哲学は本当に自然科学のおまけなのか?

哲学は本当に自然科学のおまけなのか?

ということを言ったら各方面から怒られるだろう。
自然科学はもともと哲学から生まれたのだ」という反論は哲学科の人間なら一度は考えたと思う。かくいう僕もその一人で、「哲学って何が面白いの?」と聞かれたときには必ず「アリストテレス」の話をする。

アリストテレスの時代は、プラトンの「イデア」による世界観が人々を支配していた。
イデアとは、端的に言えば「不完全な現実の世界に対して、完全で真実の世界(1」のようなものだ。現実には永遠に存在する物はないが、「美」や「善」などの概念は人々をいつも照らしている。
そういった「観念」を通して、人は「美」や「善」を考えることができるというわけだ

プラトンのそうした思想は、説得が何よりも大事だとされ、「客観的真理の問題や倫理的価値の規準などという問題が捨象される傾向にあるソフィストたちの時代(2」には、喜んで受け入れられ、真実の追求を目指すきっかけになった。
しかし、そうした「イデア論」にメスを入れたのはアリストテレスである。

アリストテレスは、イデアを考えるよりもむしろ「観察」によって世界を把握していくことを考えた
彼の観察は仔細に渡り、「四原因説」や「アルケー」などの重要な理論や概念を生み出した。ここでの彼の観察は、僕たちが本当に義務教育時代の時に行っていたような、植物や動物を解剖したり、星を眺めたり、論理的思考を働かせたり…のようなものだった。
なるほど、ここに「自然科学」の学問の萌芽が見られるわけだ。

ん?なんだよ、やっぱり哲学は自然科学によって乗り越えられちゃうってことなんじゃないの?そういう印象があるならば、プラトンのような「わけのわからないものを想像する」が「哲学」で、「そんなことのよりもまずはあるものを観察する」が「科学」という二項対立に凝り固まっている可能性がある。
実は、プラトンに見られるような「観念論」と、アリストテレスの「経験論」の対立さえも「哲学」の伝統的な議論なのだ!

なるほど、「哲学」vs「科学」ではないというわけだ。どちらかと言えば(これも議論が絶えないが)、「科学は哲学の中にある」といった方が理に適っている。

そもそも「哲学」ってなんなの?

この話題は頑張って避けてきたんだ…。本当にこの問題は難しい。
しかし、哲学を学ぶにあたっては避けられない話題である。哲学者を名乗る多くの研究者の問いはこの「哲学とは何か」という問題から発せられている。

アリストテレスは、先に述べたような「観察する」ような態度を、普段の「活動(プラクシス)」と対比させて、「観照(テオリア)」と呼び、重視するように言っている。
テオリアは現在の「映画館(シアター)」や「理論(セオリー)」の語源になっているそうだ3。「観照的態度」の射程は、世界大百科事典に次のように書かれている。

…永遠の真実在(真理)としてのイデアや神をロゴス(理性)によって認識するテオリアが価値的に優先され,実践は仮象的で可変的な感覚世界に属する人間が真実在を認識するための手段と考えられた。…

なるほど、なんだか哲学っぽい。「観察すること」によって、「美」や「善」などのイデアや、神までも認識できると言っている。
そして「自足的な観照的生活」こそが「最高の幸福(エウダイモニア)」に他ならないとまで言っている(4

神については少し掘り下げたい。
アリストテレスは『形而上学』で、「四原因説」を唱えたが、簡単に言えばこうである。「物の運動は、それ以外のものがぶつかること(原因になること)で新たな運動を生むという連鎖の中で決まっている。
それを究極までに遡ると、「不動の動者」がいることになるという。その「第一原因」こそ神に他ならない」という内容だ。

神?なんだ、アリストテレスもあんまり科学的じゃないな。そんなことはない。現代の科学も大体似たようなものである。
宇宙が生まれる前は「量子」に満たされた真空状態があり、それがゆらぐことによって質量が生みだされ、それから「ビックバン」が起こったとなっている。僕たちはこういった説明が「分かっている」という言い方をする。
しかし、「信じている」だけじゃないのか?「信じる」という言葉は、どうも科学と相容れないような気がするが、大多数の科学は単に「信じられている」に過ぎないと、言えちゃう。

なんかふわっと理解できてきた「哲学とは何か」

人々は何かを「信じる」生き物だ。現在の心理学では、人は「見たいものを見るし、信じたいものを信じる」だけに過ぎないというのが主流の考え方だ。人間は簡単に世界を捻じ曲げて理解してしまう。それは「自足的な観照的生活」を目指したアリストテレスも同じだった。

彼の理論のほとんどはある一定の「バイアス(偏見)」にかかっている。例えば彼は地上の物質は「火」「土」「水」「空気」から出来ているとし、デモクリトスの「原子説」を否定したが、後世の研究から原子説の方が正しいことは中学生でも知っている。
なるほど、アリストテレスは自身の説を補強しようと「確証バイアス」にかかっていた。だから、それに即した実験を行わなかったのだ!(と言えるかもしれない)

ここで、哲学について非常にわかりやすく解説してくれている、戸田山和久さんの『哲学入門』(ちくま新書)の一節を引用したい。

日常をのほほんと生きているときには気が付かないが、(「ありそうでなさそうなもの」が露わになった過程に対して)こんな風に「当たり前」の根底には、一皮めくってみるととんでもない不思議が潜んでいる。
哲学には、その不思議をあらわにする問いを問う力がある。

彼によれば、それはアリストテレスも論理哲学者でヴィトゲンシュタインの師匠であるバートラント・ラッセルも言っていたようだ。
なるほど、「日常にある信念」を新たな視点から見つめ直す、或いは疑う…そういった態度を哲学者は持ち合わせているらしい。

そんなの、どの学問でも行われているじゃないか!と思うかもしれない。確かに、論文と言うのはそうやって作られている。
例えば、日常において不思議に思ったことを調べる、実験しておかしなことが起こったから追試の実験をして明らかにしていく、先行研究を乗り越えるべき理論を考える…など。そう、それはあらゆる学問が哲学から生まれたからだ。

哲学がなかった時代…それは「タレス」以前の世界を指しているが、どうなっていたのだろうか。
彼のいない時代は「神話の時代」とされる。「神話」とは何か。それはその世界観を説明する、世界を作った神々のエピソードだ。神たちのエピソードをそもそも人間が「疑う」なんてことはできないし、恐らく思いつかなかったであろう。
神話が信じられ、それがその共同体の行動規範になっていた時代は「疑うという態度」すらなかったのだ。(ほとんどなかった、と言いたい。ダーウィンの進化論があるから…笑)

じゃあ、哲学=疑うことでいいのか?

だめです。やめてください。
例えば、教義を信じて、様々な理論を模索していくという態度も僕は哲学の学問には必要不可欠だと思っている。とりあえず、まずはその人を「信じなければ」、「疑う」ということが十分にできなくなる。
そもそも、プラトンに対するアリストテレスもそうだったし、ブレンターノにはフッサール、フッサールにはハイデガーといったように、その人の理論に心酔しなければならない。そして、しっかり理解して初めて、自身の考えとの齟齬を発見し「疑う」。「哲学=○○」などと一言に決定し安堵してはならない。そもそもそれ自体「哲学」ではない。

哲学の射程はあまりに広い。そういう話はまた長くなるので、新たにページを作りたい。とりあえず、疑問点をいくつか挙げて、今回は終わりたいと思う。

・実際、疑ってばかりじゃ、いつまでたっても「真理」に辿り着かない。やっぱり哲学って意味がないんじゃないの?…しかしそれはあらゆる学問もブーメランだ。

・哲学から生み出された学問は自然科学以外にも数多く存在する。「心理学」もその一つだ。

・いわゆる「文系」のイメージはこの哲学の広すぎる射程の雰囲気の中にあるんじゃないだろうか。文系は何をやっているのかいまいち明瞭ではない、といった意見をよく聞く。哲学にしかできないことがあるはずだ。それは「主観」を分析することである。因みに、文系理系の話については「文系と理系は分けた方が本当にいいのか?」で書きました。是非お読みください。

・もっと「哲学とは何か」という疑問に対して掘り下げよう!!!!!!(概略については、「哲学とは何か」という固定ページに載っています)

これで、いいかな???笑


(1 「世界史の窓」を参考にしました。

(2 ブリタニカ国際大百科事典 ソフィストの項目より引用

(3 世界大百科事典 第二版 テオリアの項目より引用

(4 アリストテレス『ニコマコス倫理学』岩波文庫 高田三郎訳 上下巻

 
 
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