ルソーと共に「友達と恋人、どっちが大事か」を考えてみた

皆さんは、こんな場面に遭遇したことはないでしょうか。

「ねえ、友達と私、どっちが大事なの? 恋人の私を放っておいてどこに行っていたのよ?」

「いやさ、ほら。君も大事だよ。でも、ほら、なんていうか……。友達も大事じゃん?」

「なにそれ、やっぱり私なんか大事じゃないんじゃない! 嘘つき!」

人間、誰しも人間関係に悩むものですよね。いや、ほんと、なんでこううまくいかないんだろうね?

ルソーと共に「友達と恋人、どっちが大事か」を考えてみた

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「自然状態」から「契約社会」へ

人口が増えて、社会ができる

250年前くらいのフランスの哲学者であるジャン=ジャック・ルソーは、文明が出来上がる前の人間であれば、争いもなくて平和だっただろうといいます。これをルソーは「自然状態」と呼びました(1
戦争が起こるようになったのは、人間がいっぱい増えたからだといいます。

確かに、会社とかサークルとか人が多いところでは、マジで人間関係ってだるいですよね。色んなことを考えなくちゃいけません。
なんで人間が増えると争いが起こるんだろう? ルソーによれば、それは「所有権」のせいだそうです。

「所有権」が主張されると「契約」が発生する

みんなが所有権を自由に主張し始めれば大惨事です。「俺のものは俺のもの。お前のものも俺のものだ」とか言って、「おまえ」をタコ殴りにするような輩まで現れます。

これに抗うには「待って、待ってよ。このまえ君と僕で約束したじゃないか。これは僕のものだって」と言うしかない。つまり、「約束」によって喧嘩から逃れなければならないというわけです。
ルソーはこれを「契約」と言っています。喧嘩のない自由で平等な社会は、この「契約」に満たされているはずです。

ただ、ルソーは個人間の契約じゃ、平和で平等な社会は実現しないと言っています。破ったりすることが簡単だからです。
だから、本当だったら「政府」を欲することになる、というわけです。国のあり方であれば、”ちゃんとした”政府があれば国を収めることはできるという算段です(2

暴走する「自由恋愛」

「契約」は個人じゃままならない

しかし、そう簡単にうまくいかないのが「人間関係」である。次の会話を読んでほしい。

「あのとき約束したのは何だったの?」

「約束?」

「『君を何よりも大事にする』って約束よ。話と全然違うじゃない。友達だって大事とか言っているじゃない!」

「え……。友達と恋人はなんていうか、違うじゃん。恋人は恋人として大事だし、友達は友達として大事なんだよ。いくら友達を大事にしたって、お前を大切に思う気持ちは変わらねえ!」

「なによ! そういって本当は、私とうまくいかなかったときのために、友達をストックしているだけの癖に! あなたにとって恋人も友達もただの都合のいい道具だわ!」

ただでさえ人間関係はめんどうなのに、恋愛絡みの話になれば、カオスは避けられない。
「友達を取るか、恋人を取るか」と言う問題は、人間が抱える究極の命題であり、個人的な関係に限られます。そこに、ルソーのいう「契約」が意味をなさないのは言うまでもありません。

「友達」の定義がめちゃくちゃである

「どこまでが浮気?」みたいな話で喧嘩になるのも、「友達か恋愛か問題」がややこしいからです。「友達であっても異性なんだから食事はダメ!」みたいな話も、大体この問題が関わってくる。
いったい、どこまでが友達でどこからが恋人なんだろう? っていうか、友達と恋人って何が違うの? あー、もうわかんない!

こう考えると、そもそも、「友達」の定義がめちゃくちゃなのが原因になっているのではないでしょうか。
友達って本当に人によっていろいろで、「一回話したことがあったら友達」っていうやつから「悩み相談できるくらい仲良くないと友達と言わない」というやつまでいます。

恋人は「契約内容」がめちゃくちゃである

一方で「恋人」の定義は、一応ちゃんとしています。「どちらかが思いを告白して互いに承認しあったら恋人」という「契約関係」によって成り立つものが「恋人関係」です。。

ただ、その「契約内容」が壊滅的なほどに破綻しています。「俺のものになってください」だとか「あなたと友達以上の関係になりたい」だとか、振り返って考えてみれば「は?」と思わざるを得ないものばっかりです。

告白の時にちゃんとしないから、「浮気はどこまで?」みたいな、バカみたいな話で争いが起こる。

250年前に、ルソーが既に「所有権を主張するなら、契約は必須である」と言っているのに、この様です。天国でルソーが「ほら見たことか」といっていることでしょう。
まさに、ルソーが「社会契約」で想定したようなカオスな社会が、恋愛関係において到来してしまっているというわけです。

今こそ「自由恋愛」を反省しなければならない

「自由恋愛」は最近形成された価値観だ

なんでこんなことになっちゃっているんだろう。実は、その理由は明白です。それは、「人は自由に恋愛できる」、つまり「自由恋愛」の価値観を持ったのは本当にここ100年のことだからです。

それまでは、結婚は「家全体で決めること」でした。だから、家が「そいつと恋愛しろ」と命令すれば、その人はもう「恋人」というわけです。逆に言えば、「恋人」ではない人間はみんな「友人」だした。なんてわかりやすいんでしょう。

ここでは割愛しますが、もっと昔にさかのぼると「結婚する人」と「恋愛する人」が別だった時代もあります。
何が言いたいかと言えば、僕たちが当たり前だと思っている「自由恋愛」は、歴史的に見れば、ごく最近の話だというわけです。

恋愛の仕方を今こそ考えるべきだ

だから、人間は「誰かと自由に恋愛をする」ことがめちゃくちゃ下手です。
友達? 恋人? なにそれおいしいの? そんな状態で、僕らは恋愛関係の構築を強いられているというわけです。

じゃあ、どうすればうまくいくのでしょう? 「政府」のような、恋愛を統制するような集合体を設置することは絶対にできません。
残念ながら、僕にはこの究極の問題を解決できるような処方箋を皆さんに渡すような力はありません。
しかし、可能性はあります。それは、「考えること」です。

哲学書に触れながら「思考」してみる

社会には、実に多くの恋愛指南書が発売されています。そこでは、人間関係のあらゆる解決法が提案されているでしょう。ここで、僕は言いたいのです。まずは、これらを全て捨てましょう。

代わりに何をすればいいでしょうか? それは、「方法を考える」ということです。考えに考えて、そして自分なりの方法論を見つけます。

しかし、きっと「何を」考えればいいかわからないというときの方が多いと思います。。そのときは、「哲学者」を調べればいいのです。哲学者は、「考えに考え抜いた、一番近しい他者」です。哲学者の思考方法を借りて、自分の恋愛を見つめればいいというわけです。

今僕も、ルソーを引いて「友達と恋人」の関係性の問題点を考察しました。そして「契約関係」がめちゃくちゃだって結論に辿り着いたというわけです。
こういう思考方法を自分の恋愛に「適用」するというわけです。もちろん簡単ではないし、独りよがりの解釈を生むことがあります。ですが、自分自身の恋愛に関してはそれでもいいと思っています。


今回の記事では、自分なりに「友達」と「恋人」の問題点を探りました。
今回の記事を起点に、「恋愛関係」をどう構築していけばいいか、友達と恋人の境界線は何かを考えていきたいと思っています。

多くの哲学者の著作を読んで、この問題にいち早く近づけるようにブログを更新していこうと思います。よろしくお願いします!


(1 ここで注意しなければならないのは、ルソーが「昔は自然状態”だった”」と言っているわけではないということです。あくまで、原理としてそういう状態が想定されるだろうというわけです。ルソーはしばしば教科書で「自然に帰れ」みたいな紹介のされ方をしますが、ルソー自体はそう言うことを全く言っていません。むしろ、「自然状態を脱した人間は今後どういう社会を作っていくのか」という分析にとどまっているだけなのです。
本記事では、そういう文脈で「恋愛関係」は社会契約が破綻しているという分析をしています。

(2 ルソーは”ちゃんとした”政府を作るために、「一般意思」という概念を導入しています。簡単に言えば、政府を「民衆がやりたい傾向」を反映させる形で作っていかなければならないというわけです。フランス革命前のこの社会で、これだけの思考実験を展開できたのは、ルソーに先見の明があったことを伺わせますよね。

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