ケン・リュウ『紙の動物園』古沢嘉通訳
目次
『紙の動物園』 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)は、ケン・リュウが描いたSF短篇シリーズである。
表題作で「ヒューゴー賞」「ネビュラ賞」「世界幻想文学大賞」を受賞した「紙の動物園」、同じく「ヒューゴー賞」を受賞した「もののあはれ」など、15篇の短篇をオムニバス形式で収録している。
また、『紙の動物園(ケン・リュウ短篇傑作集1)』 『もののあはれ(ケン・リュウ短編傑作集2)』に分けて収録した文庫版が、早川書房から出版されている。本の大きさもコンパクトになり、買い求めやすくなっている。
本作のテーマは非常に幅広く、歴史や文化、科学など多岐にわたったテーマについても取り扱っていて、SF作品としてはとても一風変わった作品となっている。SFファンはもちろんのこと、普段は純文学や歴史小説を読む人でも楽しめる内容となっているといってよい。
読書会概要
【概要】
- 参加者: 7名
- 日時: 2017/11/26
- 所要時間: 2時間
- 課題図書: 紙の動物園
- 目的: 一つの課題図書を通して、一人では達成できない深い読解と、豊かなコミュニケーションを行うことを目的として話し合いを二時間程度行った。
今回は表題作である「紙の動物園」について様々な意見を交換しあった。今回の参加メンバーは普段から活字に慣れ親しんでいる方が多かったが、小説に関しては必ずしもそうではない方も多く、比較的新鮮な気持ちで作品に臨むことができた。
本作品のテーマは多岐にわたり、様々な読解が可能であったため、議論は二転三転することになった。一つの意見に対し、ほぼ必ず別の意見が対峙するなど、議論としてもとても盛り上がることになった。
また、本作品は身近に感じている問題に触れさせるような話題も多くあり、個人的な葛藤と照らし合わせながら意見交換をする場面も見受けられた。
一人では決して辿り着くことのできない読解を様々に感じながら、自分も発言して議論に介入していくというダイナミズムを実感できる読書会はあまりないように思われる。非常に有意義な意見交換だったように思われる。
そして、僕が個人的に一番重要だと考えたのは、意見交換が非常に難しく、思考をめぐらせるために高い集中力を要する意見交換だったにもかかわらず、笑顔が絶えず現れていたことに思う。
このような場は、他人の意見を尊重し、そしてお互いに話を聞き合う空間ができていなければなかなか作られない。僕はそういった意味では満足度の高い読書会だったように思われる。
改善点としては、やはり僕の読書会の進行の仕方だろう。今回は僕自身も色々意見を言いたくなってしまったため、管理が疎かになった時があり、もっと発言しやすい場を作るようにした方が良かったように思う。
そして、論点をもう少し明瞭にしながら、明らかな問いかけをすべきだっただろう。分かりやすい読書会にするためには、必要不可欠である。
より具体的な意見
ここから先は、ネタバレに近い考察を含むので、まだ読んでいない方は、じっくり作品を鑑賞してから読んでいただきたい。
また、極度なネタバレ、或いは個人の特定を避けるために、一部変更している。また、より抽象的に見える個所も、実際は具体的な話し合いが行われていることには注意していただきたい。
個々の感想
本作品は新しく、また読みようによっては国籍問題、差別、言語の壁、親子の理解、思春期の葛藤など様々なテーマで読めるので、恐らく人によって読み方がさまざまだろうと思い感想から聞くことにした。それが以下の通りである。(念のためありのままに書いていますが、僕の解釈も含まれます。違ったら教えてください…)
- この作品のテーマは「アメリカ」と「中国」の国籍の問題だと感じた。「もしわたしが”ラヴ”と言うと、ここに感じます」…「もし”愛”と言うと、ここに感じます」という場面で母親が指さした唇と心臓の対比は、「中国語」の良さを語っているのだと読んだ。ここで泣いた。
- 「アメリカ」と「中国」の対比ではなく、「第一言語」と「第二言語」の対比のように感じた。第一言語と第二言語では、心のこもり方が違う。最後の手紙も「中国語」で書かれている。また、今回は、死ぬシーンよりも家庭関係が垣間見えるところで泣けてしまった。
- 国籍や言語の問題でもなく、これは「人と人のコミュニケーション」の問題で、あくまで言語のせいにして、自分の葛藤を棚上げしているところに問題が見えた。あくまで「自分の身近な問題」であるように思う。
- 母親からの贈り物で、ジャックは「折り紙」をもらっていて、マークは「スターウォーズのフィギュア」をもらっていて対比になってると思った。「折り紙」は母親の手が加わっていたり、多様な種類に変化させることができる。フィギュア遊びは、ワンパターンで退屈。
- カタログを読む父親の態度が気になった。カタログの存在とは何か。一方で、父親は母親に最大限の親切心を与えている箇所があり、それが病室でも見られた。ジャックは、わがままを言っているのではないかという読みもできた。
- ジャックの「ぼくはどこも母さんに似ていない、どこも」という場面と、母親の手紙の中にある「あなたの顔を見て、母と父と、そしてわたしの面影があるのを見て、とても嬉しかった」という描写にみられるような、母と子のすれ違いがとても泣ける。
- 父が母を連れてきたときに色々苦労しただろうことが伺えた。母親は間違いなく孤立しただろう。後は母を買った罪悪感もあっただろうと読めた。また病室のシーンでの母と息子の対比に著者ハードボイルドな表現を感じた。
以上みたように、参加者の多くが「泣ける小説だった」という感想は持っているが、しかし泣けるポイントは様々である。
また、注目するポイントの差異と解釈のずれが非常に多く見られ、僕は興味深く感じた。
このような多様性はなぜ生まれるのか?
一つの意見には、「あからさまな形容詞」や「感情的な表現」があまり使われていないことにあるということが挙げられた。
これは満場一致で、各々の参加者が個人的な理由で「自己の体験を思い出させる」や「身近な問題に落とし込める」などという意見が出た。
また、「親」という題材は、普通共感されるポイントが少ないという意見が出た。親と子の関係は人によって多様性を極めており、例えば親と子の道徳的な結末に興ざめしてしまう読者も多いだろう。
しかし、感情を直接言わないことの「ハードボイルド」さがそれを全く感じさせない作りになっているという意見が出ている。
「折り紙」は実際に動いていた?
興味深い対立意見として、「折り紙は実際に動いていた」というSF的な見方と、「折り紙が動いていたのは息子の思い込み」という叙述トリックではないかという見方があった。
「折り紙が実際に動いていた」とする見方は、「母親が手紙の中で、その村に伝わる魔術のようなものを息子に伝えていた」という事実から客観性が担保されるために、「動いていなければおかしい」という意見が出ていた。
一方で「折り紙が動いていたのは息子の思い込み」というのは、動かしていたのは実は母親と息子で、主に息子が「無意識のうちに」動かしていたのを、「実際に動いていた」と勘違いしてい他のではないかという意見が出ていた。
僕は個人的に、「実際には動いていた」と「実際には動いていない」という読みの違いで、作品の解釈は変わるのかという問題が気になった。
その場の見解としては、「あまり問題にならない」という意見が優勢だったのだが、実際にはどうなのだろうか。
SF的な読みを別方向にさらに進めると、「本当に折り紙を動かせたらなあ」と余韻に浸る読み方もできたはずだという見方も出てきた。
「折り紙を動かせたとしたら、何をしただろうか?」といった「ドラえもん的な発想」も出てくることになる。同時に「折り紙に命を与える文化は、本当に絶滅してしまったのか」といった「文化的な問題」に議論は伸びた。
文化がなくなることの喪失感はかなり大きい。「文化がなくなって辛い」という意見が出たが一方で、希望を与える意見も出てきた。
つまり、息子が母の手紙を読んだ時点で、母親の文化を息子が継承し、息子が新たに折り紙に命を与える能力を得たという「免許皆伝説」である。これには、個人的にわくわくした。どうなんでしょう。
その意見を担保する場面としては、「マークに二つに破かれたとき、息子は復元できなかった」が、一番最後の場面では「手紙として読んだ虎に「愛」という文字をなぞった後は、折り目に沿ってたたみ直し、虎を復元できた」ことから、能力の継承を伺える。(ただし、折り紙に命を与える瞬間は、息を吹くことなのか?それとも折っているときか?)
不気味な父の行動
この作品は、父の心情に対する描写が極めて少ないというのが参加者全員の見解であった。
そもそも、カタログを眺めていた父はどうして母のページを目にとめたのだろうか。「見た目」ではないかという意見が優勢だった。
また、姿かたち、経歴詐称していた母と実際に対面した時、父はどうして文句も言わずに、母を買うことに決めたのだろうか?母親が「怯えとも期待ともつかぬ目で」父親を見たときに、「情が移った」のではないかという意見が出た。
そもそも、冒頭に近い部分で「父さんはカタログで母さんを選んだ」というインパクトの強い記述があるにかかわらず、カタログに関しての表現が浅い。カタログで買うとは一体どういう行いと見なされていたのか。
家族が引っ越したときの、隣人の反応からあまりよくないように見られていたはずだと読めたという意見が出た。
原著『The paper Menagerie』は英語版で存在するが、息子が母の境遇を父から聞く場面で「買われていくために自分をカタログに載せるような女性は、どんな人間なのか?」というところは、「What kind of woman puts herself into a catalog so that she can be bought?」となっている。
実は、訳書ではわからないが、この対比として、日本文では「企業の担当者に採用してもらうためのもっとも効果的な嘘のつき方を練っていた」となっている部分を挙げ、「I schemed about how to lie to the corporate recruiters most effectively so that they’d offer to buy me.」と明確な対比になっているという意見が出た。
ここは作者の皮肉が効いているのだと考えられる。カタログとは一体どういう理解だったのか。
父と母の関係も気になるといった意見も出ている。実際に父は母を買ってから1年でジャックを生んでいる。しかし、「息子が父と母の会話を仲立ちしてくれる」という描写が母の手紙にあったことから、会話はできていたのかという疑問があった。
更に疑問なのは、父の母に対する愛は恐らくあったのだろうという描写はいくつかあり、例えば病院での母に対する接し方は非常に優しいものだった。
また、母の手紙にも、父からは優しくされていたという記述がある。しかし、母はそのすぐ後に手紙で、誰も私のことを理解していないと明言しており、理解はされていなかったと感じていたのだろう。
「いつかこんなことになるとわかっていただろ。なにを期待していたんだ?」という父の母へのセリフがひどすぎるといった意見もあった。父は、息子の問いかけに対して目をそらす場面も想定される。
父親はいったいどんな心情だったのかは会の終わりまでよくわからないという感じで合意を得た。
母親の愛
手紙の中で、「あなたの顔を見て、母と父と、そしてわたしの面影があるのを見て、とても嬉しかった」という言葉が重すぎて「ウッ」とくるという意見があった。
基本的に、「母が子を愛している」という根拠には「父と母が愛しあっている」という姿を見て、漸く愛されているという実感がわく、といったような「家族性」についても言及があった。
一方で、母親のこのような愛は手紙の文脈からは「すんなり受け入れられた」という意見があった。しかし、文脈がなければ確かに「重すぎる」といった意見には賛成だったようである。
だけれど、母親の生い立ち、中国の血縁を尊重する文化を考えれば、ここはこうなることは想像できるだろう。
しかし、アメリカナイズされた息子はどうして、考えを改めたのであろうか。いくら文脈があろうと、言葉が重すぎるのは確かなように思われる。それには、母親は「直接言わないこと」を方法に選んだことが関係しているという明快な意見が出た。
つまり、言葉で押し付けず、手紙という形でこういったことを意見として出したからこそ自然に理解できたという意見である。母は死ぬ間際に息子に「母さんのことは心配しないで」と言っている。
短篇小説に見る「本の読み方」
この短編小説は様々なものがテーマになっていた。だからこそ、「筆者のメッセージ性」というものが強く意識されることがある。例えば筆者は「国籍」というものに対してどういう認識を持っていたのだろうか、と言ったようなものである。
小説を読む際にどういう態度を取るかについては、二つの立場が見られた。
一つは「筆者やレビューなどの事前情報は全く調べずに真っ白のままに読む」という立場、もう一つは「筆者のことを調べてから、どういう作品かを相対的に理解しながら読む」という立場である。
また、このようなオムニバス形式の著作でも二通り見られた。
一つは「紙の動物園の箇所だけを理解しながら読み、各作品を独立したものとして読む」と、もう一つは「他の作品も参照しながら、共通部分を認識しながら読む」といったものだ。今回に関しては、恐らくどちらの読みもそれ相応の楽しさがあるだろうと考えている。
ここでの議論は「先入観」というものが話題となった。先入観は自分の読みを恣意的に変化させてしまう危険があるのではないかといったものだ。
そういう人には事前準備は害悪になるだろう。一方で、本と本とマッピングさせてから読むと理解しやすいという意見もあった。もちろん、それをジャンルごとに分けたり、作品の思い入れで分けたりするという意見もあった。
こうした様々な読解方法があること自体に「読書会」の意義があるように思われる。人は一作品に対して、一通りの読み方しかできないだろう。
そういう別々の読み方をした人間が、いろんな意見を出し合って作品を深めるという過程に今回は楽しさを覚えた。これは開催者の冥利に尽きる。
細かい点
以上が読書会の大枠である。ほぼすべて拾ったつもりだが、僕のメモは当たり前に完全ではなく見落としがあると思われる。なので、「これ喋ったのに反映されていない!」と思ったことがあればコメントしてほしい。
また、「紙の動物園」に関しての議論はこれで終わりではなく、今これを読んで新たに疑問が生まれた、ということがあれば是非コメントしてほしい。できる限り追加していきたい。
実はこの作品は、様々に「対比」のトリックが仕掛けられているように思う。会で出た発見を箇条書きで書いて、この項は終わりにしたい。
- 折り紙をなぜ息子は真似しなかったのか?自分で作ればよかったのに。それとも作れなかった?息子が「息を吹きかける」と水牛は動けた。父が「息を吹き込んだ」場合は?
- 折り紙に命を与える描写に「息を吹き込む」とあるが、キリスト教の息吹と酷似しているのではないだろうか。
- 「少数民族の文化」と「科学」の対比がちりばめられている。例えば、「スターウォーズ」と「折り紙」の対比はそれに近い。「結縄」という作品はそれである。
- 「民族」の多様性を訴えている?「月へ」とのつながりとは?
- ジャックのガールフレンドであるスーザンは「良いアメリカ人」として描かれたのでは?母を「アーティスト」と褒めていた。それによって息子は折り紙を練習していた?
- この作品の主人公はなぜ「虎」だったのか?虎にしてはかなり人懐っこい。主人公は「寅年」に生まれている。「虎」という漢字には実は春の芽吹きを象徴させる意味が含まれていて、春に行われる清明祭と関連があったのではないだろうか?