人はどうして失言をしてしまうのか。

失言をしてしまう人々

人は失言をしてしまうと、その人は「過去に失言をした人」というイメージを持たれてしまう。
インターネットが普及して情報拡散力が高まった今、ちょっとした失言が命取りになる。

例えば、2017年4月に今村元復興大臣は東日本大震災の被害に関して「まだ東北で、あっちの方だからよかった」と言って辞任する事態に陥ってしまった。
6月には、稲田元防衛大臣が、自衛隊に対して選挙呼びかけが禁止されている中、「防衛大臣、自衛隊としてお願いしたい」と発言してしまい、数々の非難を浴びた。
ニュースやTwitterを見れば、いつも誰かの失言で溢れている。

しかし、彼らは決してバカではない(と思う)
日頃から公務をこなし、日々勉強している(はず)の人たちであれば、どういうことを言えば非難されてしまうのかは少し考えればわかったはずだ。
なのに彼らは、常識を疑うような発言をしてしまう。ここまで不可思議なことがあれば「なぜ人は失言をしてしまうのだろうか?」と問い直す意義も出てくるだろう。

Twitterを見れば、「老害」だからだの「バカ」だからだのという、一見差別にも見えるような(というかこれこそ「失言」ではないのか?)言説が蔓延している。
しかし、彼ら一般人に目を向けても、「失言」をしている人は多いように思われる。Twitterなどのオープンなメディアが普通になってきた今では、特段考えたりしなくても公開できる機会が増えた。
それに伴って、本来公開されないような微妙な心情まで暴露してしまう危険性も増えたのである。

そもそも「失言」は仕方がないのか?

先ほどの政治家の例では、「国民のためにも失言をしてはいけないと比較的にみなされている立場」においての失言だったので、なんとも公平な見方ではないように思われる。なので、今回は僕の過去の失言を公開したい。
Twitterには過去ログを検索できる機能が備わっているようだ。過去の発言をさかのぼれば、もちろん失言の一つや二つ、発見できるだろう。

これは、2015年6月29日の発言だから、2年前くらいのツイートになる。
お分かりだろうか。ステレオタイプ丸出しのツイートである。
「可愛い女の子」がどうして「家でゲームばかりしている」ことを隠さなければならないと決まっているのだろうか。もう少し、差別的な見方を隠した方がいい。そもそも「可愛い」とは何か。

「失言」をする人はしたくてしているのだろうか?

この問いは少々違和感がある。「したくないのにしてしまう」から「失言」といえるというのが世の中の認識だろう。
しかし、世の中の活動家にはあえて「失言」めいたことを言って注意を引き、実は失言ではなく反論してきた人を滅多打ちにして好感度を上げようとするといった方法がある。

例えば、「朝日新聞、死ね」とTwitterに投稿した日本維新の会の足立康史衆議院議員の話題は記憶に新しい。詳細は朝日新聞の「維新・足立衆院議員が「朝日新聞、死ね」とツイート」と言う記事を見てほしい。
しかし、この一見「失言」のように見えるツイートも、「それがどうして失言になり得るのか」を見定めたうえで反論しなければ、手酷いカウンターを食らうだろう。
なぜなら、これは2016年に流行語大賞に選ばれた「日本死ね」をもじったものであり、明らかに意図的なものだからである。「死ね」という言葉遣いを責めても空振りに終わってしまうだろう。

この記事では、その発言が適切だったかどうかには踏み込まない(興味はあるけれど)。いわゆる「釣り」や「ネタ」と呼ばれる煽り方が存在するのだ
「失言」は明らかに悪い言説のように聞こえる。そこに飛び込んできたものを「夏の虫」と嘲笑いながら燃やし尽くす。「揚げ足を取ろうとするもの」の揚げ足を取るのだ。
そして、こういったことを可能にするのは、「失言はしたくてしているのではない」という共通認識があるからだと考えられる。失言は恥なのだ。

「したくてしているのではない」なら本性ではない?

「失言」がもし「したくてしているのではない」ものなら、世間のいう「理性(1」から外れる部分であって、その人の性格を表していないのだから、別に問題がないのではないかということもできる。
例えば、先ほど僕のツイートを晒したが、僕はそれを探し出すまでそのツイートに関して「全く記憶になかった」のだ。

また、自分自身で「批判できる」ことからも、今と昔では考え方が変わっているということもあり得る。
例えばもはや、僕はあのようなツイートを繰り返すことはほとんどないだろう。
だから、もし僕がとある平等主義者にあのツイートを探し出され、「過去にお前はこんなツイートをしていたぞ」と批判されても、正直な話「確かに、僕もこのツイートに書いてあることには反対です」としか言いようがない。

ところで、僕は今は「差別」そのものには反対しているし、できれば「男女が平等に機会を与えられる社会」を望んでいる。
僕はTwitterでも性別を気にすることなく接しているつもりだし、「男(女)だから…」という考え方を極力なくそうと努力している。そしてそれは昔も変わらずそうだったようである。次のツイートを引用したい。

これは先ほどと同じ時期である2015年6月のツイートだ。まさしく、平等主義者が良く使うようなレトリックだ
僕はこのツイートには極力賛成したい。男女平等は、立場が均衡になって初めて成立するのだと思う。だから、「男が化粧をすること」を妨げる道理は、平等主義者から言ってみれば一切ないのである。

しかし、このツイートはやはり先に挙げたことと矛盾している。言ってしまえば「ダブルスタンダード」だ。なぜこのようなことが起きてしまうのだろうか。

この問題は僕や政治家だけのものではない。皆も機会があればツイートを見返してみてほしい。或いは、親に「僕は昔、どんなことを言っていたんだろうか」と聞いてみてもいい。昔書いた日記帳を見返してみてもいい。
僕らは、自分の発言をいろんな場所に置いてきている。そのどれもが矛盾なく存在するのであれば、それはその人が「成長できていない」証拠とすら言っても良いだろう。

みんなもっている「本音」と「建て前」

僕らが「ダブルスタンダード」な意見を言うとき、人はどんな心理を持っているのだろうか。「こういうときは、こういう意見」、「ああいうときは、ああいう意見」などと場当たり的な直感が起こるゆえなのだろうか。全く場当たりではない意見とは一体何なのだろうか。
「いつなんどきも変わらない意見」というものは本当に持てるのだろうか。

そうではなくても、人は通例「本音」と「建て前」を持っているという認識は常識としてある。「本当はこう思っているのだけれど、ここでこれを言えば怒られそうだから違う意見を言っておこう」と言った具合だ。
そして、ほとんどの人間が「建て前」をコントロールできると思っている。そして、完璧にコントロールをこなすことで、「完璧な人間関係」を構築できるとすら思っている。

いつなんどきも変わらない意見は存在するのかどうか」や、「完璧な人間関係は成立しうるのだろうか」と言った問題はまた別の機会に取り上げるとして、このような問いが全くもって「綺麗ごと」に過ぎないということは感覚として持っている人は多いと思う。
そもそも、こういった「理想」が容易に成り立つのであれば、人は一切悩み事を抱えることはないだろう。そこで、「悩み事はどうして発生するのか」という問いが新たに生まれる。

自覚できない「潜在態度」とは一体何か?

ここで、心理学領域の話題に移る。実は、人は今まで話題にしていたような「表面的な態度」の他に、「潜在態度(2」というものがある。
ここでの潜在態度とは、「無意識な部分で、その人が自然と取ってしまう態度」と簡単に考えればよい。
例えば、「僕は何も差別しない」と自分自身思っていても、心の奥底で無意識に「花は良いもので、虫は悪いもの」という固定観念を持っているといった具合である。

実は、この潜在態度を、みんながどれほど持っているのかを測ることができる。Inplicit Association Test(潜在連合テスト: IAT」というサイトに行って、説明書きをよく読んで受ければ、一項目につき10分ほどで受けられる。ただし、日本版はどうやらPCでしか対応していないようなので、是非お持ちのパソコンで受けてみてほしい。
日本版では国家(日本vsアメリカ)、年齢(若いvs年寄り)、人種(黒人vs白人)などの項目が受けられるようである(3

多くの人は落胆する結果を出すだろう。開発者の一人、アントニー・グリーンワルドがアメリカでインターネット上で行った人種間IATでは、およそ75%の人間が「白人に選好を示した」そうだ(4
しかも、その後の調査によると、この結果が出た参加者の一部は「自分は平等主義者だと信じて疑わない」人たちだったそうだ。中には、このテスト結果に不服なものも多く、受け直してみた者もいたがしかし結果の多くは変わらなかったらしい。

しかし、「潜在態度」をそのように持っていたとして、いったい何が問題になるのだろうか。
潜在態度は、IATのような特殊なテストでもってしか測ることができないのだから、普通に生活をしていれば何の問題もなく、むしろ潜在態度と逆のことを発信していけば豊かな生活になるだろう。

残念ながら、そう楽観的になってばかりはいられないらしい。『心の中のブラインド・スポット』(北大路書房、詳しくは下の註で)では次のエピソードが紹介されている。
ディアロはギニア出身の黒人で、大学入学の夢をかなえるために日々努力していた23歳の男だ。

1999年2月の早朝、4人の白人の私服警官を乗せた車がブロンクスのディアロの住むアパートに近づいたとき、警官のブラインド・スポットに生じる一連の誤り(今回は過度なステレオタイプの結びつけのことを言う)一連の誤りが悲劇の条件を作りだした。

ディアロは自分のさいふに手を伸ばし、おそらく警官に何らかの身分証明書を見せようとしたのだろうが、警官のシアン・キャロルはこれを攻撃だと誤って見なして、他の同僚に注意を呼びかけるべく、「銃だ」と叫んだ。
そして、一人が転んだので、それが撃たれたのだとの誤解を他の者たちに生じさせてしまった。パニックに襲われて、警官たちは続く数秒のうちに41発を発射し、ディアロの体にその半数ほどが浴びせられた。

人はいつも判断をする際に、しっかり熟慮する時間が与えられているわけではないのである。
そういったときに、この「普段持っているステレオタイプ」が顔を出す瞬間がある。社会の場では、こうした判断を迫られることが良くあり、結果として「誤った行動」を導いてしまうことが多く認められる。
しかし、このエピソードは確かに結果で見たら「悲劇」だが、単純にこの警官たちを責められるだろうか?

しっかり考えて発言することの「限界」

社会に責任がある人ほど、発言にとっさの判断を迫られるケースは多くなる。しかも、SNSが登場して、よく考えずに発言してしまう機会が多くなった。
僕たちは、一度熱くなってしまうと、後先を考えずに発言する。それが結果として、普段の自分とは違った態度として出てきてしまう。

かといって、「失言」を気にしてばかりいる人を、僕たちは良いと考えない傾向もある。人々は一旦保守的になれば、「なんだかこの人つまらないな~」って気分になりやすい。
それは例えば、アメリカで「ヒラリー・クリントン」ではなく、「ドナルド・トランプ」が選ばれたことでも示されている。要は、「よく考えて、並みの発言をたくさんする人」よりも、「バンバン発言して、その何回かが当たる人」の方が、見ていて面白いのだ。

どちらがいいのだろう、と考えたとき、これは次章で取り上げたい。とりあえず、僕たちはどうやら「失言」を完璧に回避するのは無理そうだということが理解していただければと思う。

僕たちが考えないければならないのは、「どうしたら失言をせずに済むか」以上に、「失言をしたときにどのように受け止めるべきか」ということだろう。
「失言」を聞くのはやはり心象が悪い。「東北でよかった」と発言した今村元大臣を僕は許すわけにはいかないと考えている。
しかし、例えば「哲学カフェ」のような場所でも見られる通り、「間違ってもいいから発言をしよう。その代わり、ほかの人の意見はしっかりと聞こう」といった風土も大切だ。これを「どう実践していくか」が重要になってくる。

ということで、今回もいくつか疑問点を挙げて終わりにしたい。

・「潜在態度」これ、全然わかんなかった!いや、本当説明が足りなかったと思っているので、新たにまた記事にしたい。

・なんで「失言」をするのかいまいち明瞭じゃないよね!というか、そもそも「間違う」という機能はなぜ存在するのか?を本当は突っ込みたかった。これも次回。

・普段人々が共有している「道徳規範」の存在について。「間違った発言をする」ことができるのは、そういった存在があるはずだという仮説が導ける。「死ね」がよくないことは、まぁ誰にとっても同じだろう。

・「人の話を聞く」って具体的にどうするの?聞いてばっかでも駄目だよね?会話のメカニズム的には「聞いてばっか」にはなりえないのでは?


(1 ここでの「理性」とは、一般的に用いられように、「本能」に対比される言葉として使っている。因みに僕は、このような対比は存在していないと考えている。「理性は情動の奴隷である」というヒュームの言葉があるように、理性と本能は別個に存在しているという仮説が支持できないとする意見が多数報告されている。

(2 「潜在態度」という言葉は様々な学問領域で、それぞれ盛んな議論が展開されている。社会心理学では、そもそも「態度」という概念に関してあまり精緻な議論が行われなかった。それは、「態度はどのように形成されているか」ではなく、「その特定の態度がいかなる変化をもたらすのか」に焦点が置かれていたことによる。いずれにしても、「潜在とはどのような状態か」や、「態度はどういった概念なのか」の議論がそこまでされていない中で「潜在態度」は何を表しているのかは今後も議論が必要だろう。

(3 因みに僕は2年前くらいに「ジェンダー(ジェンダーvs科学)」の項目を受けてみたことがあるが、結果は散々なものだった。僕は常日頃から「男女平等主義」を謳っていると自分でも思っていたのだが、結果は「男性と科学の連合に強い結びつきがある」というものだった。そりゃあ、ああいうツイートもするわけですよね。はぁ(笑)

(4 詳しいことに関しては、『心の中のブラインド・スポット 善良な人々に潜む非意識バイアス』(マーザリン・バナージ、アントニー・グリーンワルド著、北村英哉、小林知博訳、北大路書房、2015年)か、『新社会心理学 心と社会をつなぐ知の統合』(唐沢かおり編著、2014年、北大路書房)を参照してほしい。

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