誰かに何かを「教える」人に向けて ―教えることは責任を引き受けるということである―

「世の中上手く生きていくためには、もっと自分を知らないと。好きなことの一つくらい見つけて、それに向かって突き進む勇気を持つんだ」

と、こんな恥ずかしいセリフを言ったのは、紛れもなく僕です。
進路先に迷っている生徒に向かって、塾で働く一講師として言わなければならなかった一言でした。
僕は、偉そうなことを言ったことに対して、反省しています。うだつの上がらないこの僕が、こんなことを一体どんな顔で言えるというのでしょうか。
なんの権利があって、僕は人に対して「好きなものへ突き進む勇気を持て」と綺麗事をぬかすことができるのでしょうか。

しかし、反省はしていても、後悔はしていません。
好きなものはない、でも大学にはとりあえず行きたい。だけど、モチベーションは上がらない、と言っている子に対しての適切な言葉は、今の僕にとってはこれしかなかった
僕は、今考えられる限りの適切な言葉を探して、伝えたつもりです。
だから、後悔はしていません。

後悔はしていないけれど……なんだかむずむずする。

なぜむずむずするのか。それは、実際僕も生徒と同じ境遇に立っているからです。
「自分をもっと知れ。好きなものを見つけて、それに邁進する勇気を持て」というのは、本当は、この僕にこそ必要な言葉です。
僕は、自分が本当は何が好きなのかを、真な意味で知っていると言えるのでしょうか。
僕は様々なことに悩んでいます。これをやっていいのか、あれをやっていいのか。結局、僕は「好きなことをやる勇気」を持てていません。
だから、自分の言葉が自分にも当てはまることに対する一種の躊躇が、きっと僕をムズムズさせたのだと思います。

しかし、翻って考えてみれば、自分の言葉が自分に突き刺さらないことってあるのかなあと、最近はぼんやり考えています。
生徒に何をかを教えるとき、その言葉は「僕も大切に思っていること」が、その内容になります。
今のうちにこれをやっておけよ、とか。今からあれをやっておけば、この先楽になるぞ、とか。
しかし、僕の人生は決して楽ではありません。つまり、僕は自分が大切に思っていることを完全に遂行することはできていないということになります。
先生として、先に生きるものとして、僕は生徒にできるだけ楽をさせてあげたい。だが、僕は決して楽ではない。
したがって、僕の言葉は、少なからず「自己言及的」にならざるを得ないのです。

結局、僕は何をかを誰かに「教える」限り、僕はムズムズするのを避けることはできません。
ただ、僕に限らず、どんな人間も、完全な人間はいないのです。だから、先生も完全ではないし、生徒も完全ではない。
お互い完全でない中で、教え、教えられを繰り返していかなければなりません。
ここで、「教える」ことの特異性が、少しずつ浮かび上がってきます。誰かが何をかを教えるとき、その誰かは、なんの権利があってそれを他の誰かに教えるのでしょうか。
自分が完全ではないくせに、誰かに「完全になるには、こうするといいぞ」などと、なぜ言えるのでしょうか?

もっと単純に考えれば、「先生」と「生徒」の違いとは一体なんなのでしょうか。

僕が生徒だった頃、先生というのは生徒である自分よりも「知識量が多い」だとか「人生経験が豊富」だとか、そんな素朴なことを考えていました。
しかし、それは今なら違うと言えます。例えば僕は、生徒と中学の社会のテストで勝負しろと言われたら、きっと負けてしまうことでしょう。
大人は簡単に視野狭窄に陥って、物事を多面的に見ることがどんどんできなくなっています。何が良くて何が悪いのかを自由に考えることができません。人生経験なんて、大したことなんかないんです。

それに、知識量や人生経験が人よりも多いからって、「何をかを教えられる」と無反省に思い込むのは傲慢です。
最近は、Twitterなどで「これ知ってるか?知らないの?バカじゃん」などとマウントを取る人がいます。
美術館では、若い女性(女性というのが虫酸が走りますが)に話しかけて、あれやこれやと喋って愉悦に浸るおじさんもいます。
彼らは皆、「自分は教えられる人間だ」と傲慢に考えています。そして、その根拠が知識量や人生経験なのです。
確かに、多いんでしょう。ですが、とってもムカつきます。彼らの振る舞いは無知蒙昧にすら思えます。知識量や人生経験が豊富なだけじゃ、人に教える権利などないという風に見えます。

そして、最も奇妙なのが、ときどき、生徒から何をかを教えてもらう、という事態が発生しうることです。
一緒に現代文の課題文を読んでいて、僕は「この文章はこう読むんだ」と一定の読みを披露するのですが、生徒が「先生、ここがわかりません」と言うのです。そして、もう一回注意してみると、確かに僕も分からない。つまり、僕は分からないことをまんまと見逃していたのです。
きっと、相手が生徒でなければ――例えば友達とかだったら――分からないことを発見するのは難しかったでしょう
僕は、紛れもなく生徒に、先生に教えられる立場である生徒に「教えて」もらったというわけです。

ここまで書けば、知識量や人生経験があるだけでは、人に教える権利を持つことはできないと言うことが立証できたと思います。
先生は、決して知識量や人生経験だけでなれるものとは限らない。もちろん、それらで生徒を牽引していくのも重要な役目ですが、それ以上に何かを持っている、あるいは何かである必要がある。
それは何か。
それは、「責任」です。

考えてみれば、「人に何かを教える」ということは、相手の考え方を変えることでもあります。
体感的に、僕の生徒は、僕の考え方に一定量染まらざるを得ません。多感な青春期に、長時間自分の話を聞かせるわけです。生徒が、僕の影響を受けないわけがありません。
人間が、最初に何かを教わる相手は基本的には「親」です。人間の、親が占める影響力は絶大です。人間は基本的に、親から言葉を教えてもらうからです。
言語学者の祖であるソシュールは、言語を親から教えてもらうことを「社会的暴力」と呼びます。
誰が産んでとも頼んでいないのに、知らないうちに生を受けて、自分の選択権もなしに言葉を教えてもらう。僕は、幾度となく「英語圏に生まれたかった(つまり、英語なんか勉強したくない)」と親を恨みました。
基本的に、「教える」ことは「暴力」なのです。相手に拒否権はなく、かつ変容させられる。

「暴力」という言葉をやや敷衍すれば、先生は生徒に暴力を振るっていると言えるわけです(「体罰」が起こりやすいのも、とてもわかる気がします。だからこそ、戒めなければなりませんが)。
しかし、この暴力がなければ、人間は立ち往生してしまいます。親が、子供に言葉を教えることを放棄してしまえば(例えば、「英才教育」と称して、英語などを教えれば悲惨なことが起こるのは確実です)、もはや人間ではいられなくなるのです。
先生は、学校に生徒が教えを乞いにきた以上、何かを教えなければなりません。いくら自分が不完全だからって、先生である以上は教えることから免れることはできないというわけです。
だからこそ、暴力を振るう先生は生徒に対して「責任」を引き受ける義務がある。生徒に対して責任を持つことこそ、先生が先生たる所以となるのです。
したがって、自己言及的なってしまうことに怖じけず、その言葉がたとえ根拠のないものであっても、自分が大切だと思うことを「教える」必要があるというわけです。

「教える」ということは、僕にとっては非常に重い実践です。正直恥ずかしい。ですが、人はそろそろ、恥ずかしいと思っても、いや、恥ずかしいと思いつつも今一歩踏み出す勇気が必要なのではないでしょうか。

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