友達からどのように恋人に変化するのか

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友達からどのように恋人に変化するのか

友達から恋人になるまでの見取り図

「友達だよな」という言葉が、本来はポジティヴなイメージを持つのに、時としてどうしようもないくらい残酷なものとなり得る。それは、「友達」が「恋人ではない」という意味で使われることがあるからだ。
友達と恋人の間には、次元を隔てるような厚い壁が存在する。友達という関係性は、時として恋人関係への移行を邪魔する。友達でありながら恋の感情を持つというのは、辛いものだ。

では、友達から恋人にはどうやって移行するのだろうか。そのプロセスを詳細に分析したい。

友達とは、他人である

さて、友達とは、他人である。僕たちは一人で遂行できないような作業があるとき、友達を頼る。
例えば、友達が他人でないならば、僕らは友達を頼ることはしないだろう。友達が自分のように感じられるのだから、自分に出来ないことは友達にもできまい、と考えるのは自然なことだ。
友達に辛い思いをさせたくないから、自分はもう誰も頼れない、というのは、自己が肥大している証拠である。

※他者性の問題は、「他者」から始める哲学を見よう!

自己の肥大が「類似性」を気づかせる

ただ、もう一方で、自己が肥大する事態が起こることがある。それは、「類似性」である。

何人かに一人、「なんとなくこの人は似ているな」と思うことがある。会話してみれば、話がかみ合って、今までに味わったことがないような快感を覚える。どうやら、相手はなんとなく似ている存在であるらしい。

この場合も、自己が肥大化する。この人は僕と同じなのだと考えることは、すなわち、相手を自己だと思って親近感を味わうことなのである。今までにないくらいに接近してきた友達は、自分の目にはとても新鮮に見える。

他者理解の錯誤がナルシシズムを呼ぶ可能性

ただ、この時点でこの「親近感」を「恋愛感情」と錯誤して、そのまま付き合ってしまったら、高確率で失敗することになる。後述するが、大抵の他人というのは、「相補性」ももっているのである。
それが明らかにならないまま付き合えば、自分で自分を好きになってしまうといったような「ナルシシズム」に、知らずのうちにハマってしまうことになるだろう。
ナルシシズムが裏切られたときに自体が最悪な展開を迎えるのは想像に難くない。「なんで私の言う通りにしないのか」とは、家庭内暴力をする人間の典型的な発言である。

「類似性」とともに存在する「相補性」とは

「相補性」とは、相手が必ず持つ「差異」により、お互いが関係を補って上手くいっている性質を表している。「類似性」で関係が上手くいっているとき、無意識な部分でこの「相補性」が働いているといっても過言ではない。
この「差異」は先ほど説明したように、ナルシシズムを裏切ってしまう契機になる。しかし、ナルシシズムが起こる前に差異に自覚的になることができれば、実は他者理解の大きなステップとなり得るのだ。

親近感でもって急接近してきた相手は、接近すればするほど細かい部分が分かるようになる。この細かい部分で全く一致することは全くと言っていいほどない。
誰に言われることもなく、その人が相手の差異を発見すると、その相手が「他者性」を帯びてその人の前に現前するのである。きっと不気味にすら覚えるだろう。

こいつは誰か、誰なのか。誰か教えてくれ。
きっとその人は、相手の行動がたちまち読めなくなってしまうだろう。デートに誘ったら来てくれるだろうか。好きと打ち明けたら? この人と私は結婚できるのだろうか?

予測不可能な他者である恋人

「他者性を帯びる」とは、端的に言えば「他人である」ということである。好きな人は、他人だ。じゃなきゃ、ドキドキはしないだろう。
これは、付き合い始めても同じである。恋人は、常に他者である。他者だからこそ、一緒にいても飽きることはない。

恋人が他者である限り、相談したり、出かけたりすると楽しくなる。恋人が何の反応を返すかは、予測不可能である。予測不可能であるからこそ、恋人には付き合う価値があるのである。

もちろん、予測可能となっても事態は変わらない。なぜなら、恋人の行動が予測可能であることの根拠が明らかになることはほとんどあり得ないからである。当人たちは、なぜ心が通じ合っているかはわからない。この分からなささは、紛れもなく「他者性」である。

恋人になるとは、信じる責務を負うことである

恋人が他者性を帯びている事態は、結婚しても変わらないだろう。一旦「相補性」を実感してしまえば、相手の「分からない部分」というのはどんどん増えていく。
恋人と一緒にいればいるほど、他人となっていく。恋人であるほど、他人である。

だから、恋人の全てを把握しようとすることが、どんなに不毛であるのだろうか。理解しようとすることは、必要不可欠ではあるが、しかし、全てを把握することはできない。
分からない部分があっても、ある程度捨て置くことは大事である。捨て置いても、相手が自分から離れないと信じるような能力を養わなければならない。

だからこそもちろん、恋人となることにはデメリットがある。それは「信じなければならない」ということだ。恋人になるということは同時に、「信じる責務」を追うことと同義である。「信じる」覚悟のないやつは、恋人を持つ資格はない。


自由恋愛を賛美するこの現代社会で、「類似性」と「相補性」を同時に成り立たせる要因はいったい何であるだろう。
残念ながら僕は、今のところ「性欲」しかないと考えている。他に何かあるよって人がいたら教えてほしい。これについてはまたエッセイで書こうと思う。

参考文献

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