カントの「コペルニクス的転回」で「主観/客観」が定まる⑥

前回の記事→「主観/客観」の転換点になったロックの思想とは⑤


前回は、ロックの思想とその問題点を解説しました。

デカルトにおいては、「客観」が「心に映し出されたイメージ」という意味を持っていたために、「相対主義」や「独我論」が引き起こされました。
ロックは、「客観」の解釈を変えて、「心に映し出されたイメージ」と「物そのもの」にわけることでこれを克服しようとしました。

しかし、ロックにおいても「素朴実在論」という問題が発生します。「あるったらある」というイデオロギーはある種の暴力を生みます。
現代の科学における病理はそこに横たわっていると言っても過言ではありません。「なんでその選択をしたんだ!」という問いに対して、しばしば「科学的にいいと証明できたからだ!」と返されてしまうのは、この「素朴実在論」にあるわけです。

哲学では、当然それを乗り越えようとする思想があります。それは、ドイツの哲学者であるカントです。カントは非常に有名ですよね。業績があまりにも多い。
今日紹介するのは、ほんのその一部になります。カントは、現代の「主観↔客観」の対立構造の成立に大きな影響を与えました。

カントの「コペルニクス的転回」で「主観/客観」が定まる

カントにおいて、基体・主語から主観への決定的な意味転換がなされる。それ自身はもはや述語ではない主語としての無制約者が、いっさいの客観を自己のうちに包括する「我思惟す」の主観となる。この主観は、超越論的主観として、世界のうちにある経験的主観とは区別される。そして、この主観を実体化することははっきり否定される。

日本大百科全書「主観」より引用

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コペルニクス的転回って何?

僕がお勧めする、日常生活で使えたらなんかかっこいいワードNo.1な「コペルニクス的転回」をまずは説明していきたいと思います。

コペルニクスは良く知られている通り、これまで信じられてきた「天動説」を放棄し、「地動説」を唱えた人物です。

コペルニクス的転回とは?

簡単に言えば、コペルニクス的転回とは「ずっと常識に考えられてきた説を覆し、よりよい発想を発明すること」です。

コペルニクスは、1000年以上も信じられ続け、なおかつ当時の最高権威として考えられていたアリストテレスお墨付きの「天動説」を覆し、「地動説」を唱えました。

「地動説」自体の発見は実は何人か前に行なってはいますが、コペルニクスの発見は時代とその後の展開が重なり、今も地動説を現代にまで定着させた人物として不動の人気があります。

コペルニクスの意義とは

とりあえずすごいのは、「宇宙は地球中心にできている!」という、なんとも地上から見たら当たり前な発想を、「いや、地球が太陽の周りをまわっているのだ」と大胆に覆したことです。
普通に生きていれば皆さんはきっと「天動説」を信じるでしょう。いまでも「日が落ちて」という表現が通用するのは、直感では天動説を信じている証拠です。

自己中心的な考え方は、人間が普遍的に持っている考え方です。
例えば、曖昧な基準で判断を迫られたとき、人はその基準を「自分の常識」で決めがちです。具体例を挙げると、1000円が安い、高いという判断を迫られた場合、人は「自分の所持金」を基準に考えるということです。
10000円持っていれば安いし、100円しか持っていなければ高いと判断するでしょう。

コペルニクスはその「地球が中心だ!」という発想を、「いや俺らは宇宙の一部だ」というのは並みの信念じゃないと難しい。
コペルニクスの説は事実、ブルーノの体系化、ガリレオの実証を経て今に至りますが、いずれの人も処刑されたり有罪判決を受けたりしています。

コペルニクス的転回に至ったカントの発想

カントにおいて、基体・主語から主観への決定的な意味転換がなされる。それ自身はもはや述語ではない主語としての無制約者が、いっさいの客観を自己のうちに包括する「我思惟す」の主観となる。この主観は、超越論的主観として、世界のうちにある経験的主観とは区別される。そして、この主観を実体化することははっきり否定される。

日本大百科全書「主観」より引用

実は、自らの発想に「コペルニクス的転回」と名付けたのはドイツの哲学者であるカントです。
「存在論的転回」や「言語論的転回」など、その後さまざまな事柄に使われるようになりますが、カントの「コペルニクス的転回」とはなんでしょう?

主観(根底にあるもの)の意味を変える

さて、ロックの思想の問題点は「素朴実在論」を生んでしまうということでした。
何も考えずに「物が存在すること」を受け入れることは、哲学の姿勢としてはあまりよろしくありません。

しかし、カントはロックの「心に映し出されたイメージ」と「物そのもの=外的対象」の案はそのまま受け継ぎます。
カントが問題にしたのは、「主観」のありかです。

おさらいすると、主観は「根底にあるもの」を意味しました。今と用法が全く違って、「あらゆるものを成り立たせるときに根底にあるもの」を主観と呼んでいました。
ロックの思想においても、主観は「物そのもの=外的対象」にありました。つまり、「人間の認識は、物=対象によって決まる」というわけです。

簡単に言えば、「僕たちが物を見ることができるのは、物がそこにあるから」というわけです。つまり、「物の存在」が前提となって、人間の認識が成り立っているということです。

カントはそこを問題にしました。「物の存在を前提にしちゃっているから、素朴実在論が出てきちゃうんじゃないか?」というわけです。
ここまで理解すれば、カントのコペルニクス的転回を理解するのは難しくありません。カントは発想を真逆にします。つまり、「物=対象が、人間の認識によって決まる」と考えればいいじゃないか! というわけです。

「認識が対象に依存する」から「対象が認識に依存する」へ

こうすれば、「物の存在」は人間がそれをどう見るかによって決まると言えるわけです。ここが大事なのですが、カントにおいては「主観=根底にあるもの」が人間の側へ移動します
つまり、現代の用法である「主観=人ひとりの考え方」の定義がここで決まったというわけです。あぁ、長かったな……(笑)

こうすれば、「人間には物を認識する能力があらかじめ(ア・プリオリ)備わっているから、物を見ることができるんだ」という発想につながります。
なので、ここには「素朴実在論」の入る余地は……ん? 「物そのもの=外的対象」はどうなったのか?

「外的対象=物自体」は認識の外部へ

カントは、人間があらかじめ持っている形式を「空間と時間」だとしました。そのため、対象である「物そのもの」は、空間と時間の形式に縛られた状態で表れてくることになります。
それを人間は「カテゴリー」という形式でもって、物を認識していくというわけです。簡単に言えば「バナナや梨とは違うから、あれはリンゴ」といった感じです。

なので、客観という言葉の意味も「心に映し出されたイメージ」だったのが、「人間の持つ空間的時間的形式によって現れ、カテゴリーとして認識された現象」という意味に変わってきます。
簡単に言えば、「人間自身が、物の形を変えてイメージ化してる」ということです。

カントによれば、あらゆるものは人間の認識を前提にしか現れることはありません。言い換えれば、あらゆるものは「現象」という形でしか現れないということです。
この意味では、客観は「人間の認識によって現れるあらゆる現象」となります。こうして、目の前に現れた現象としての物は、「客観」といえるわけです。おお、同時に客観まで現代と同じ用法になった……。

なので、現代の「主観↔客観」の対立構造が成立したのはカントにおいてであるということができるというわけです。やったーーーー! 起源が分かったね!

じゃあ、「物そのもの」はどうなったか……。カントはそれを「物自体」と呼んでいますが、カントによれば人間は「物自体」を直接認識することはできないといいます。
これは、感覚的にも分かりますよね。時間にも空間にもカテゴリーにも縛られないような「物」ってなんなんだろう?(カントによれば、「仮定する」ことはできるそうです)

こうして、ロックでいう「外的対象」、カントの「物自体」は認識の外へ追いやられます。つまり、「実体としては存在していない(実在しない)」が、「物自体はあるだろう」ってわけです。
カントは自らを「観念論者(物の実在を信じない人)」と呼んでいますが、なるほど、こうやって素朴実在論を回避したというわけです。

これで、ロックの思想の問題点を克服したというわけです。

まとめ

カントは「認識が対象に依存する」という従来の考え方から、「対象が認識に依存する」という考えに至りました。カントはこの発見を「コペルニクス的転回」と名付けたわけですね。

これによって、「主観」は「人間の認識」に位置することになり、「人間があらかじめ持っている形式(時間と空間、そしてカテゴリー認識)によって立ち現れる現象」を「客観」に位置付けました。
これによって「主観↔客観」(主観によって客観が把握される)という現代に通ずる図式が出来上がったというわけです。

そして、私たちの主観では把握しきれない、空間にも時間にも関係のない物そのものを、カントは「物自体」と名付けました。
こうすることによって、ロックで問題となっていた「素朴実在論」を退け、カントは自らを「観念論者」と呼ぶことになるわけです。

実は、「主観↔客観」の図式の成り立ちが分かったところで、このシリーズの当初の目的は達成されました……(笑)
ただ、このカントの「物自体」という概念は、この後の哲学において様々な批判を生むことになります。

例えばカント自身は、「物自体」の概念の中に「自由」の概念の結びつきを考えることになります。また、ドイツ観念論者のショーペンハウアーは「物自体」を意志・意欲・生命力と捉え始めます。
哲学では、こういう「何でもありの概念」が生まれると必ず「イデオロギー」を呼ぶという批判が湧きます。そりゃそうです。
例えば、僕だって『「物自体」は愛だ!だ から、みんな人間を愛せ!』とか言えちゃうわけです。「お前が、愛が好きなだけだろ」って言い返されるのも無理はありません。

というわけで次回は、カントの思想をもう少し掘り下げて説明し、問題点も明らかにしていきたいと思います!

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