経験的主観が抱える問題点とは何か?哲学のあり方を考える⑦

前回の記事→カントの「コペルニクス的転回」で「主観/客観」が定まる


カントは、従来の「認識は対象に依存する」という考え方から「対象は認識に依存する」という転回を果たしました。
これによって、「物が存在するから、僕たちは物を見られる!」という物前提の考え方ではなく、「僕たちの認識があって、それで物を見られるんだ!」と言えるようになりました。

この時カントは、「主観/客観」の概念の位置づけを行いました。
「客観」はロックの用法と同じく「人間が生まれ持つ認識形式(空間と時間、カテゴリー認識)によって現れる現象」として考えられます。
一方で「主観」はというと、カントによってようやく現代の用法と同じく「人間の側にあるもの」として考えられ始めました。

これにより、主観で捉えられないような「物そのもの=外的対象」は、カントによって「物自体」と定義され、認識の外に追いやられます。
これにより、ロックの思想で生まれてしまった「素朴実在論」を乗り越えることができたというわけです。

しかし、カントのこの思想には少し説明できていない部分があります。それは、具体的に「人間の側にある主観って何?」というところです。
今、「人間の認識に対象が依存する」ということが分かっています。つまり、その人間の存在によって、「対象の現象の仕方が違う」というわけです。ん? じゃあ、隣の人と僕とで見ているものが違うのか?

「あらゆる人で経験が違う、だから生きている世界も違う」といった考え方を「相対主義」といいました。今回は、経験的主観が抱える問題点を解説しようと思います!

経験的主観が抱える問題点とは何か?哲学のあり方を考える

彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。

世界大百科事典「認識論」より引用

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経験的主観とは?

恐らく誰しもが「自分」は存在しているということを疑わないでしょう。例えば、今記事を読んでくださっているあなた方は、みんな「自分が記事を読んでいる」と思っていると思います。

しかし、「自分って何?」って聞かれると、答えるのが難しかったりしますよね! 例えば、タンスに小指をぶつけたときに痛いのは自分だから、自分は存在すると言った仕方で「自分が何かを認識している」という信念が作り上げられていきます。
このように、「経験によって作られた自分による認識」のことを「経験的主観」といいます。簡単に言えば、経験的主観とは、みんなが「日常でごく普通に持っている主観」のことです。

相対主義とは何か?

しかし、経験的主観は、一方で「相対主義」の立場を生み出すことにもなります。

相対主義とは、「一つの決まった価値観なんかない」といった考えのことを言います。しかし、実は相対主義は一枚岩ではなく、様々な立場の相対主義者がいます。
具体的に挙げると、「みんな違うんだから、一つの真理なんて絶対存在しない!(懐疑的相対主義)」や「ある場所ではこういう真理があって、別の場所ではああいう真理もある(比較的温和な相対主義)」、他にもいろいろあります(1

ところで、経験的主観は経験によって形成されるものでした。なので、「認識も経験によって決定される」ということができます。
つまり、「経験がそれぞれ違うんだから、見えている世界も違う!」というわけです。

日常的な感覚からすれば、これはある意味当たっていますよね。例えば、同じ本を読んでいても泣ける人と泣けない人がいるのは、経験が違うからです。
究極的には「その人がその本を読む仕方で」本を読むことはできません。だから、「見えている世界が違う」と言ってもそんなに抵抗はないでしょう。

簡単にまとめると、経験的主観は「人それぞれに違う世界がある」といった信念を生みだすというわけです。

経験的主観しかない世界とは?

だけれど、「もし経験的主観しかないとしたら」どうでしょう。つまり、主観はすべて経験によって構成されるというわけです。

例えば、AさんとBさんが「リンゴを見る」という経験をするとしましょう。AさんとBさんは経験的に同じリンゴを見ているということがわかっています。
さて、だったらAさんもBさんも「同じ経験をしている」といえるでしょうか? いいえ、例えば「立ち位置」が違います。だから、リンゴを見ている「角度」も違いますよね。

もっといえば、AさんとBさんで生まれた環境も違うし、性格も大きく異なります。だから、同じリンゴを見ていても、現象として現れるリンゴは全く違うわけです。
こうやって突き詰めると、「身長、体重、出身、性格などの個人の性質」や「立ち位置、環境、対象、時間などの外的要因」が完全に一致した経験は存在しえないといえます。

そう考えると、経験的主観しかない世界とは、認識能力を持つ人間がそれぞれ全く異なった世界を生きているということになります。
なるほど、ふたを開けたら、みんな別世界で生きていた! という結論に辿り着くわけです。

「みんな別世界で生きている! ということは、共有できる真理なんか一つもないんじゃね?」となれば、これは「懐疑的相対主義」の立場になります。
「経験的主観しかない」という考えは、この「懐疑的相対主義」の考え方を生みだします(以下、「相対主義」と略します)

懐疑的相対主義の問題点とは何か?

メタ常識とかけ離れた相対主義

ところで「人それぞれで経験が違うんだから、生きる世界も違う」という考え方の何が問題になるのでしょうか。

実は、哲学の姿勢としては別に構いません。スタンスの問題です。「何のために哲学をしているのか」は、やはり人によって違います。
一つの真理を探そうと、世界は人によって様々だと宣言しても、哲学的にはOKです。

しかし、これが「メタ常識」と一致しているかというと話は別になります。メタ常識とは、人間が普段持っている「なんとなく常識っぽい信念」のことです。

例えば、僕たちが会話するとき、「相手に話が通じる」という前提で喋ると思います。でなきゃ、いちいち「お前と俺じゃ生きる世界が違うんだけど」と言ってたら、満足に生きることはできません。
このように、誰かと同じ信念を共有しているときのこの信念を「メタ常識」といいます。相対主義は、この「メタ常識」とはかけ離れた結論を出してしまっているというわけです。

メタ常識とかけ離れた結論を出すと困ることがあります。これはきっと大学に入った人なら一度は経験があると思いますが、「君の勉強していることって、僕には全く関係ないよね」なんて言われる危険性が高まるというわけです。
そうなると、「やっていることが社会に貢献しなくなっていく」というわけです。それもまた一興かもですが、何も生まない学問をやるような余裕がないのが人間の性というものです(笑)

道徳的にも怪しい相対主義

哲学の基本姿勢の一つとして「人道的にまずくない理論を出す」といったものがあります。もちろんこれは、あらゆる学問で大切な姿勢でもあります。

例えば、医学は人体実験をすれば飛躍的に進歩すると言われています。心理学においても「人で実験できればなぁ」なんて本音をたまに聞くことがあります。
しかし、「誰かを助けるために誰かを犠牲にする(トロッコ問題とか言われます)」というのは、本来許されるべきものではありません。

相対主義もこれに抵触します。「みんな生きる世界が違う」という結論を導くわけなんですから、つまり「だからほかの人に何をしてもいい」ということにもなりかねません。
例えば、「法律」を共有することはできないでしょう。すると、殺人を犯しても罰する根拠はどこにもないとかいうことになります。

相対主義者は、そうならないような結論の仕方をしなければなりませんが、現時点ではそれはなさそうです。なんせ「みんな生きる世界が違う」わけですから。

そして、少なくとも、道徳哲学者のカントも相対主義的な結論を出すことを良しとしなかったようです。


今回は、みんなが一般的に持っている「経験的主観」について説明しました。

哲学、ひいては学問の姿勢で大事なのは、「メタ常識に合っているか」と「道徳的な問題に抵触しないか」でした。もちろん、立場を限定するわけではありませんが、これが守られないとまともに研究をすることはできません。

カントはもちろんこの問題をちゃんと乗り越えようとしています。具体的に言えば、「超越論的主観」という概念を導入するわけです。めっちゃいかつい。かっこいいワード来たぞ!

ということで、次回は「超越論的主観」について説明します!


(1 すみません、最初記事を投稿した時には大きな間違いをしていました。
相対主義は大きく分けて二つの分類があるようです。「真偽に関わる議論をする人たち(今回の記事の相対主義はこれです)」、「真偽はよくわからないけれど、とりあえず相対主義を導入すればうまくいくじゃんという姿勢を持つ人たち(方法論的相対主義)」です。

科学や一部の宗教は、方法論的相対主義の立場の人が多いですよね。たとえば、キリスト教でも異教の存在を認める人は数多く存在するし、科学でも「今はこれが適用できる」として理論を発展させる人が多くみられます。
このような相対主義も功罪は表裏一体です。それぞれが方法論的にいろんな理論を適用すれば、全体として取り返しのつかない問題を発生させる危険性もあります(例えば「地球温暖化問題」がそうですよね)。

後は、「異文化理解をどうするか」という問題も発生させます。部分的に相対主義を取るのは良いのですが、そうなると「異文化を理解すること」が不可能となります。文化と文化の接触はどのように現れるのか(はたして「接触」と言ってもいいのか)など、相対主義の問題は山積みです。
だけど、これは相対主義に限ったことではなく、あらゆる哲学の立場が抱えている問題でもあります。

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