みんなで「1ページ読書」を始めてみよう!①

1ページ読書を始めてみよう!

スポンサーリンク

本を読むための時間が足りない

僕は本を読むのが好きだ。

食事会とかの席でこれを言うと、結構珍しがられる。昨今では、本を読む人が少なくなってきた。その理由は、20代も半ばになると実感できる。本を読む時間がない。

本というのは読むのが大変である。映画や漫画と違って、黒白のインクの染みから、何かを想像しながら読まなきゃいけない。無論頭を使う。本は、ただ眺めているだけじゃ読めないというわけだ。
それに加えて、数百ページもある書籍がほとんどだ。本当に体力を使う。日常の業務に忙殺されている人が多い昨今で、本を読める人がどれだけいるだろうか。

しかし、それでは僕が困るのである。僕が本を好きな理由は、本の話を他のみんなとするのが好きだからだ。
本の話を共有するのは楽しい。感動したところを話し合ったり、自分の好きなものをお勧めしたりし合ったりしていると、堅い連帯感のようなものが出来上がってくる。

この連帯感をみんなと味わいたい。でも、無理に読ませたりはしたくない。そこで、今回僕がお勧めしたい読書の仕方は、「1ページ読書」である。

1ページ読書とは、そのまま1ページだけ読むことである

「1ページ読書」とは、そのままの意味だ。「ただ、本の中の1ページを開いて、その部分を読み込む」だけである。

本は、好きなものでも昔挫折したものでもなんでもいい。とりあえず、「今日はこれを読もう」って感じで気軽に手に取ってもらって、どの個所でもいいので開く。そして、30分でも1時間でも、時間の許す限りそこを読む。そうして、1日の読書を終える。それだけだ。

読み方は何でもいい。そのまま黙読したり、眺めてみたり。声に出して読んだり歌ってみたりしてもいい。
分からない単語があれば、辞書を引いてみる。あるいは、分からないまま放っておいて、意味を想像してみるのもいいだろう。とにかく味わう。1ページを全身全霊をかけて楽しむ。

従来の「本のイメージ」を壊そう

これの何が楽しいのか? そういう疑問はもっともだと思う。それは、恐らくみなさんの「本」のイメージが、「最初から最後まで読まなきゃおもしろさが分からないもの」となっているからではないだろうか。

本は普通、最初から最後まで読まれる想定で作られている。だから、僕らも最初から順番に最後まで読まなければならないと考えたくなる。例えば小説なら、作者の考えた構成でストーリーを読んで初めて、おもしろさを感じられるのではないかというわけだ。

逆に考えれば、それ以外の順序で本を読むことは許されないはずだ、ということになる。 ましてや、好きな部分から1ページだけを読んで、「読書」とするなんておかしいのではないか、というわけだ。

それも一つのイメージとしては、ありだと思う。しかし、僕はこのイメージをぶち壊したい。本当は、おもしろい本というのは、どこから読んでもどう読んでもおもしろいはずなのだ。それがたとえ1ページでも、じっくり読めば面白いと思うものは必ず見つかる。

1ページ読書とは「散歩」である

ちょっとここで、「散歩」をイメージしてほしい。散歩とは、どこか思いついた場所をぶらぶらと歩くことを言う。見知った場所でもいいし、よく知らない場所でもいい。気晴らしに、何の目的もなく歩く。

散歩をしていると、普段目に入らないようなものに気が付くことがある。例えば道端に割いた野草とか、奥まった場所の喫茶店とか。
横目で見るだけだった神社などに入れば、恐らく神社がいつの時代にでき、どんな役割を果たしてきたかわかるかもしれない。ベンチに座って、思索を深めるのもありだ。あの野草、きれいだったな。あの喫茶店は今度絶対に行こう。うん、メモを取っておいたから大丈夫。

このように、散歩とは、道の上を普段と違った方法で歩いて楽しむ営みとも言える。僕は、これを本のページの上でやろうと言っているだけである。
気晴らしに、何の目的もなく本を開き、適当に読む。そうしたら、きっと普段気にも留めなかった表現に、ちょっとした味わいを見つけたりできるのではないだろうか。

1ページ読書を実際にやってみよう

そこで試しに、ある小説の一節を抜き出して「1ページ読書」を実践してみようと思う。

私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。 梶井基次郎『檸檬』より引用

これは、梶井基次郎の『檸檬』からの抜粋だ。僕がこの小説を読んだのはかなり昔なため、内容を忘れてしまった。だから、この文章を読んでも、どこで何をどんな理由で城のように積み上げられているかはわからない。
だけれど、この文章を眺めたとき、いろいろ考えさせられることがある。ちょっとつらつらと書き連ねていきたい。

『檸檬』の一節から何を思うか

「先ほどの軽やかな昂奮」とはなんだろう。そもそも、昂奮が軽やかなことってあるだろうか。僕が昂奮するときは、きっともっと粘っこくなるに違いない。他のものには目もくれず、その対象に執着するように思う。じゃあ、この人の「軽やかな」とは一体何だろう。ふとした気晴らしなのかもしれない。

昂奮すると、何かを手あたり次第作ったり壊したりしたくなる感覚は分かる。衝動的に創作意欲がわくのかもしれない。
そういえば、幼稚園の頃、僕はよく積み木をしていた。単純な図形の積み木から、複雑な構造を持つ城をよく作っていた。今考えてみれば、文章を書きたいと思う僕の気持ちは、積み木を積み上げながらできてきたのかもしれない。もう一回積み木をやってみようか。

今ならもっと大きなものが作れるかもしれない。でも、きっと大きなものができたら壊せないんだろうな。なんか、大人になっちゃったなあ。ん? 言うほど大人か? いやいや、勘違いっしょ。そういえば、この前砂場で作った城は思い切り壊した記憶がある。
はは、もしかしたら楽しく壊せるのかもしれないな。今度気晴らしにやってみようか。

気晴らしの積み木と散歩と読書と

手あたり次第何かを積み上げては壊す。気晴らしのために何かをする。散歩も同じだ。普段とは違う歩き方で、町を味わう。
1ページ読んでは、単語を読みこんだり、思いをはせたり、何か行動を起こしたり自由に読む。積み木や散歩と同じことを、読書でもやりたいというわけだ。

『檸檬』の主人公が積み上げていたものが何かは、先の一節の少し前に書いてある。これを読んだら、気にならないわけがない。もちろん、それを知るために違うページに飛ぶのはありだ。正解は「本」である。それも、売り場の本だ。

本で城を作るような暴挙が許されるのだ。1ページだけ読んで「読書」とするくらい、許されていいはずである。本の中の文章を手あたり次第メモに書きだし、味わう。もしかしたら、『檸檬』の主人公のように、「軽やかな昂奮」を覚えるかもしれない。

少しでも、「1ページ読書」に興味を持った方は、今すぐ本屋に行って実践してほしいと思う。小説でも実用書でも哲学書でもいい。とにかく1ページを読んでみる。

そして、一緒に本の話で盛り上がれたらいいなあと思っている。

参考文献

スポンサーリンク




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク