「恋愛」とは何か: 「好き」をそろそろもう一度考えなおしてみよう!

みんな知っているようで知らない「好き」のこと

「好き」という述語は、人間生活に大きくかかわってきたにも関わってきた。例えば、書店へ行けば半分以上が「好き」のことだろう。「人の恋愛の本」だったり、「好きなことをする」という性質の強い「趣味の本」だったり。人は自分の「好き」に大いに興味を持っている。

にもかかわらず、「好き」は直接言及されることが少ない。例えば、合コンで出会いたての相手に「好きな人はいるの?」と聞かれたら、少し防衛本能が活性化する。「好きな人の話」はとてもプライベートな話題だと考えられることが多い。「恋バナはこのメンバーでしかできないよね!」と、「好きな人の話」を通して閉鎖的で排他的な集団を作りだす。

もう一つ具体例でこういう会話も挙げられそうだ。「僕はショートケーキが好きだ」「どうして好きなの?」「んんー、なんでって言われても…。好きだから?

「好きな理由」を聞かれたら答えに渋ってしまう場面はよくある。僕は「好きなこと」には必ず理由を具体的に上げるようにしている。例えばショートケーキであれば「生クリームとイチゴの組み合わせは、少ししつこいけれどまろやかな甘みを酸味で一つにまとめてくれているから食べやすい。それに見た目の美しさはどのケーキにも及ばない」なんて。でも、「本当に好きな理由」は分からない。何がきっかけで好きになったのだろうか。好きな原因が分からなければ、これはいわゆる「後知恵バイアス(1」というものだ。

「好き」は個人的な感情か?

「どうして好きなの?」という言葉はしばしば誤解を受けやすい。「好きだから好きなんだよ!」と語気を強めて言い返されたときは、恐らく「そんなものが好きとかあり得ない」のような非難に受け取られてしまったに違いない。自分の「好きの領域」は他人に侵されたくない部分に存在しやすく、非常にデリケートな部分である

その一つの理由に、「好き」は自己のアイデンティティと強く結びつきやすいことが挙げられる。アイデンティティは、心理学者のエリク・エリクソンが注目し、その後広く社会に受け入れられた概念で、恐らく専門外の人でも知っている方も多いと思う。「自分が他者とは違うと実感している程度」のことだ。アイデンティティの確立の根拠に「自分の好きなもの」を人は考えやすい。

例えば、自己紹介をするときに、しばしば「好きなもの」を公表する人がいる。「好きなもの」を教えれば、人に「自分の特性」を一緒に伝えられるとなんとなく知っているからだ。さて、僕の「好きなもの」はバイオリンなんだけれど、今あなたは僕に対してどんな印象を持っただろうか。

今の例のように、意図的に「好きなもの」を操作することによって「アイデンティティのシグナル」を変えられることも人はなんとなく感覚で分かっている。例えば、「この洋服を着れば、こういう人に見られるだろう」と考えるのはその一例だ。人は「好きなもの」或いは「好きだと思われやすいもの」をアピールして、自己のアイデンティティの存在を示すことをしている(2

「お前、そんなものが好きなんて変わっているな」とか、「あんなのが好きな奴とは付き合えない」という言葉は、過度にその人の特性と「好きなもの」を結びつけた推論であるが、こういったアイデンティティの結びつきをされやすいのは否めないということも、人は感覚でわかっていて、しばしば「好きなもの」を隠す。例えば「本当はこれが好きなんだけれど、このグループには言わないほうがいいな」と言った感じだ。しかし、それも一種の「アイデンティティのシグナル」に他ならない。「隠す」ことによって、人は相手に印象付けをしているのだ。

「好きなもの」が否定されることは、その人の「アイデンティティ」を否定されることとほぼ同じということになる。「好きなもの」はその人にとってとても個人的な領域で、人とは「同じ好きなもの同士」は共有できても、「その人と同じように」それを好きにはなれない。そういう認識が、人は感覚として持っているのだ。

自分の所属している集団をひいきしてしまう「内集団バイアス」

しかし、「好き」は本当に個人的なものなのだろうか?社会心理学では、そうではないといった知見が数多く存在する。例えば、「内集団バイアス」はその一例である。

例えば、カズオ・イシグロさんがノーベル賞を取った時に、彼が「日系」と分かると「凄い!もともと日本にいた人なんだ!」といったように、良い業績を残した人を自分の所属している集団(内集団)に帰属させようとしてしまうのである。社会心理学者のタジフェルは、先ほど説明した「自己に関するアイデンティティ」とは他に「社会的アイデンティティ」の概念を提唱してこの現象を説明しようとした。人は「自己」と「自分が所属する集団」という二種類のアイデンティティを持っている。

「友達がこの前、インターハイで優勝したよ」と誰かに教えるとき、不思議と「自慢」しているような感覚になる。その感覚は、自分が「自分の友達」と共有する「社会的アイデンティティ」の存在を示唆する。社会心理学者のマーク・レヴィンが「社会的アイデンティティ」に関しての興味深い実験をした。それは次の通りである(3

実験参加者はサッカー・ファンの研究に協力するという名目で小さな部屋に通され「どれだけ、マンチェスター・ユナイテッドというチームが好きか」についての文章をできるだけたくさん書いた。その後ビデオを見るために他の棟に移動するように言い、廊下を歩かせたが、そこには転倒して足首を押さえて泣いている人間がいた。実はこの研究は、その人間に実験参加者が援助したかどうかをカウントする実験だった。

その人間は実験協力者で、それぞれ「A:マンチェスターのシャツを着ている」、「B:他のサッカーチームのシャツを着ている」、「C(統制群):サッカーを意味するものを着ていない」というパターンに分かれていた。この結果の差は歴然でAを助けた割合はなんと92%だったが、他はBが30%、Cが32%しか助けなかったのだ。

この実験の意味をもう少し高めるために、追試実験で今度はマンチェスターに対する選好ではなく、「サッカーがどれくらい好きか」についての文章を書かせ同じ実験を行ったところ、今度はAは70%、Bは80%の人が助けるようになった(Cは22%と低いままだった)。つまり、「自分のカテゴリーがどこに位置するかを『事前に意識しているかどうか』」で「援助行動」に差が出たのだ。

人は自分の所属する集団を好きになる

因みに、このような「援助行動」の動機の変化は「無意識」に行われていることが多い。こういった実験を行った後で、「どうして助けようとしたんですか?」と質問するとほとんどの人が「助けたいと思ったからです」と言うそうだ(※要出典)。このように「自己カテゴリー化」によって助けるか助けないかが決まる傾向にあるにもかかわらずだ。

人は無意識に自分の所属する集団とそうでない集団の差異を強調する傾向にある。これを「集団弁別性を強める」と呼ぶが、タジフェルは「社会的アイデンティティ」を意識する動機の一つがそれにあたると言っている。なるほど、確かに僕も心当たりがある。僕は過去に「ニコニコ動画」で生放送をしていたことがあったが、ニコニコ動画と同じようなことがYouTubeでも行われるようになったとき、ニコニコ動画の界隈は「ニコニコ動画にはYouTubeにはないニコニコ動画の良さやノリがある!」と差異を強調していた。Twitterでやたらと肩書を意識している人間もこれにあたるだろう。

人は自分の集団を好きになる。例えば自分と同じことをしている人を好きになる。「え!?君もジントニックが好きなの?僕も好きだ。僕たちは気が合いそうだ」と言った感じで。そうして、内集団を強調し、外集団を排除する。「ああ、ね、モスコミュール。いいよね。僕はジントニックだけれど」と。ここで注意しなければならないのは、ジントニックもモスコミュールもそこまで性格に影響しないということだ。しかし、一旦ジントニック集団を作れば、ジントニックを好きなものに高評価を与える。

「自己」と「他者」の境界線を曖昧にしてしまう「好き」

「君には自分がないね」というセリフを考えたとき、どういった状況が考えられるだろうか。例えば「自分に好きなものはなく、人に賛同ばかりしている人間」にそういう評価は与えられやすい。それはアイデンティティの理論からもなんとなくわかる。

しかし、先の例でいえば、「自分の好きなもの」は社会的に影響されることがあるわけだ。例えば宗教では個人の好きなものはほとんどすべて宗教に依存する。「自分の宗教が言っていることはこれだから、自分もこれをする」といった事態に、「君自身の好きなことをしろ」と反論しても「これは自分の選択で、宗教の総意でもあるだけだ。だから自分がないわけではない」と言われるだけだ(4

そこでは、「自己」と「自集団」の融合が認められる。「君自身の好きなことをしろ」と言った人間は、どうしてそれに対して恐怖を感じるのだろうか。それは冒頭でいったように「本当に好きなこと」は実は分かっていないからである。しかし、「分かったつもり」に一生懸命なろうとして、「自己」と「他者」を区別している。こうして「アイデンティティ」を守っているのに、そういった「自己」と「自集団」の融合の事態を見せられては、自己のアイデンティティの存在意義すら揺らいでしまう。

だけど、ここでもう一回問いたい。「好き」とは一体なんだ?一旦ジントニックを好きになれば、「ジントニックを好きな自分」という枠組みが形成され、「ジントニックを好きな他者」が入る余地が生まれる。そうすると「ジントニックを好きな集団」が出来上がる可能性が表れる。「好き」と「自集団との融合」には切っても切れない関係があるのではなかろうか?

「好き」と「自集団との融合」の可能性

今回「も」長くなりすぎてしまった。記事を二つに分けるのはなんとなく嫌なので、この記事は「自集団との融合」との可能性を示唆したところで終わりたいと思う。社会心理学はやはり「科学的手法」に偏っているため(それは社会心理学が実験科学と密接になっていることに依る)、今度はより文学チックな、哲学的な議論をしたい。「自己と他者の融合」とはいったいどういうことか?今回も疑問点を挙げる。

「援助行動」と「好きになること」に関連はあるのだろうか?「好きだから援助する」や「援助するから好きだ」ということは、相関関係はありそうでも、因果関係は証明できそうにない。

やっぱり、「愛」という概念が、歴史的にどう獲得されてきたかの説明は一旦したいところだ。実は「自己愛」と「他者愛」は古代ギリシャをはじめ、キリスト教では長らく問題になってきた。

・「like」と「love」はそもそも違うのでは?というか、国によって「好き」の概念は全然違うらしい。そこら辺を無視した説明に少し違和感を覚える方もいらっしゃいそうだ。(僕はあんまり気にしていないが)

・実は、社会的な影響だけではなく、自己においてもその「選好性(それを好きだということ)」には「無意識」に影響を及ぼされることがある。その代表的な例が社会心理学者のロバート・ザイアンスが提唱した「単純接触効果」だ。「あ、この人見たことある!」が繰り返されると「この人好き!」にいつの間にかなっているという研究がある。


(1 「後知恵バイアス」とは、「物事が起きてからそれが予測可能だったと考える傾向」である(出典: Wikipedia)。つまり、「トランプが勝ったんだって?あー、あれね、確かに勝つと思っていたよ。ヒラリー・クリントンはパッとしなかったし」などと言ってしまうことである。しかもそいつは、選挙開票前は「え!?ヒラリーが勝つに決まってんじゃん!!」とか言っていたにもかかわらずだ。何を隠そう、僕のことだ。

(2 「アイデンティティのシグナル」に関しては『インビジブル・インフルエンス 決断させる力』(ジョーナー・バーガー著、吉井智津訳、TOYOKAN)を参考にした。人の「選好性」がいかに社会に影響されやすいかは、この本を読めばわかるだろう。本当に悲惨だ…笑

(3 『社会心理学・再入門 ブレークスルーを生んだ12の研究』(ジョアンヌ・スミス、アレクサンダー・ハスラム編、樋口匡貴、藤島喜嗣監訳、新潮社)の「傍観者効果」の項目を参考にしている。今回はかなり省略したので、詳しい研究手続きはこちらを読んでほしい。

(4 ジョナサン・ハイト『なぜ社会は右と左に分かれるのか 対立を超えるための道徳心理学』(高橋洋訳、紀伊國屋書店)を参考にしている。宗教が「利他性」を起こす仕組みを、「集団凝集性」の観点から論じている。同じくロバート・パットナムの『孤独なボウリング』も参照してほしい。

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