男女の間に「友情」は成り立つかという問題について

男女の間に「友情」は成り立つか

若者の間で「恋愛」の問題は恐らく上位を示すだろう。恋愛というものはそれほど厄介な問題であるにように考えられている。

その中でもとりわけ話題に上るのが、「男女の間に友情は成り立つのか」という議論である。
改めて考えれば滑稽な話である。例えば、男女のグループで話し合いが行われているとしよう。友人とそうでない人では、恐らく人は話し方を変える。友人では許されている話題は、初対面の人には許されないことは、割とどこでも共通の認識である。
もし、「男女の間に友情は成り立つ」ことが「ない」とすれば、男女間での話し合いの時に話し方を変えなければならないのだろうか?だとすれば、許される話題の少ない相手に話題を合わせることになり、必然的にグループでの会話は「初対面レベル」の会話しか成り立たないことになる。それはあり得ない。

しかし、この程度のレトリックで反論できるほど、この議論は実は浅くない。ウェブ上のアンケートによると実に3割以上の人が「男女の友情は存在しない」と答えている(1。「存在しない」理論にもそれなりに説得力があるに違いない。僕は、この議論に正々堂々と立ち向かっていきたいのである。
ということで、今回はこの議論に対して、「いかに考えるべきか?」のとっかかりを書きたいと思う。

そもそも、この議論は何を問題にしているのか?

まず初めに、僕の立場を表明しておきたい。
僕は、「男女の間に友情は成り立つか」という問いに、是が非でも「成り立つ」という意見を守りたいと思っている側である。
なぜなら、僕にはたくさんの素敵な女友達がいる。そんな僕が「友情なんて成り立たない」と結論付けてしまっては、「じゃあお前は一体どうやって女と仲良くしているのか」と、そう言われかねないからだ。

というか、多くの人間が、僕のように異性の友達を作りながら生活しているのではないかと思う。異性の友達を作るのはそんなに特別なのだろうか。そんなことは一切ないだろう。
このような疑問が出ることの方が、僕は奇妙に思う。

では、なぜこの問題について考えなくてはならないのだろうか。

そもそも世間の目は甘くない

「男女間に友情は成り立つのか」という言葉をGoogleで検索すると、初めの方に出てくるのは、「男女の友情は成立しない」という意見が連なっている。「成り立つのか」を聞きたいのに、検索上位にヒットするのは「やっぱり無理でしょ!『男女の友情は成立しない』心理的理由」である。
何が「心理的」なのかいささか怪しいが、「男女の友情」は「心理学」ととても近い話題だと考えられているようで、タイトルに心理学と入ったページも少なくない。

因みに、「男女間に友情は成立する?異性の友達を維持するために必要なポイント10」といった記事のように、「男女の友情」が成り立ちにくい前提で、それを維持するための心得を掲載しているサイトもある(2
こういった記事のほとんどが「女性目線」からの意見で、いささか腑に落ちないが、なるほど、世間の目はこういった評価なのだろう。

こうしたサイトで槍玉に挙げられるのは、男性諸君には残念な見解だが「男性の性欲」である。「男性の性欲」関係でよく主張される心理学的知見(笑)とは、次の通りである。

恋愛感情というのは、人間が繁殖という目的を達成するために生まれたものであって、あるのは仕方がない。これは、進化心理学でも言われていることだ。

なるほど、もっともらしい「適応主義」である。そもそも、恋愛感情がなければ、もっと言うと「性欲」が強くなければ、みんな性行為を行わないだろう。人類がみんな性行為を行わなければ、子どもは生まれないため滅びてしまう。だから、「恋愛感情」は、避けられないのだ。

恋愛感情に目的はあるのか?

確かに、こういう説は長いこと生物学の分野では信じられてきた。古く遡れば、生物学の祖である「アリストテレス」に由来する。
アリストテレスは「目的論」を『動物部分論』で次のように説明している。

動物の部分は、種的形相の獲得および存続という目的のもとで、その目的に寄与する仕方で本来的かつ固有の特徴を、つまり機能を有する。

簡単に言えば、「動物は、特有の目的を持っていて、その目的に向かって動くような機能を持っている」みたいなことを言っている。先の「恋愛感情」という機能が、種の繁栄という目的を持っていたといった話と酷似している。

しかし、現在の進化心理学ではこのような見方はほとんどしない。今は「ダーウィンの進化論的な説明」が主流となっている。進化論はよく聞くと思うが一回説明しておきたい。

進化論の骨子は「自然淘汰」と「突然変異」という概念にある。子孫は基本的に親の遺伝子を受け継ぐが、極まれにその塩基配列に変化が起こることがある。これを、「突然変異」と呼ぶ。例えば、色素が全くない「アルビノ」は基本的に突然変異だと言われている。

アルビノは基本的に、目立つことで外的と遭遇してしまうため生き残りにくいが、そのまた極まれに、本来の種族よりもその環境に生き残りやすい(適応している)変種が誕生する。
すると、生き残りやすい種は次第に数を増やしていき、だんだんとその種がその環境において「進化」するというわけである。この進化は、基本的には数千代を経由して成り立つのだ。

生物は何か目的を持って多様な進化をしているわけではないというのがダーウィンの見解である。動物の持つ恋愛感情は、「たまたま種の存続に適応していた」というだけであって、「種の存続という目的のために恋愛感情を持った」とは言えないのである(3

進化論的な説明をしても別に「男女の友情はない」という結論を出せるというわけではない

ダーウィンの進化論を信じるならば、「男性の性欲」を用いて「男女の友情はない」と結論付けることにもいささか疑問がわく。
例えば、性欲の強い動物の代表となるのが「マウス」だ。マウスは、基本的に性欲が強い。メスのマウスに性行為を持ちかけて、子どもが生まれるところも見ることなく次のメスに交尾を行う。マウスは基本的に「多産型」であるため、子育てをしなくとも問題にならない。

実は人類も、はるか昔は「一夫多妻制」をとる集団が今よりも多かったという報告がある。しかし、「一夫多妻制」は性病のリスクを考えれば、「少産型」の人類にはあまりにも適応的でなく、次第に「一夫一妻制」を取る集団が増えてきた。
現在は、一部の地域では「一夫多妻制」を取る社会は残っているものの、多数の社会では「一夫一妻制」を取っている(4
これはまだまだ議論の余地があると思うが、何が言いたいかと言えば「性欲」が進化論的機能と言い張るのであれば、「一夫一妻制」も進化論によって得られた規範、或いは機能なのである。
「男女の友情はない派」の言葉を借りれば、「一夫一妻制は大多数の人間にとって本能」だといえる(なくもない)。

ところで、「一夫一妻制が本能」であるとは一体どういうことか。
もちろん「一夫一妻制」は一つの要因だけで説明することはできないため、「これがあるから一夫一妻制」をとる、といったことは言うことはできない。なので、いくつか神経科学的な説明をするだけにする。
実は人間には二つのホルモンとその受容体があって、それは「ヴァソプレッシン」と「コルチコトロピン放出因子」だ。
ヴァソプレッシンには、実は男性が縄張りを守る習性を起こすと言われており、一人の女性を縄張りにして「浮気男」から守るという機能をもたらすと言われている。
一方で、コルチコトロピン放出因子は、人が「別れ」を経験した時に視床下部などに作用して「不快な」気持ちにさせる作用を持っている。これが実は、浮気に対する抑止力になっているといえるかもしれないのだ。

まぁ、細かい機能の話は置いておいて、何が言いたいかといえば、浮気を人間の本能とするならば、「浮気を非難する」のも人間の本能といえるし、「浮気されると辛い/するのは何となく罪悪感を感じる」のも人間の本能といえる(5
つまり、「男女の友情が成り立つか」といったときに、進化論的な説明では「あるともいえるし、ないともいえる」のだ。ウェブ上の意見の様に、「成り立たない」と決めつけるのは少なくとも間違っていると言える。

友情と恋愛の違いって?

進化論的な説明では「男女の友情は成り立たない」という説明はまだできないことが分かった。しかし、だからといって「成り立たない論」が消えたわけではない。

こういった話をするときに必ず問題になるのは「友情」の問題だ。例えば、「友情があると思っていたのに告白されてしまった」というとき、その人は「友情」と「恋愛」は別のものであるという考えを持っていることになる。
確かに、「友情」が「恋愛感情」に邪魔されるといった場面は容易に想像できる。そもそも、「友情」と「恋愛」は両立しないのだろうか?

ところで僕は先に、「異性の友達」がいると言った。じゃあ、僕はこの先彼女たちに「恋愛感情」を抱くことは一切ないのだろうか?答えは、「ないとはいえない」だ。
僕は例えば、「君には全く性的な魅力は感じないが、友達としては最高だよ」という、友情擁護派の言葉が個人的に大嫌いだ。性的な魅力を感じないってなんだ?完全に悪口じゃん。
僕は友達のパーソナリティを説明するときに「男であること」或いは「女であること」を無視するのはやり過ぎだと思っている。
「あいつは生物学上は女だけれど、性格は女じゃない」という言い回しは奇妙だ。性格に男も女もくそもあるものか。「男/女であること」、つまりジェンダーはその人の性格の形成に一役買っている一面もある。僕は「相手を異性だと認めた上で、友達だと堂々と言いたい」のである。

だから、友達であれば恋愛感情に発展しないという結論は正直なところ控えたい。というか、それは相手に失礼だ。
もちろん「この人と付き合うとか、全然想像できない。違和感だから付き合えない」ということはある。でもそれは別に「その人とは友情を育んでいるから」というわけではなく、単に「その人のパーソナリティ」が僕の恋愛感情と合わないというだけである。
恋愛感情が友情を否定するという図式は、是非とも取り払いたい。否定することがあれば「自分は友情だと思っていたのに、相手は恋愛感情を抱いていた」という相互の価値観の不一致だ。それを「友情の不甲斐なさ」に責任転嫁してしまったに過ぎないといえる。

「友情」とは一体何ですか

そろそろ僕が「友情」という言葉をどのように用いているのかが分かんなくなってきたと思う。実は僕もよく分からなくなってきた。
「友情」という言葉を使うのをためらっているほどである。一体「友情」ってなんだ?

実はもう記事が長くなってしまったので、「友情」については書けないが、なぜ「友情」という概念が問題となるのかまとめたい。

「男女の友情は成り立つか」という議論を巡って、友情という言葉に対する言及は非常に多い。
例えば、「友情は理性的な行動をすれば続けられる」とか、「友情だと思っていたのに告白された」といったものである。
友情は理性的な行動なのかどうか、或いは「友情」と「恋愛」はなぜ分けられて考えられる傾向にあるのかといったことに言及しなければ、恐らく「男女の友情は成り立つか」という問題を解決することはできないだろう。

友情とは何か」「恋愛とは何か」…恐らくこの二つの言葉の曖昧な定義こそが、この議論をさらに混迷しているのである。このサイトでは「恋愛」について割と色んな知見を書いているが「友情」に関してはまだ何もしていないので、次回はそれについて書きたいと思う。
では、疑問点をいくつか挙げて終わりにしたい。

・そうはいったって、人間ってみんな浮気するじゃん!人はなぜ浮気をするのか?浮気と友情の問題は非常に根深い。彼女ができたら女友達とは縁を切るべきなのだろうか。

・男女で、性的アプローチの取り方は実は違う。そんななかで、本当に友情を成り立たせることができるのだろうか。俺はできると思っているけれどね。てか、できるだろ。

・僕はこの記事を書くとき、「そもそも恋人という概念は必要か」ということを問いたいという動機で書き始めた。「恋人」という概念は、自由恋愛が許される前と後ではかなり様子が違う。「結婚」の意味が失われてきた今、「恋人」に対する夢がどんどん膨らんできている。恋愛のバブル経済だ!「恋人」という概念もいつか整理したい。


(1 「「男女の友情は成立する?」に完全決着!」を参照してほしい。まぁ、ウェブ状のアンケートなので信頼性は低いだろうけれど。
しかしまぁ、こういったアンケートの回答はひどいものだ。「理性」で制御できるだの、「生理的に受け付けない」から100%友達でいられるだの…友達を一体何だと思っているのか。怒り心頭である。

(2 このサイトの心得の一つに挙げられていたのは、「大勢の前で友達と公言する」だ。「友達という役割」を意識させることで男性は行動を変えるという根拠に社会心理学者であるフィリップ・ジンバルドーの「スタンフォード監獄実験」を挙げている。
スタンフォード監獄実験とは、大学生が「看守」と「囚人」の役割にそれぞれ分かれてそれぞれの役を演じさせた結果、実験参加者は役割に忠実になりすぎて、看守役がひどい言葉で囚人を罵ったり、拷問の方法を考え始めてしまって6日間で実験を中止する羽目になった事件である。
この実験をもとに、役割を演じることの危険さが示され様々な議論を生むことになるが、追試実験自体は、この実験と「アイヒマン実験」をきっかけに倫理的な理由で禁止された。
しかし、ジンバルドー本人も言及しているように、この実験には数多くの問題点が存在している。その理由に、「ジンバルドー本人も警官役で実験に介入してしまったことによる恣意性」や、「実験の追試の困難さによる、要因特定の不可能性」が挙げられる。何が原因であの事件を起こったのかがわからないのだ!
なので、この実験を引用しての説得には少々無理がある。というか、監獄実験と同じことが、友達という役割を示したくらいで起こるというのはちょっとぶっ飛び過ぎだ。(参考は、フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト』を読んでほしい)

(3 社会心理学でも、進化生物学と連携して進化論的な立場から「適応的視点」で人間の持つ機能の説明を試みようとしている。
しかし、その道は険しいといえる。例えば、「人はなぜ泣くのか」と言ったときに、「泣くという機能が、人間という種の生き残りに適応的だからである」というのが「適応的視点」からできそうな説明である。だが、この説明は「”人間という種”が人間に泣くという機能を持たせている」ということもできてしまう。
つまり、「人間という種」が人間を泣かせているという主張と言い換えることができるのだ。種族というカテゴリーが人を強制するという事態は「学校がいじめをした」といった議論と同じように、おかしな話である。これを社会心理学者のフロイド・オルポートは「集団錯誤」と言って避けるべきだと主張した。(参考、亀田達也ほか著『複雑さに挑む社会心理学』)

(4 ラリー・ヤング、ブライアン・アレグザンダー著『性と愛の脳科学』(中央公論新社)を参考にしている。同著では、人間の「一夫一妻制」が進化の末に獲得した機能だということを神経科学者の立場から論じている。
そこでは、見かけはほぼ同じである「アメリカハタネズミ(一夫多妻制)」と「プレーリーハタネズミ(一夫一妻制)」の実験がとても面白く描かれている。そのキーとなるホルモンが、産後の子宮の収縮に必要な「オキシトシン」、水分調節に欠かせない「ヴァソプレッシン」とそれぞれの受容体だと書いている。

(5 現在、学術的な研究では「本能」という言葉はほとんど使われない。「本能」は「理性」と対立し、理性で本能を押さえているという一般的な図式の理解はほとんど否定されている。
哲学や心理学では、本能の代わりに、人間がごく自然に感じる感情を「情動」という述語を用いて説明しようとしている研究者が多数を占めている。
例えば、フランス・ドゥ・ヴァールは、道徳を「ボトムアップ的」に獲得した人間の一つの機能と言っており、本来理性と言われている領域を人間の「情動」からきていると論じた。(参考、フランス・ドゥ・ヴァール著『道徳性の起源』)

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