう」を返してくれるはず。レストランで注文をすれば、ちゃんとご飯が来るはず。会社で働けば給料が出るはず。家の鍵を差し込めば、ドアが開くはず。
今この文章を読んでいる皆さんも、僕がちゃんとした日本語を書いているはずだと思いながら読んでくれているんじゃないだろうか。

その信頼は、たくさんの経験によって作られる。「エレベーターのドアは『開けるボタン』で開くはずだ」という「信頼」は、きっとエレベーターにたくさん乗って得た経験から形成されたに違いない。
極端な例を出そう。もし文明のない人間がエレベーターに乗ったら、きっと見たこともないボタンを押すのを怖がるだろう。多分、何人かは「ボタンを押したら開いた」という関係にすら気が付かないんじゃないか。

つまり言い換えれば、あらゆる「信頼」は「なんかよく分からんけど、今までそうだったしこれからもそうっぽい」という感じで成り立っていると言えちゃう。
深く考えなくてもいいじゃん。今までそうだったんだから。これからもきっとそうなるでしょ。信頼に、理由なんかいらないんだよ。

文学とは「ホラー」である

簡単に騙される人間たち

だから、人は簡単に騙されるのである。「信頼するときに理由が必要ない」ということはつまり、「感覚で信じている」というわけだ。理由なき信念は簡単に揺らぐ。一目ぼれでテキトーに付き合い始めたカップルは一体いくつ破滅を迎えただろうか。

もし「開けるボタン」を押してもエレベーターのドアが開かなかった場合、エレベーター会社に騙されたと思うだろう。そのボタンは、「あるべきよう」に機能していない。

「信頼」を叩き壊していく「ホラー」

僕はこの「騙し」を「ホラー」と呼んでいる。なぜなら、「ホラー」は社会で生成された「信頼」を片っ端からぶち壊し、人を騙すものだからだ。
家に幽霊が出てきたから逃げようと思ったら、鍵が開かなかった。安全だと思って街を歩いていたら、突然鉄棒が飛んできて突き刺さってしまった。うーん、これ以上例を挙げるときっと皆さんの日常生活に支障をきたす恐れがあるので、やめておこう。

僕はきっと、日常生活に支障をきたしてしまった人なのだと思う。エレベーターのボタンを迷うのも、左と右が分からないのもきっとそのせいだ。
だから、僕はありきたりのストーリーが読めない。ハッピーエンドで必ず終わりそうな映画を見ても、どこかでバッドエンドのことを考えてしまう。「この流れだと絶対このエンドでしょ」という友達や評論家の話を聞いても全く共感ができない。

既存のストーリーを覆してく「文学」

ホラーは僕から「きっとこうなるはずだ」という観点を抜き去ってしまった。僕はほとんど作家を「信頼」していない。
だけれど一方で、「信頼」していないからこそ見えるものもある。僕は、「文学」はホラーであるべきだと思っている。
文学は既存のストーリーを容赦なく叩き壊す。今まで感覚的に「当たり前」だと思っていたストーリーを根底から覆す。そして、人類が進むべき道を新しく創造する。

例えば、芥川賞を受賞する作品はしばしば一般大衆から「つまらない」という評価を得ることがある。芥川賞と言えば「文学に影響を与えた作品」に与えられるものである。
だが、それは普通に読めば当たり前だ。なぜなら、「既存のストーリーに則っていない」からである。
既存のストーリーに当てはまらない文章は読みにくい。だからものすごく退屈に見える。「信頼」が前提となっている社会では、文学は享受されにくいってわけだ。

だが、読みこめば話が変わる。立ち止まったり考えたりしながら読んでいけば必ず足元を取られる。文学は「ホラー」である。いきなり意味が分からないところから、感性を揺さぶられる。
やがて自分の持っていたストーリーはぶち壊され、ありのままの自分が晒される。
そのとき、文学は既にその人にとっての「新しいストーリー」となっているだろう。そうして、人は新しい自分を手に入れられるわけだ。

文学を一緒に享受しよう!

文学は、ストーリーを受け入れられない人間にのみ、本来の価値を発揮する。
日常生活で当たり前に思われていることに疑問を持つ人、人とちょっと違うんじゃないかと思っている人、自分探しをしてみたい人に文学はお勧めである。僕は文学友達が欲しい。上記に当てはまる人は、ぜひ文学を読んでほしい。

「なあ、いつまで経ってもエレベーター開かないな。ボタン押せば開くんじゃなかったか? なあ、どう責任を取るつもりだよ」

「……。ああ、とるさ」

「ありがと。じゃあさ、俺と一緒に本を読もう」

スポンサーリンク




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク