1ページ読書実践編第四頁:國木田独歩『武蔵野』

もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真中にいる農夫にききたまえ。農夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねてみたまえ、驚いてこちらを向き、大声で教えてくれるだろう。もし少女であったら近づいて小声でききたまえ。もし若者であったら、帽を取って慇懃に問いたまえ。鷹揚に教えてくれるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖であるから。

教えられた道をゆくと、道がまた二つに分かれる。教えてくれたほうの道はあまりに小さくてすこし変だと思ってもそのとおりにゆきたまえ、突然農家の庭先に出るだろう。はたして変だと驚いてはいけぬ。その時農家で尋ねてみたまえ、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答えるだろう。農家の門を外に出てみるとはたして見覚えある往来、なるほどこれが近路だなと君は思わず微笑をもらす、その時初めて教えてくれた道のありがたさが解るだろう。

國木田独歩『武蔵野』より引用

國木田独歩の武蔵野を読んでみよう!

今回は國木田独歩の『武蔵野』を読んでみましょう。
この作品は、僕が高校生の時に、国語の先生が一部を抜粋して朗読してくださった作品です。
高校三年生で、すぐに受験が控えていたのですが、この作品の雄大さに心を奪われました。受験が終わったらこの作品のように林へ行こうと決心したくらいです。

そこで皆さんにも、「散歩の楽しみ」「林の雄大さ」を体感していただきないと思い、今回抜粋してきました。

スポンサーリンク

とりあえず、読んでみた。

パッと見て、なかなか文語体で読みにくい部分もあるが、内容はそこまで難しくはなさそうです。単語も、現代語とはそこまで違っておらず、意外とするすると読めます。

語彙を盗もう

ただ、意味が分かったつもりになって読み過ごすのも嫌なので、いくつか単語を拾っておきましょう。

・「鷹揚」ゆったりとして上品なさま

・「慇懃」丁寧で礼儀正しいさま

・「往来」人通りの多い道や場所

この三つの単語が日常で使えたりすると、語彙力が豊かな会話がよりできそうです。このうち、「往来」は現在では「人の行き交い」を指すことが多く、もしかしたら伝わらないかもしれません。

また、「慇懃」な態度に終始してしまうと、「慇懃無礼」となってしまうので注意しましょう。礼儀正しすぎる対応をすると、かえって嫌味になって無礼だと思われてしまいます。
心当たりのある方は結構多いのではないでしょうか。ちなみに僕はこれをよくやります。本当に注意したい。

散歩で道を聞いてみる

抜粋した文章は、目的地が明確になっていなさそうな様子から、散歩をしている場面であることがうかがえます。

國木田独歩は、農夫に道を聞くことを勧めています。驚くべきことですが、この時代の「武蔵野」わりと方々で農夫さんを見かけることが多かったようです。
現在武蔵野市と言えば、三鷹や吉祥寺から北の方に位置する割と開発された地域です。成蹊大学が近くにありますね。

國木田独歩がこの散歩をしていたときは、渋谷も今とは全く別の様相を成していました。囃子や森で囲まれ、川沿いに歩くと心が休まったそうです。
今の渋谷では、この川は埋め立てられ、駅からは全く見ることができません。
僕はこの文章を読むたびにいつも、この文章で書かれているような渋谷を一目でもみたかったなあと心から思ってしまいます。

農夫がどのような人間であるのかで聞き方を変えてみることを勧めている前半の文章は、行き当たりばったりである散歩を心から楽しんでいる心情が伝わってきます。
「あの人だったらああかな、この人だったらこうかな」とその道の「あるがまま」に身をゆだねて楽しむ。
そういえば、最後にこんな風に「時間を楽しむ」ような散歩をしたのはいつだったかなぁなどとしみじみとしてしまいます。

しかし、「少女(原文ではルビが『おとめ』と振ってある)」にこっそり近づいたら、それこそ現代では捕まってしまうでしょう。セクハラだと訴えられるかもしれません。
僕は「昔は良かったんだなあ」などと懐古の情に浸るつもりはありませんが、それでも「なんだかなあ」と思ってしまいますね。
女の人に大声を出させない配慮とは、粋なものだと思います。

デジタルデトックスの必要性

このまえ「哲学カフェ」に出席してきました。哲学カフェとは、「普段話せないような思想や考え方をみんなで熟考してテーマを深堀する」みたいな会のことです。
そこで、この前話題になったのは「デジタルデトックスの必要性」ということでした。

デジタルデトックスとは(僕は全く知らなかったのですが)、情報が氾濫する世の中で、メディアや連絡媒体などの電源を切ってアナログな生活をすることで、繋がりすぎた精神をリラックスさせるといった意味だそうです。

デジタルデトックスなんか必要じゃない

正直、そのときは「え? なにいってんだ? うける」とか思っていたのですが、想像以上に参加者の方々が、SNSなどによって「繋がりすぎている」ことに疲れていることが分かりました。
多く共通していたのが「スマートフォンがあると、見てしまう」そうなのです。連絡が着たら返さないといけない。事件が起きたら知っていないといけない。流行に乗らなきゃいけない。

ここまで聞いてもやはり、ぶっちゃけ全く共感できなかったんですが、みなさん「わかる、わかる」などと口々におっしゃっていたので、これは割と一般的な感情のようです。
「嫌なら見るな」という芸能人の発言が炎上するくらい、僕たちは様々な情報を「無理やりに」見させられています。スマートフォンは手元にあるため、より一層負担が大きくなっているのでしょう。

そんななかで、「無理やりスマートフォンをやめること」は、一つの解決策のように思えます。意志の弱い人は特に、スマートフォンをやめられないのですから、家においてどこかに参加するというのは非常に合理的な手法だと思います。

ただ、それが根本的な解決策だとしたら話が違うでしょう。やはり「無理やり情報を断っている」わけですから、「無理やり情報を得る」のと構造的な部分ではほとんど変わりません。
結局、情報を遮断していた分、後でツケが回ってくるに決まっています。例えば、遅れた分の流行をどこで取り戻しますか。
「デジタルディバイドを行うおかげで、流行に乗らなくても大丈夫だってことが分かった!」というのは、ある種の洗脳です。「なぜ流行に乗らなきゃいけないと思っていたのか」を吟味せずに理由なく別の信条を取り入れるということが危険なのは明らかです。

種種の問題が解決されないのに「デジタルデトックス」で無理に快楽を得ようとする。きっと、中毒になるのも時間の問題でしょう。
正直な話、デジタルデトックスはやめた方がいい。無理な情報遮断は必要ありません。

僕自身の体験談

僕がここまで断言するのも、実は僕に「デジタルディバイド」の経験があるからなのです。もちろん、このデジタルディバイドという言葉はまだ流行しておらず、そのため僕も知りませんでした。僕は意図せずこれを行ったのです。

具体的には、一旦辛さを覚えて2か月間ほど外のメディアと一切の遮断をしました。何の本かは忘れましたが、井上ひさしさんの評論に「メディアを遮断する期間が必要である」というようなことが書いてあって、それに影響されたということもありました。大学3年生のことです。
2か月間の間、スマートフォンは押し入れにしまって隠し、夏休み期間と言うこともあって一切人に合わず、公園やら大学やらを放浪するといったようなことをやっていました。

正直な話、この2か月間に「何をしたか」は一切覚えていません。人に聞こうにも、全然あっていないのですから分かるわけがありません。
人の「記憶」とは他者に支えられているのだと、後から実感しました。本当に一人になると、人間って脆いものです。

この期間から無事に脱出できたのは、「図書館」のおかげなのですが、この話はまた別の記事に書きたいと思います。
思えば本をたくさん読むようになったのもこの時期からです。
しかし、これは強調したいことですが、僕が回復できたのは奇跡のようなもので、「デジタルディバイド」のおかげで本を読むようになったわけではないのです。むしろ、「デジタルディバイド」がなければ、本とはもっと良い出会い方をしていたでしょう。

大切なのは、考えなおすこと

「デジタルディバイド」の何が悪いのか。それは、自分の環境や状況といった「外的要因」から自分の行動を変えようとしているという点です。

人はかなりの割合で「外的要因」に影響されながら行動を決めています。だから、「スマートフォンを手に届かないところに置く」ことで、「外的要因」を変えて、自らの行動を統制していくという考え方は悪くありません。
しかし、この「外的要因」による変化は、「内的要因」に比べて一時的であることが心理学では実証されています。ここでいう「内的要因」とは、自らの「成功体験」や「実現欲求」のことを指します。

だとしたら、「情報疲れ」を治すのは何か。「無理やり情報に触れる」のをやめるのに、「無理やり情報を断つ」と言う方法を選択しない道とは何か。
それは、「自ずから行動できるようになること」です。

この自ずからは、二つの意味を持ちます。一つは「自然に」、もう一つは「自分から」ということです。これがどういう意味になるかは、『武蔵野』にヒントがあるように思えます。
國木田独歩は、歩く道を農夫に従って自由気ままに決めています。武蔵野のことは武蔵野に住む人間にしかわからない。
また、林とは怖いもので、いつ肉体や精神をからめとられるかが分からない。だから一歩一歩慎重に踏みしめながら、そしてその自分を楽しみながら歩く。もし仮にスマートフォンを持っていたとしても、片手をふさぐ余裕はなかったはずです。

また、國木田独歩は、完全に情報をシャットアウトしたかと言えば、そうでもないはずです。困ったときにはスマートフォンに頼ったことでしょう。
しかし、林の散歩のような場所ではスマートフォンは役に立たないはずです。
極限の状況下の中、國木田独歩は「何が今大切か」ということを「自然と」考え始めたはずでしょう。

デジタルディバイドの最大の弱点は、「全ての情報を吟味なくシャットアウトしてしまうこと」です。その中には当然、「今必要な情報」も含まれます。
それから自己が切断されたとき、自己を正常に保てなくなるでしょう。それではいけないのです。人間の存在は他者ありき。「情報疲れ」は「他者との過剰接触」に原因があるだけで、「他者との接触」自体にはありません。
必要なのは、「自分からもっと多くのものに目を向けること」です。

だから、安易に「散歩」すればいいじゃんとは言いません。ただ、『武蔵野』が読みたくなったのであれば、今すぐ読んでほしい。
僕は、「デジタルディバイド」では到底解決できないような問題に対するヒントが、この著作に多く含まれていると思っています。


スポンサーリンク