何かを始めるのに、必ず目標は必要と言えるのか?

勉強しているとき、しばしばやるべきことを見失うことがある。勉強とは、果てのない旅路を、目隠しをしながら歩くようなものである。そんなとき、あらかじめ歩く道を決めておけば、見えなくても手探りで少しずつ進むことは可能だろう。――だが、手に触れていた道が、突然消えてしまうことが良くあるのだ。

消えてしまったときのために、あらかじめ目標を決めておけば安心である。触れていた道が消えても、その方角が大まかに分かれば、軌道修正を施しながら前に進める。確信をもって一歩ずつ。そうして、僕たちは目標に辿り着く。

目標は大事だ。

本屋にうずたかく積まれている数々のビジネス本には必ずと言っていいほど、「目標が大事だ」と書かれている。僕もそう思う。目標を立てることは本当に重要である。

勉強を始めるときに、「今日はここまでやろう」と最初に目標を決めてとりかかるのとそうでないのとでは、前者の方が圧倒的に作業効率が良い。目標が分かっているのだから、それに合わせてペース配分を決めて勉強をしていればいい。
それに、目標から逆算すれば、「どういう勉強をすればいいのか」といった見通しが立てやすい。例えば、どこから勉強を始めるのか。どの教材を使えばいいのか。どの分野に取り掛かればいいのか。読むのか、書くのか、覚えるのか? そういうことが、目標から遡及していくことによって、たちどころに明らかになるのだ。

しかし、どの程度の目標を立てればいいのか? 「どの程度」とは、例えば今日の分の勉強をやるのか、それとも、テストやレポートまでの目標を立てればいいのか。もっといえば、人生の目標を立ててしまうのか。
結論から言えば、目標はいくつ立てたっていい。短期目標、中期目標、長期目標。人生の目標。今日のノルマ。テストで何点取るとか、一回の通読でどの程度の理解を目指すとか。複数の目標を持つと、それだけ自分の行動を用意修正できるようになる。例えば、一つ短期的な目標が失敗しても、一つ上の次元の目標がしっかりしていれば、自分の次取るべき行動指針が立てられるというわけだ。

そうして、僕は違う次元の目標を計30個立てた。僕は、教科書を、ある目標に従って手に取った。ぱらぱらとページをめくると、僕の知らない単語が次々に飛び込んでくる。このままじゃやばい、と思って、僕はこの教科書の把握を目標に設定し、具体的にその遂行の筋道を立てるために目次を見た。目次は、この本の内容が、いくつかの章で成り立っていることを教えてくれる。僕は、この目次を目安に、自分の学習ペースを、つまりより細かな目標を決めた。
早速第一章を見ると、いくつかのキーワードがあらかじめ記載されていた。僕はまた、このキーワードの理解を目標にした。このキーワードを使って何かを第三者に解説できるレベルの理解でいいか。そして、まずは黙読で目を通す。随所に、パッと見ただけじゃ全く理解できない個所がいくつも散見される。僕はまた、この文章の理解も目標に追加する――。

しかし、ふとした瞬間に、本当にこの教科書で大丈夫なのかと、疑念を抱く。確かに僕は、ある目標の示すところに従ってこの教科書を手に取った。だが、その目標は本当に必要なのか。本当に適切だったのか。
だが大丈夫だ。僕にはもっと大きな目標がある。例えば、僕にはこの分野のレポートを書かなければならないという目標がある。しかし、なぜその分野のレポートを書かなければならないのか? 他の分野でもよかったのではなかったのだろうか。いやいや、僕には夢があって、そのためにこれは必要不可欠――。

という風に、今のような目標の立て方では、ひとたび大きな目標がぐらついたとき、それに付随した小さな目標の妥当性もすべて吹っ飛んでしまう。
もちろん、大きな目標は、そう簡単にぐらつくものではない。というのも、大きな目標は、その対象がより大きく、大雑把に決められる。ならば、その目標は比較的自由に決めているはずだ。ならば、大きな目標はより自分のアイデンティティに即しているだろう。だからぐらつかない。むしろぐらつく目標を大きな目標に据えてはいけないのである。
とは言ったものの、人間の好きなものなんて、コロコロ変わる。いくらアイデンティティに沿っていようが何だろうが、目標を変えたいと思わずにはいられないときくらいあるのだ。子どものときの夢をそのまま追っている人間などいるまい。

よく考えてみれば、大きな目標を「一つだけ」決めることにこだわらなくてもいいような気がする。人間は場面ごとに、自分の振る舞いをすっかり変えてしまうことがある。
例えば家での自分と、学校や職場での自分は結構違う。家で学校のように振る舞えば、きっと親に笑われるかもしれない。また、昔の自分と今の自分も大きく異なる。同窓会で、旧友に今の自分の状況を伝えたら、「あんなことを言っていたお前がなあ」なんて腹を抱えて笑われる。まったく、自分とは何だ。良く分からない。

だったら、大きな目標を一つに決めるなんて無謀なことをむしろやめた方が建設的だ。ということで、大きな目標を複数決めるというわけだ。僕には、これとこれとこれがやりたい。取捨選択しないで、それぞれの道を想定して、小さな目標を作っていくというわけである。

そんなこんなで、僕は100個の目標を抱いた。昨日は、この目標に向かって。明日はこの目標に向かって。今目指している目標がダメでも、違う目標があるという事実は、僕の気持ちを楽にする。少々非効率的だが、目標を失うリスクに怯えて過ごすよりはマシである。
しかし、本当に「非効率的」だろうか。実はそうでもないことが、目標を立てていればすぐにわかる。例えば、一見無関係な目標同士が、実は類似性を持っていたということがよくある。例えば、目標の遂行の条件が同じだったとか。心理学の勉強が、社会学の勉強に役立つことはたくさんある。英語の文法を勉強していたら、実は構造が哲学のある一分野に通ずる問題を持っていたとか。つまり、目標同士が相乗効果を持つことが往々にしてよくあるというわけである。

すると、自分が様々に立てた目標同士が引き合ったり反発したりして互いに関係を持ち始める感覚を持つに至る。ここまでくると、目標を「個」という単位で数えるのが馬鹿らしくなってくる。具体的には、「ん? この目標を目指しているときは、比較的多い目標を意識しているな」とか「今は楽々と目標をこなしている。だから、今意識している目標は少ないのだろう」とか。つまり、行動する際に意識される目標の数が「密度」となって表れてくるのだ。

少し、具体例を挙げてみよう。例えば高速道路などストレートな道は、比較的容易に走ることができる。というのも、ストレートな道では、意識される道が少ないからだ。逆に、カーブの多い道では、色んな箇所に意識を集中させる必要があるため、走るのが困難になってくる。
簡単な勉強のときは、例えば毎秒6個の目標を意識すれば事足りる。しかし、理解が複雑になってくると、達成すべき目標が多くなってくるから、例えば毎秒30個と密度が濃くなるのだ。
ここまでくると、自分の目標が自由自在に流動的になってきて、とても動きやすくなる。息を吸うように目標を立て、息を吐くように目標を捨てる。まるで、心拍数のように、目標の密度が変化する。目標とはなんてすばらしいのか。自分自身が、とても有意味に動いているような気がしてくる。

と、僕は川沿いを歩いていた。目標密度は、毎秒4個。頗る楽な道である。川を見て、芝生を見て、遠くの森を見て。この景色を収めておけば、僕はきっと帰ったらいいエッセイが書けると思うし、ゆくゆくは人気エッセイストになれるかもしれない。いや、絵を描くという目標も追加しようか。はたまた、詩か。それか――
ボフッ。僕は、芝生に急に倒れてしまった。土の匂いが、むわっとした湿気と共に鼻腔をつついてきた。どうしたんだ、僕の身体。早く起きなければ。しかし、僕の身体は動かなかった。目の前に、青空が広がっていたからだ。

空はきれいだった。広々として、吸い込まれそうになる青。手を伸ばしたら届きそうなのに、僕の手の遥か上空に位置していた、青。空はきれいだった。僕にとって、きれいだった。
なぜきれいだと思ったのかを考えてみることにした。しかし、思考が空の中に溶けていくように、何も思いつかなかった。ただきれいだった。空はきれいだった。
きれいとはなにか。分からない。このきれいさを他に活かせるか? それもわからない。でも、空はきれいだった。どこまでも透き通ってきれいだった。僕はもうピクリとも動けなかった。空が、その腹で僕を押し込んでいたような心地だった。

誰かが「空のかなたには宇宙が広がっている」と言っていたけれど、本当にそうだろうか。僕は今、それを否定したい気に駆られていた。僕の目が、耳が、肌が、そう言っていた。あの空の向こうに、宇宙などあるわけがない。もし宇宙があれば、空があんなに綺麗なはずがないのだ。空は、空だからきれいなのだ。いつしか、土の匂いもしなくなっていた。

このきれいな空の前に、目標なんかくそくらえだ――と、僕は思った。

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