美しさのために美しくなろうとするな――坂口安吾から学ぶ美しい生き方

朝起きて鏡を見ると、ぶよぶよと揺れる贅肉。この歳になると、消費されずにこびりついた脂肪分がダイレクトにお腹に溜まるようになる。僕はお腹をつまみながら、

「ダイエットしなきゃ……」

と、ため息をつく。そういうわけで、最近ダイエットを始めたのだが、しかし、プールの中で水中ウォーキングをしながら、「ダイエットをしてなんになるのだろう……」とついつい考えてしまう。すると、なんとなくやる気がなくなってしまうのだ。

そんな経緯を友達に話すと、「そんなん考えるんならダイエットなんかやめちゃえよ!」という。でも違うんだ。僕はやっぱり美しくなりたいんだ。毎朝、醜い姿の自分を眺めたくない。
でも、ダイエットをしているとどうしても虚しくなってくる。美味しいものは食べたいし、運動は辛い。そもそも、仮にダイエットが成功したとしても、今のような無理な生活を痩せてからも続ける自信がない。

美しくなりたい。でも、美しくなろうとすると虚しくなる。
そもそもこのジレンマはどこから湧いてくるのか。今回はこれを考えるために、僕が最近ハマっている坂口安吾を紹介したい。

坂口安吾(1906-1955)は、昭和前期、中期にかけて活躍した小説家である。非常に幅広いジャンルの作品を残しているために、彼を一言で紹介するのは難しいが、どの作品も直球で、ブラックユーモアが溢れていて、電車の中でもクスって笑ってしまうような文章を書く人である。
小説家だが、エッセイストとしても有名で、戦後、独特な切り口から戦争や、人間の本質をえぐりだした『堕落論』など、現代の人にとっても魅力的なエッセイも多く残している。

今回は、坂口安吾の美に対する思想が良く表れている『日本文化私観』を紹介する。このエッセイは、「「日本的」ということ」「俗悪に就て(人間は人間を)」「家に就て」「美に就て」の四章に分かれている。どの章もとても印象的で得るところがたくさんあるのだが、今回は「美に就て」から文章を抜粋したいと思う。

このエッセイでは、坂口安吾が心を惹かれるものとして、まず三つの物を挙げている。それは、「小菅刑務所」「ドライアイスの工場」「無敵駆逐艦」である。既に、この時点でおもしろい。試しに、ドライアイスの工場に惹かれているところの描写を抜粋してみよう。

さて、ドライアイスの工場だが、これが奇妙に僕の心を惹くのであった。
工場地帯では変哲もない建物であるかも知れぬ。起重機だのレールのようなものがあり、右も左もコンクリートで頭上の遥か高い所にも、倉庫からつづいてくる高架レールのようなものが飛び出し、ここにも一切の美的考慮というものがなく、ただ必要に応じた設備だけで一つの建築が成立っている。町家の中でこれを見ると、魁偉であり、異観であったが、然し、頭抜けて美しいことが分るのだった。

この時点では、坂口安吾自身、まだ自分がなぜこれらを美しいと思うのかについて気づいていないのだが、ヒントがすでに仄めかされている。「ここにも一切の美的考慮というものがなく、ただ必要に応じた設備だけで一つの建築が成立っている」のところの、「必要」が今回のキーワードである。
しかし、どうして工場を美しいと思うのか。どう良く見たって、「倉庫から続いてくる高架レールのようなものが飛び出し」たような工場が町家の中で鎮座していたら、普通は景観を損なっているように感じるだろう。環境破壊だと非難する人もいるかもしれない。坂口安吾の美的哲学は一体どのようなものなのか。それは、無敵駆逐艦に対する称賛が終わった後で、彼が紹介した三つの物の共通点に対する分析で、明確に説明される。

この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なくめられ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上ったのである。

すべては、ただ、必要ということだ――必要だけで作られたからこそ美しいというわけである。坂口安吾の美しさに対する思想の一つ一つが、ここでは説得力を持って語られている。
と、同時に、自分の価値観に対しても衝撃を与える。直感で言えば、美しいものには、必要に迫られるような切迫感はないような気がする。例えば、美術館の絵は、生きるのに必ずしも必要ではない。悠然と広がる自然の景色は、私たちの生に対して何の関与も示さない。しかし、だからこそ非日常的で、それを美しいと感じる気がしていた。坂口安吾は、このような美的感覚を全否定する。

確かに、ただ全否定されただけでは、僕は反発でもって彼の意見を迎えたことだろう。しかし、この説得力のこもった言葉の一つ一つに、私は情動を揺り動かされてしまうような気がしてしまうのだ。
よく考えてみれば、坂口安吾の作品も、一つ一つの言葉が、美辞麗句ではなく、信念がこもって使用されているように感じる。そして現に、僕はそんな坂口安吾の文章に惹かれているのだ――美しいの価値観が読んでいくにつれて、次第に反転していくのを感じる。現に坂口安吾は、小説の美しさについても触れている。

僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。

美しく見せるための一行があってもならぬ、と坂口安吾は力強く言う。「やむべからざる実質」に対する必要のみが、文章を美しくするというのだ。
坂口安吾の小説は、まさにその点において美しい。一つも無駄のない文章は、どこを取って読んでみても味がある。彼の作品を紹介するのに、一部を引用して魅力を伝えようと試みることがあったのだが、彼の文章はその小説の中においてのみ必要となるので、それ故に魅力を伝えられないということが良くある。それはちょうど、高架レールの飛び出た高架レールが美しいのを伝えるのに、高架レールを取って紹介するようなものだ。彼の小説には、その部分全てが必要で組み立てられているような美しさがあるのだ。

見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。

「美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである」という言葉に、僕はまたしてもハッとさせられる。そうだ、きっとこれなのだ。

僕は、美しくなろうとしてダイエットを始めた。しかし、その美しさは、素直でない心が生み出したものであり、つまり空虚から発せられた幻想なのである。だから度々、プールの水の流れにただ流されながらふと、「ダイエットして一体何になるのだろうか……」と虚しくなってしまうのだ。それは結局、「本当の物」ではないということだ。

しかし、一方で、では、自分にとって「必要なもの」とは何か。僕はそれをどうやって見つければいいのか。と、坂口安吾に聞いてみたくなる。それはきっと今すぐ答えは出るものではないだろう。
だが、「必要なもの」は、生きている限り、まざまざと目の前に切迫してくるように思われる。僕は、毎朝鏡を見て、自分の腹に詰まった贅肉を見て落胆した。そして、肉をつまみながら、僕は必要に駆られて「ダイエットをしなきゃ」と思った。そこに、日頃の生活において堕落したリズム、たるんだ精神、歪んだ人間関係を見たのかもしれない。なんだか分からないが、とりあえず僕はそれを必要だと思ったのだ。

プールで水圧を感じながら歩く。水の中で綺麗に歩くには、例えば背筋をしゃんと伸ばして、例えば腹筋で水を押しながら歩かなければならない。フォームを一つ一つ確認しながら、ゆっくり一歩を踏み出す。その全てが洗練されて、全てが必要で組み立てられていく。

そう考えれば、ダイエットそれ自体を美しいと見たらどうか。なるほど、そうか、ダイエットが美しいのか。すると、突然、ダイエットがしたくなるではないか。美しいダイエット、を僕は極めたい。
「美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである」という坂口安吾の言葉を、もう一度反芻してみる。美しくなろうとして、ダイエットを始めてはいけないのである。僕は、必要に駆られて、美しいダイエットを始めたというわけだ。

坂口安吾『日本文化私観』

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