すぐわかる!愛の倫理学者マックス・シェーラーを生んだ愛の秩序①

スポンサーリンク

哲学界の鬼才マックス・シェーラーの愛の現象学

忙しい人の為の解説(読み飛ばして大丈夫です!)

マックス・シェーラーは、19世紀後半のドイツの哲学者で、魂の全体的活動としての心情を根本的とする倫理学・人間学を構想した。
その思想は、哲学、倫理学、心理学、社会学、医学など幅広く影響を与えており、「生命について哲学するのでなく生命の充実から哲学した情熱的哲学者」などと評価されている。

シェーラーの功績は、近代の道徳哲学において失われつつあった愛の概念を、フッサールの現象学を用いて取り戻そうとしたところにある。
知的な合法則性に還元されない、独特な愛の秩序を構想したパスカルに影響され、カントの合理性には還元されない独自の秩序があることを現象学の視点から主観を通じて分析した。
シェーラーは愛に、価値の五段階(聖価値・精神価値・生命価値・快適価値・有用価値)を価値世界に導入し、普遍的妥当性を示している。
そこから、愛の秩序を組み立てることによって、愛に立脚したシェーラー独自の倫理学を構想している。

そこには、プラトン以来ずっと続いていた、「認識が愛を基礎づけている」という図式を、アウグスティヌスの火の論理に影響を受けて、「愛が認識を基礎づけている」という図式に変換したという大きな功績が見て取れる。
このことによって、シェーラーは愛から「共同感情」と「衝動」を分けて考えることに成功した。いや、これは本当にすごいよね。

現代の恋愛観にも大きな影響を与えているマックス・シェーラーの愛の現象学。結構難しい人なので、今回はシェーラーに大きな影響を与えたプラトン、アウグスティヌス、カント、パスカル、フッサールの思想を足がかりにその外観を説明します。
もちろん次回は、具体的にシェーラーの思想を解説しますので、今回はシェーラーの理解を助ける思想をいくつか学びましょう!
今恋愛で悩んでいる方には、お勧めの哲学です!よかったら読んでください!

プラトン以来続いてきた愛の秩序

倫理学では、長年かけて愛がどんな段階を踏むのか、その現象がどのように整理されるのかということを様々に議論してきた。
具体的に「愛の秩序」という言葉を使ったのはアウグスティヌスなんだけれど、時代をさかのぼるとプラトンに辿り着く。プラトンのエロース、アウグスティヌスのカリタスの教説はまさに愛の秩序を構想した思想だったのだ!(詳しくはエロースカリタスを参照)

まずは、愛の秩序がどのように変わっていくのかを見てみよう!

プラトン、アウグスティヌスの愛の秩序の変遷

簡単に説明すると、エロースは肉体愛から知識愛への上昇という性質、カリタスは神を愛し、神のために何かを愛すという性質だとそれぞれ説かれていた。
平たく言えば、プラトンにおいては「何を愛するか」が問題となり、アウグスティヌスにおいては「神をどうやって愛するのか」が問題となっていたんだよね。

さらに言えば、プラトンにおいてはこの愛の秩序は、世界全体の秩序として理解される。要は、「世の中はこうなってんだぜ!」というわけだ。
それに対し、アウグスティヌスは、「神がこのように世界を作ったんだから、肉体はただのレアキャラ。神は超ウルトラレア。ね、超ウルトラレアを愛そうぜ!」と説明している。
要は、プラトンは宇宙(コスモス)ありき、アウグスティヌスは神ありきの秩序だったわけ。

そして、後にパスカル、マックス・シェーラーに大きな影響を与えたのが、このアウグスティヌスによる「火の論理」だ。
カリタスが何故神を愛するようになるかの説明に、アウグスティヌスは愛の熱量を説いている。要は簡単に言えば、めっちゃあっつい愛に僕たちは浮かされるってわけ。
ここに、愛が単なる合理性に還元できないような、愛独自の法則性を見ることができる。

中世スコラ哲学における愛の秩序の受容

アウグスティヌスにとっての神は絶対的な存在だったため、その価値も不動的だったんだよね。つまり「神が、肉体がレアだって言ってんだからレアなんだよ!神は超ウルトラレアだ!」ということだ。この考え方は中世スコラ哲学にも広く受け入れられていった。
しかし、「え?神だって自由に色々できるんじゃないの?」と、後期になってくると言われ始めるようになる。すると、「神だって自由なんだから、何を好きになろうが人間の自由じゃん!」という考え方が広まってくるわけだ。

そうなると、今まで「これは、これ。それは、それ」みたいな感じで決められてきた事物の秩序が、「いや僕はこうだと思う。私はそう思う」みたいに、主観的に捉えられるようになった。

すると、倫理学の領域は、あるかどうかも分かんない愛の話をするよりも、自由とは何か?自由を行使する意志ってなんだ?という方向に関心が向くようになる。意志の方がなんとなく愛よりはあるっぽい感じがするからね。
こういう経緯から、愛から倫理学を考えるより、意志がどうあるべきかが問題になって、意志から始まる道徳を考えるに至ったわけだ。

カントの義務論と、マックス・シェーラーの反応

その最たる哲学者がイマニュエル・カントだ。カントは有名かな?カントは、感情とか情動とかそんなものはいらん!思いやりは道徳的には何の役にも立たないのだというのだ。
僕達人間は、誰しもが従うルールによって多かれ少なかれ影響されていて、自分にとっての幸福に目を向けて行動することが大事だというのだ。つまり、「理性によって道徳的な行動が可能になる」というわけだ。

無理?まぁ、人間だし無理なこともあるさ。だけど、必ず「純粋理性」というものが存在するんだから、それを常に自分で見極めようとして行動しなさいと。その意味で人間は真に自由意志を行使できるというわけだ。
カントにおいて、人間の自由の所在はもはや神にはなく、自分の行動は自分で考えようとするといった、非常に責任感の強い倫理学が完成した。

カントのこういった合理性に根差した倫理学は、マックス・シェーラーにとっては受け入れがたかった。端っから個人の感情を無視した倫理学なんて、もはや倫理学ではないじゃん!というわけだ。
そこで、シェーラーは、社交界のプリンス、ブレーズ・パスカルに影響を受けることになる。

パスカルが考えた、物理法則に還元できない愛の秩序

マックス・シェーラーの説明はまだか!って人はごめんなさい。パスカルの説明なしに、シェーラーの話はできない。それほど、パスカルの愛の秩序は、シェーラーに大きく影響を与えている。

パスカルの『パンセ』に残る、愛独自の法則性

まぁ、でもグダグダと書いているとまた記事が長くなっちゃうんで、簡単な説明にとどめておきたい。
パスカルと言えば、気圧の単位になっていたり、確率論を発明したりとどっちかっていうと数学者で有名だよね。無論、パスカルは生前、数々の数学の理論を生み出すのに熱中していた。

だけど、一方でパスカルは、よく社交界に出入りしては人間観察を繰り返していたようだ。
そうしてパスカルは、愛独自の法則性を発見するに至ったようである。いいなぁ、モテモテか!その法則性は、パスカルの死後に、パスカルの友人によってまとめられた『パンセ』に書かれている。

愛の現象そのものが独自の法則性を持っているというパスカルの指摘は、よく名言集なんかでも見かけるあの一文に見られる。てか、俺がこの一節がめっちゃ好きなので、ちょっと引用したい(笑)

人間の空しさを、底の底まで知りつくしたいと思う人は、恋愛の原因と結果を、じっくり観察してみるだけでよい。その原因は、<なにやら得体の知れぬもの>(コルネイユ)であり、その結果ときたら、それこそ実におそろしい。この<なにやら得体の知れぬもの>、見わけもつかないほど小さなものが、全地を、王侯を、軍隊を、全世界をゆるがす。クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、地球の全表面は変わっていただろう。

ちなみに、クレオパトラは、ローマの第二回三頭政治の有力者だったアントニウスを誘惑した女性だ。アントニウスは結果として、オクタヴィアヌスに討たれてしまうが、そこにはクレオパトラの存在が影響したと言われている。
ともかく、クレオパトラがあとちょっとでも美人じゃなかったら、もしかしたら歴史が変わっていただろう!というのである。真偽は別にしても、確かに恋愛には底知れぬ力があるんじゃないだろうか!

自然科学的知見から眺める、愛独自の法則性

さて、やっと本題なんだけれど、パスカルは『パンセ』の中で具体的に、愛の法則性を「身体・精神・愛」のみっつに分けている。
物理的な法則である「点・線・面・体」には還元できないがしかし、面をいくら加えても体はできないと同様に、精神をいくら加えても愛はできない。その次元の移行には必ず「無限」の観念が必要となる。
自然科学の秩序に無限という観念が必要だという事実は、愛にも無限の観念に立脚した秩序があることを示唆している。

ただ、愛の秩序は物理法則には還元できない力が存在している。そう、クレオパトラがアントニウスを滅亡へと導いたように!

シェーラーはこのパスカルの愛独自の秩序に大きな影響を受けることになる。そうして、シェーラーは、愛の作用を現象学によって分析することにより、愛の秩序に更に普遍性を与えたのである。

マックス・シェーラーの愛の現象学

やっとマックス・シェーラーに辿り着いた…。とにかく、シェーラーの倫理学は難しいんだよね。
でも、やっと畑は整った!プラトンのエロース、アウグスティヌスの火の論理、カントの義務論、パスカルの愛の秩序に大きな影響を受けたマックス・シェーラーの愛の現象学!…あ、現象学…(笑)

フッサールが始めた現象学とは?

いや、マックス・シェーラーの項目でほかの人の思想を出すのは本当にこれが最後です。現象学を始めたドイツの哲学者エドムント・フッサールの話をちょっと出さないと、シェーラーはきつい。でも、最小限にとどめておく。(現象学はまたどこかで記事にします!)

超絶簡単に言えば、哲学ではその事物(例えばリンゴにしよう)はあるのかどうか?が議論になってきた。
プラトンの「イデアにアクセスしてリンゴだと分かる!」という観念論とか、「赤い!甘い!みたいに観察して性質をカテゴリー分けしてリンゴだと判断する」というアリストテレスの経験論が大きな流れになっている。
当時は、例えば自分が死んだら世界には何も残らない、だからリンゴはあるわけではないけれど、心の中にリンゴという像ができるみたいな、イメージでものを見ているっていう心理主義が主流だった。
フッサールは、え?いやいや、そのイメージ、「思い込み(先入見)」なんじゃないの?って発想で、心理主義を退けようとする。

そんな、あるかどうかわからんものを議論しても仕方ないだろうよ!でも、リンゴを見ているという「経験」はあるよね。
じゃあ、この経験がどんな感じに成り立っているのかから学問を始めればいいんだ!となるわけだ。

これがなきゃ、リンゴをとりあえず認識できない。フッサールは、認識を認識対象から分けて考え、「作用」として認識を捉えた。そうして、この経験から思想を展開していくことによって、独自の学問を始めるに至ったわけである。これが、初期フッサールの現象学である。

「何を愛するか」は、とりあえず置いておこう!

まぁ、このフッサールさんはとにかく堅物で有名で、おおよそ「愛」を現象学に取り入れようとはしなそうな人なんだよね(もちろん他にもいろんな理由がある)。
マックス・シェーラーはこのフッサールに多大な影響を受けて、現象学によって愛を独自に分析し始めるというわけだ。ここに、シェーラーの功績があると言えるだろう。

さて、具体的に愛をどう現象学してきたかと言うと、今までは愛を生物の「機能」としてとらえる傾向にあった。
愛には何か目的があって、或いはそれ自体が目的となって対象へと向かう。そうであるがゆえに、「愛がどうあるべきか」という問題が主に取り上げられるようになったのである。

しかし、シェーラーは、愛を現象学で分析する際に、愛を「作用」として捉えた。
そうすることで、愛を何か目的をもった機能、つまり神を目的とした運動だったり生物学的な衝動だったりしたものが、愛の作用そのものに焦点が当たるようになったのである。

シェーラーは愛の作用そのものから構想を組み立てることにより、今までは「認識に基礎づけられた愛」だったのが、「認識が愛に基礎づけられる」という転倒を起こしたのだ!
これは、プラトンから続いた愛の秩序の伝統を真逆にして、愛の作用により近づけたという点でシェーラーの洞察の深い部分である。

そして、現象学のもう一つの凄いところは、愛の作用を考えることによって、「愛の対象が何なのか」といった問題から、「愛と対象の関係は何か」という問題へと移行したのである。
シェーラーは対象を対象としてみるのではなく、「価値を含むもの」と見ることで、「価値倫理学」という新たな倫理学を構想するに至った。すげえ!!なにそれ!?

これによって、愛の独特の本質が多数に開かれることになるというわけだ。いやあ、やっとなんとなくシェーラーの凄さが分かってきた。続きは次の記事で!

まとめ

とりあえず、シェーラーの愛の現象学は数々の歴史の変遷を経て生まれた壮大な構想なのであった。
それはプラトンのエロースの上昇の道から始まり、アウグスティヌスにおけるカリタスの愛の秩序、そして中世スコラ哲学と引き継がれる。
後期スコラ哲学や合理主義者によって一旦は隠れるものの、パスカルによって愛に独特の秩序が与えられて、愛の概念の復活に至る。

パスカルの愛の秩序は、アウグスティヌスの「火の論理」にも多大な影響を受けており、この着想を経て、マックス・シェーラーはフッサールが始めた現象学を用いて、愛の現象学を行うに至ったのである。

今回はマックス・シェーラーの思想を概観できたと思う。次は具体的にマックス・シェーラーがどのような思想を展開したのかを見ていきたい。
キーワードは、価値倫理学、共同感情、衝動、愛の秩序だ。こいつらを明らかにして、マックス・シェーラーの倫理学をとりあえず制覇しちゃおう!

参考文献とお勧め図書

スポンサーリンク