「臨機応変な対応をしろ」を無視するべき理由

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「臨機応変な対応をしろ」を無視するべき理由

世界とは絶対的他者のことである

世界とは、私の前に現前した絶対的他者である。

絶対的他者とは何事か。実は私にはさっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、いや、だからこそ世界を、私は、絶対的他者と呼んでおきたくなると言ったような具合だ。
私にとっての絶対的他者とは、「まぁ、なんかよくわかんないもの」と、そんな感じである。世界はまさに、私の目の前にそのように広がっている。

自己の前に現前する曖昧な世界

ところで、私はいつからこの世界にいるのだろうか。普通に考えれば、母親の子宮の中で受精卵となって誕生してから、となるかもしれない。あるいは、もっと直観的に胎内から産まれてから、と考えたくもなる。

しかし、私はそのどちらでもないと思っている。


私、もとい人間というのは、世界に対して、自分の持っているちっぽけな感覚器官を通してしか認識することができない。
だからしばしば、世界というのは、「私の覚えていること」が全てで、逆に覚えていないことは世界に含まれないと見なされることがある。
例えば心霊現象や、魔法と言うのは、「私が見たことがない」から「この世界ではありえない」とされるわけである。自分の知見に適わないものは、残念ながらその存在を許されない。

しかし、「私の覚えていること」がゆるぎない尺度であり得るかどうか、という疑念を、私は払拭できずにいる。なぜなら、例えば私には「産まれたときの記憶が全くない」からである。
実際、生まれたときの記憶を持っている人は、私の周りにはいない。産まれたときの状況をつぶさに語れる人間は多少いたが、大抵それは「親から聞いたこと」である。


人間は、自分に生が与えられた記憶さえ、「他人のもの」なのである。そんな人間が、確固とした記憶を持っているなんて、私には思われないというわけである。
だから、「私がいつからこの世界にいるか」という問いに対して、今の私ができるのは、せいぜい「物心ついたときかなぁ」とかってお茶を濁すくらいだろう。

私たちがいつからいたかすらわからない。なら、世界がどのようなものであるかなんて、尚更わからないはずだ。私が、世界を絶対的他者と呼んでしまうのは、こういう理由からである。

世界は私にとって「理不尽」である

だから、世界はいつだって私にとって「理不尽」なのである。

世界が私に何をもたらすのか、私には全く予測ができない。統計やデータによって傾向は分かるかもしれないが、それでも「アクシデント」は突然に起こる。

レポートの課題が山積みの時に限って、パソコンが故障して辛酸をなめさせられた人は多いのではないだろうか。世界の「戯れ」である。私たちはこの戯れに、「臨機応変な対応」をしなければ、きっと死んでしまうのだろう。

「臨機応変な対応をしろ」にノーと言わねばならない

私たちは、常に「臨機応変な対応」を強いられている。世界のこの戯れに、私たちは振り回されている。
理論は頭で理解していても、実際に使ってみなければわからない、というのは、そういう意味でいわれていると考えられる。理論は言わば「世界のマップのようなもの」であるわけだが、世界は時として、このマップの通りには振る舞わない。
だから、実践を通して、人々は「臨機応変な対応」の仕方を学んでいかなければならないのだ。人間は実践して、絶えず理論を書き変えていくことになるというわけである。

誤解して欲しくないのは、私は「だから人間は、臨機応変な対応をすべきだ」と言いたいわけではない。むしろ逆である。

人間は、生きている限り「臨機応変な対応」を避けられずにいる。絶対的他者として対峙する世界に、私たちは果敢に立ち向かっている。だから、今こそ「理論に立ち返るべきだ」と主張したい。私たちは「臨機応変な対応をしろ」と戯れる世界に対して、ノーと言わねばならないのである。

臨機応変さから離れて理論を追求するべきである

生きることは、実践することだ。実際、生きることに対して意味や目的を見出そうとすることは不毛である。絶対的他者である世界を理解しようとしても、予測不可能な戯れによって手痛いしっぺ返しを食らうことになるだろう。
だが一方で、ただひたすらに生きるだけでは、「臨機応変な対応」に追われるだけの人生になってしまう。世界は、私たちが何を考えようとも、ただひたすら戯れるだけである。

だから、私たちは、「世界のマップのようなもの」である理論を作り上げる努力をしなければならない。世界の戯れによって何度も壊されようとも、絶えず理論を追究する必要があるのだ。

幸い、情報革命後の現代において、理論を語ってくれる他者を見つけることはたやすい。絶対的他者に振り回され、疲れ果ててしまった私たちは、理論にすがり、少しでも「臨機応変な対応」に追われることから解放される必要がある。

「臨機応変な対応をしろ」というアドバイスを無視する必然性はここにある。私たちはもう十分に「臨機応変な対応」をしようと試みてきた。私たちは、これからはもっと自由に理論を追求すべきである。

参考文献

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