1ページ読書実践編第二頁:吉田兼好『徒然草』

春暮れて後夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよほし、夏より既に秋は通ひ、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下にまうけたるゆゑに、待ちとるついで甚だ速し。

生老病死の移り来る事、またこれに過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし。 

吉田兼好『徒然草』(段落分けは、便宜上こちらが行いました)

吉田兼好『徒然草』を読む

今回の「1ページ読書」は、現代語ではなく古文から抜粋しました。
文字ならなんでもいいというのが信条なので、パッと見で読めない文章ならどうなるかをお見せできればいいなぁと思っている次第です。

※現代語訳や時代背景をお知りになりたい方は、別のサイトで見てください。

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読めなさそうだから、「眺める」

一見してよく分からなさそうだなという文章に出会った場合、まずは「眺める」ことに徹するのが肝心です。

高校生までは「読解」をやっていた。

きっとおそらく多くの人が、「古文」に触れる機会は中学生や高校生のときくらいしかないと思います。
しかも、「読書」としてではなく、「読解」で読むだけ。つまり、文法を考えたり傍線部の前後を注視するといったような読み方でしか古文に触れていません。

「読解」では、「眺める」といったような方法はあまり推奨されませんよね。
もちろん、「キーワード」とか、「文章の雰囲気」を知るという目的で眺めることは必要かもしれませんが、長い時間眺めているだけでは問題は絶対に解けません。

一文一文の特性を知り、品詞の意味を理解しながら精読を行っていく。こういう読みは学問には必須で、専門書や文芸論、加えて仕事でのマニュアルを読む際に非常に重要なスキルになってきます。
「読解」ができていない読みはただの「自己満足」で、学問として認めることは基本的にできません。

「読解」から「読書」へ転ずる

ただ、「読書」に限って言えば、「自己満足」が許されます。
品詞の意味なんてどうでもいい。「普通はこう読む」みたいな口出しも無視して構わない。とりあえず、自分はこう楽しんだ。これがあればいいわけです。

もちろん、時代を経てもなお価値を残す「名文」というのは、その文の意味を正確に読んでこそ真価を発揮します。しかし、ぶっちゃけそれは「最終目標」であって、今目指すものでもない。
「俺はこう読めたから、この本はこういう意味だ」というのは正直困りますが、「今の俺にとっては、こういう意味だろう」という相対主義を持つことは悪くありません。

きっと、そういう意味で解していたら、どこかで壁にぶつかります。実は、名文とはそういうものなんです。そのときはまた、その文章をまた精読し直せばいいだけです。
壁にぶつからなければ、それはそのままでいい。自分の読書体験として享受する。

特に「古文」は、こうした自己満足が認められてこなかった傾向にあるため、今自分が読んでみたいと思った古文くらい、自己満足で読んでいい。そう思うわけです。

ってことで、「眺めて」みた

この文章は、大きく分けて二つの部分に分かれているということが分かります。
前半は「春夏秋冬」の移り変わりについて、後半は「生老病死」に対する人間の良いあり方についてといったところでしょうか。

判断基準は、特定の言葉に対する関連ワードの多さです。前半はとにかく「季節」に関する単語が多い。例えば「小春」「青い草」「梅」「木の葉」「芽ぐむ」などです。

それに対して後半は、「人間の一生」に関わるような、少し重いワードで溢れている。「死期」「人」「死を待つ」「後ろに迫る」などです。

なんとなく分かってきました。この文章は「春夏秋冬」と「生老病死」を対比させて、「人はどう生きるべきか」みたいなことがかかれている文章でしょう。
なるほど、人の一生は春夏秋冬のようなもの。前半の最後に「速し」とあることから考えると、喜怒哀楽を感じたり、悩みを持ったりするということは、とても早く過ぎ去ってしまうといった感じなんでしょうかね。

「春夏秋冬」と「生老病死」

四字熟語には色々な構造があります。例えば「携帯電話」は「携帯する電話」となり、二字+二字の構造を持っています。「四字熟語」という熟語も同じ構造です。

それに対し、「春夏秋冬」と「生老病死」は一字+一字+一字+一字という特殊な構造を持っています。僕は実はこの構造がとても好きだ。例えば「起承転結」「喜怒哀楽」「風林火山」「花鳥風月」などがそうです。

四つでバランスを取ること

ところで、四つの感性がバランスを絶妙にとって一つの熟語を形成するということに、僕はそこはかとなく「美」を感じます。

例えば、二つの対比はどうでしょう。例えば、「善悪」「損得」「天変地異」などが挙げられます。

二つの対比は、多様な観点を取り除いてしまいます。例えば「善悪」という言葉を知ったとき、「この世の出来事は善か悪か」という二分法で見てしまうことになりやすい。
「あなたは性善説を信じますか? 性悪説を信じますか?」という質問が意識高い系大学生の間で流行っているところからみても、二分法は負の病理です。分かりやすすぎる。

もちろん、まともな大学生であれば、「うーん、別に性善説でも性悪説でもないんじゃね?」みたいな話になります。この世の多くは、善でもなければ悪でもない。
二分法は割と早々に瓦解し始め、第三の概念を要求し始めます。例えば、「中庸」という言葉は、その概念に近い。

では、三つの鼎立はどうでしょう。この鼎立は「三脚」のイメージです。
二本しか足がなければ、足場はぐらつき倒れるでしょう。しかし、三本あればしっかりと足を固定できます。
三つの点があれば、三角形になって平面を特定できるので、地盤がしっかりするのです。三字熟語には「天地人」「衣食住」「真善美」などがあります。

しかし、三脚と言うのは、なかなか融通が利きません。三本の足がそれぞれバランスよく力関係が成り立ちすぎていて、なんとなく味がない。非常に感覚的な話だが、「良すぎる」というわけです。

それに対して、四つは…本当にバランスが悪い。「起承転結」「喜怒哀楽」などを見てみても、現代では必ずどこかが抜けています。
例えば、ブログの文章は分かりやすさを重視するために、「起承結」の形を取ります。「転」はもはや必要がありません。「転」を無理やり入れようとすると、なんとなくわざとらしくぎこちない文章となってしまいます。

また、「喜怒哀楽」が十分にバランスよく表れている人は稀有でしょう。最近の若者は「怒らない」人は非常に多い。怒る前に「無関心」になる傾向がある。僕もそうです
どれかを表現しようとすれば、どれかが必ず抜ける。人間の感情とはそういうものだ、と言うのが僕の感想です。共感していただける方は多いのではないでしょうか。

しかし、だからこそ「起承転結」や「喜怒哀楽」がバランスよく構成されているものは美しい、と言うのも僕の感想です。「ワビ/サビ」に近い感覚でしょうか。
例えば、四本足の机は、大抵ガタガタします。バランスが悪いからです。しかし、良くできた机はしっかりとしています。本当に計算されつくしている。
四つでバランスを取るというのは、そういう理由で美しく感じるというわけです。

「春夏秋冬」と「生老病死」はどうか

日本の気候が美しく感じるのも「春夏秋冬」がバランスを取っているからかもしれません。もっとも、最近は「春秋」が本当に早く過ぎ去っていっているように感じますが……。

しかし、「生老病死」はどうでしょう。言うほどバランスを取っているでしょうか。なんとなくぎこちない気がします。「生」がなければ、他三つは存在できません。また「老」や「病」と違って、人間は誰でも死にます。

だから、「生老病死」という言葉は現代まで残っていないのでしょう。ぎこちない机は常に新しくなっていきます。それと同じように、「生」や「死」の感覚が時代によって移り変わることによって、その熟語が使われなくなっていきます。

実は、吉田兼好はこのことに言及しています。後半部分をちょっと深堀してみましょう。

生老病死の移り来る事、またこれに過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし。 

「ついで」という言葉は高校受験でもおなじみの単語ですが、「機会」とか「順序」と言った意味です。「タイミング」と言い換えてもいいかと思います。

なるほど、「生老病死」は、四季よりも過ぎるのが早いんですね。マジですか。怖すぎます。
その理由に、「四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず」と言っています。つまり、「四季はまだ決まった順序で過ぎるが、死期は順序に関係なく来る」からだというわけです。(!? 気が付かなかったが、「四季」と「死期」で韻を踏んでいるだと……やはり、天才か?)
彼は、「生老病死」のバランスは悪いということをよく知っているのでしょう。

「生老病死」は順序関係なくやってくる

吉田兼好は、「日本最初のブロガー」としても有名です。彼の記事ひとつひとつが論理的構成によって成り立っており、実に明確な形で思想となって表れるのです。

「1ページ読書」では、一部を抜粋している関係で必ずしも明瞭ではありませんが、ここから一つのことが僕は読めたと思います。
人の一生は春夏秋冬のようにすぐ過ぎるものだが、生老病死のうち「死」だけは本当に早くやってくる。だから、やりたいと思ったことは今すぐにでもやれと。

僕は多くの評論を読んでいますが、このように主張する文章に現代でもよく出会います。「考える前に動く必要がある」という主張は、気にしなければならないリスクに溢れている現代では非常に有り難いものです。
「失敗してもいいのだ。だって、人間は死ぬんだから」という言葉に救われた人も多いでしょう。

ただ、ネタバレですが、吉田兼好も「リスクを気にする」ことには否定的ではありません。抜粋したこの文章の直前にはこうやって書いてあります。

世に従はん人は、まづ機嫌を知るべし。ついで悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事ならず。さやうの折節を心得べきなり。

吉田兼好『徒然草』より引用

社会に出ていくには、「時期を窺う」ことは必須事項です。ただ、「生老病死」に関わる場合は別だと。そういうことです。


「やりたいことは、好きなときにやろう。死んだら元も子もない」と吉田兼好は800年も昔に言っているということでした。
なるほど、やっぱり「名文」なんだなあと再認識してしまいますね。

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