「客観」は「心に映し出されたイメージ」という意味だった③

前回の記事→「主観」は昔、「客観」の意味を持っていた!?②


近代以前では、驚くべきことに「主観」は「根底にあるもの」を意味していた! あらゆるものの根底には主観がある。豚も木も、あのかわいい女の子も全部主観によって成り立っているというわけです。

この意味だと、主観は「客観」により近い意味合いで使われていたことが分かります。え、じゃあ客観は? どんな感じで使われていたの?

ということで、まずは「客観」がどのように使われていたか説明していきましょう。

「客観」は「心に映し出されたイメージ」という意味だった

主観が「根底にあるもの」という意味で使われていたときには、「客観」とセットで使われることはありませんでした。
客観は、なんと、「心に映し出されたイメージ」という意味だったのです!

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「客観」は「心に映し出されたイメージ」である

主観subjectum(ラテン語)が根底に横たわる現実的実在であるのに対し、客観objectumラテンは「前に投げられたもの」として、意識の表象像、意識内容を意味する。たとえばデカルトの「客観的実在性」は意識のうちにある限りでの実在性を意味している。

日本大百科全書(ニッポニカ)より引用

客観は「前に投げられたもの」を意味する!

現在、objectは名詞で「対象、目的」、動詞で「反対する」という意味があります。
日本大百科全書にもあるとおり、objectの語源であるラテン語のobjectumには「前に投げられたもの」という意味があり、そこから派生したものと考えられています。

なるほど確かに、例えば僕の目の前にあるパソコンは「前に投げられたもの」として存在していると言ってもいいかもしれません。
僕の「主観を離れて」そのパソコンはあると言えます。というのは、「このパソコンはない」と僕がいくら思おうとも、パソコンの存在は消えないからです。
パソコンは、僕から投げられて存在しているのだから、当たり前な話ですよね!

前に投げられるものは「心に映し出されたイメージ」だった

しかし、「客観」という言葉が使われ始めた当時ではそうではありませんでした。
なんせ、パソコンを成り立たせているのは「主観」なのです。主観によって成り立っているのは「僕」だけではありません。

だから、「主観を離れて」と言った表現は間違っています。「投げられた」というのは、マジで投げられただけなんです。
じゃあ、何が投げられたか。それは、「イメージ」です。具体的には、「心に映し出されたイメージ」だったというわけです。

どういうことかというと、例えば今目の前にパソコン(あるいはスマホ)があるとします。見たり触ったりできるのならば、間違いなくパソコンはそこにあります。それは、疑いようがありません。
したとき、「見たり触ったり」するとはいったいどういうことなんでしょうか。それは、パソコンが「心にイメージとして映っている」からです。この「イメージ」を「表象」といいます。

客観は、意識に映し出された「表象」という意味を持っていたということです。え、それって「主観」じゃないの……?

客観は必ずしも実体のある物を指すわけではない

このような実体のないイメージを「観念」と哲学では言うことがあります。じつは、近代まで、「客観」は観念的なものを指すことが多かったんです。

現在では、「悲しい」とか「嬉しい」とかいったような観念的なものは「主観的」だと言われることが多いですよね!
なのに、近代以前ではそれが「客観」だと呼ばれることも多かった。まさに、主観と客観が逆転していたというわけです。

ここで注意しなきゃいけないのは、「主観/客観」はこの時代ではセットで使われることがほとんどなかったという点です。
あくまで、主観は「根底にあるもの」で、客観は「前に投げられたもの」を意味するだけで、全く違うものを指していたというわけです。

デカルトも「客観」を表象されたものに使っている

「客観」という言葉を、「意識内の表象」という意味で使っていたのは古代、中世の哲学者だけではありませんでした。
中世のスコラ哲学と近代哲学に分ける際に重要な人物である、フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596-1650)も同じ用法で使用しています。

我思う、ゆえに我あり

デカルトと言えば、「我思う、ゆえに我あり」の思想で有名です。
簡単に説明すると、世界のあらゆるものは疑いうる。目の前にあるパソコンも、私がいなければ本当は存在しないんじゃないか? などと疑える。
だけど、「疑っている私だけは疑い得ない」のではないか。なぜなら、「疑っている自分を疑ったら、今疑っていることと矛盾しちゃう」からだ。だから、「疑っている自分だけは疑えない」というわけです。

この「疑う自分」を、デカルトは「思惟する(考える)主体」と呼びます。この絶対に疑い得ない「思惟する主体」から哲学的探索を始めることで、あらゆることを考えられるというわけです。
このとき、「思惟する主体」に映ったイメージを、デカルトは「客観的実在性realitas obiectiva(obeiectivaは、objectと同じ語源に属す言葉)」と呼びます。

なるほど、デカルトもまだ「客観」を「心に映し出されたイメージ」という意味で使っているのか……。

デカルトに見る「主観/客観」の対立構造の萌芽

ん? 「思惟する主体」から、あらゆる哲学的探索は始まる。これは、もしかしてあらゆるものの「根底にあるもの」という意味で使われていた「主観」が、人間にあるって言っているんじゃ?

デカルトにおいては、まだ「主観」という言葉が「主体」に位置するものとして扱われてはいなかったようです。
しかし、中世スコラ哲学までは、「人間は神の被造物であって、あらゆる認識は神に由来する」と考えられていたため、デカルトの「我思う」は「主観」が現在の意味で使われるようになったきっかけを与えたと言えます。

それに合わせて、次第に「客観」も「意識」からだんだん独立して扱われるようになっていきます。なるほど、デカルトは現在の「主観↔客観」の構造に大きな影響を与えたというわけですね!


客観は「心に映し出されたイメージ」のことを指していた……。現在からは考えられない意味を持っていたことが分かりました。
この流れは何とデカルトの時代まで受け継がれていたというわけです。マジか……って感じです。

次回はようやく「主観↔客観」という対立構造がいつ、どのようにできたかという話に移ります。
具体的に言えば、イギリスの経験主義者のロック、ドイツの合理主義者のカントが出てきます。お楽しみに!


次の記事→「主観/客観」という枠組みに激震を起こしたデカルト

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