科学でできないことはあるのか?哲学の意義を考える。

科学で出来ないことはあるのか?

科学の起源は定かではない。アリストテレスの時代にまで遡るのか、或いは近代の時代に絞って考えなければならないのか。
そもそも「科学とは何か」を考えたときに、それは「哲学とは何か」と同じくらい難しいことに気がつく。それは、科学が哲学の潮流から生まれたということが大きいだろう。
大きな概念はそれだけ定義を決めるのが難しい。

科学は、アリストテレスに端を発すると見るなら「自然に対しての経験的探求を体系化した学問である」と定義してもいいだろうと思う。
哲学は本当に自然哲学のおまけなのか?」の項で触れたように、最初の自然科学の試みは、観念論的な真理の探求ではなく、「観察」によって探求をした「経験論」の立場によって生まれた(1

しかし、それではすぐに限界が生まれることになる。
観察」はその人の見方に影響を受けてしまう。アリストテレスは様々な運動に対する究極の原因を「不動の動者」に求めた。
不動の動者とは何だ?恐らく人間には認識することはできないだろう(アリストテレスは、できるだろうと言っていた)。それを作るには新たな「理論」が必要になる。

経験論から離れた科学の「理論」とは?

「科学」にとっての理論は、永遠性を持ち、かつ文化や歴史に左右されないものでなければならない。逆に言えば、普遍性があってずっと使えるような「理論」こそが科学に要求されるべきなわけだ。
その時々で理論がコロコロ変わるんじゃあ、科学もただの「感想文」に他ならなくなる。そんな危なっかしい理論なんか使えるものか。

しかし、近代の科学の現状は、悲惨なものだった。例えば「錬金術」は「自然の力を借りて、種種の自然物の変性を行おう」とする欲求によって隆盛を極めた。
例えば、「非金属を貴金属に変えよう」とすることは、錬金術師にとって非常に興味深かった試みであり、その興奮が高じて(宗教的、歴史的背景ももちろん影響しているが)「ホムンクルス製造」の欲求につながるのである。
「ホムンクルス」が本当に作られていたらどうなっていただろうか。少なくとも現代の価値観でいえば、当時の近世の世界はさらに混迷を極めただろうことを想像できる。

なぜそんな事が起きたのか。それは「科学とは何か」という問いの考察が不十分だったからと言えるだろう。
「科学」がどうあるべきか分からなければ、後さき考えずに暴走してしまう未来は容易に想像できる。そこで、役に立つのが「哲学」というわけだ。

近代の有名な哲学者に「ルネ・デカルト」がいる。デカルトは高校の世界史にも出るくらい有名な哲学者だ。その業績はあまりに大きく、現代の研究者であってもデカルトに影響されている人は少なくない。
折角高校の教科書の話が出たので、彼の有名な「演繹法」の話をしたい。

科学の姿勢を正したデカルトの「演繹法」

演繹法とは簡単に言えば、いくつかの前提条件から一つの「結論」を導く論法である。アリストテレス哲学では、「あれは馬」「これは犬」のように、経験を通して「結論づける」のに対して、演繹法は「論理的推論」をする。
例えば「全ての人間は二本足である」「アメリカ人は人間である」という前提から、「全てのアメリカ人は二本足である」という結論を導くわけだ。「アメリカ人が二本足である」ことを経験したわけではないのである(2

デカルトはどんな「演繹法」を編み出したのか。それはもう一つ有名な「我思う、故に我あり」である。デカルトは、自分の認識が間違っているんじゃないかと、ふと思った。だから、あらゆる経験を疑って、疑い得るものを全て消していった。これがいわゆる「方法的懐疑」と呼ばれるやつである。
例えば「感覚は疑わしい、なぜなら感覚は自分を惑わす時があるからだ。だから、感覚は存在しない」という感じだ。「感覚」が消えれば、割と結構なものが消えそうだよね(3

そう、そうして全てを疑っていって残ったのが「疑っている私」だった。
疑っている私を疑うことはできない。なぜなら、それを疑っている時点で、疑っている私は存在することになるからだ」というわけだ。確かに、そりゃそうだな…。
彼は、これを「思惟する主体(コギト)」と名付け、あらゆる思考の原点をこのコギトから始めることで、揺るぎない「理論」を作り上げていくことになる。これがデカルトの「演繹法」だ。

ご存知の通り、デカルトの「コギト」は現代ではあまり評判が良くない。デカルトの「神の存在証明」や「心身二元論」はあらゆるところで批判を受けている。
しかし、僕はデカルトの功績はとても大きいように思う。なぜならデカルトは、徹底的な「方法的懐疑」を行うことによって、哲学的態度を極限までに研ぎ澄まし、「科学のあり方」をしっかりと示したからだ。

「科学」は、まず自然に対して隅々まで観察し、「理論」を築き上げる。
しかし、それをすぐに「実践」に移さず、それがいかなる場所でも成り立つか、客観性をちゃんと持っているかを追試を何回も繰り返して「妥当性」を持っているか調べなければならない。そういった慎重で謙虚な態度を持って初めて「科学」は「実践」に移す事ができるのだ。
哲学者のデイヴィット・ヒュームは「『である(事実)』を『べきである(価値観)』に移行するには、それなりの根拠を提示するべき」と前置きし、科学に対してこう述べている(4

その移行を巡って厖大(ぼうだい)な量の議論が学究の世界で戦わされることになるとは、夢にも知らないでそれを成し遂げたのだ。

暴走しやすい学問に対して、「疑うことが一つの信条である哲学」は、ブレーキ役を演じていたように思われる。
科学に対して「メタ科学」を構想する役目は、哲学が担うのがいいように思われる(5。うん、なんかいい感じ。

「本当の科学」は存在するのだろうか?

科学は「客観性」を重視するべきだということを言った。それに加えて科学理論は「文化や政治、その人の個別性」に左右されるべきではないとも言った。
果たしてそんなことが可能なのか?」という疑問が湧き出てくる。例えば「1+1=2」を違うと言ったら恐らく小学生にも笑われそうだろう。なるほど、それを積み重ねていけば、科学は客観性を持っていると言っても良さそうな気がする。

科学によって自然の解明を全て行うことができ、それが文化や政治の影響を受けず、個人の恣意的な思惑によって改変されない理論が必ず存在するだろう」という信念がある人を「『本当の科学』信者」と名付けたい(6
例えば、神経科学が発展し、脳画像法によってニューロンが可視化されたとき、数多くの科学者が「脳の構造の解明によって、人の主観を含むあらゆる現象全てが説明できる時代が来る」と期待した。なるほど、それはやばいわ。

確かに、「人の意識」に関しては、かなり進んだところまで分かっているそうだ。ニューロン間で交わされる電気信号を調べれば、意識はある程度可視化されるらしい。
また、脳の神経細胞の構造の仮定を「ニューラルネットワークシステム」というが、それを模したコンピュータがある程度意識の再現に成功しているそうだ(7。凄い。意識の正体がわかれば、例えば植物人間は完全に直せるんじゃないか。「脳死」の概念すら変わって来るだろう。

こういった科学の進歩は、哲学でも伝統的な議論の一つである「決定論」にぶち当たる。「本当の科学」の世界は、人の主観を含むあらゆる自然現象が理論化されているため、ぶっちゃけ言えば「未来予測が完全に可能」なわけだ。
全ての因果律は、恣意的に操作され得ない変数で存在しているため、理論を当てはめることによって未来を予測できる。つまり、「完全に決定された世界」になるわけだ。例えば、その世界では「自由意志」は否定される。

今はこの議論に深くは立ち入らないが、そもそも「本当の科学」は本当に成り立つのだろうか?先に例を出した「脳画像法」の発展は、その問題に一番近い理論だと思われるが、「仮にそうなるかもしれなくても、実はずっと先の方」であるそうだ。
例えば、「脳画像法」は、その方法論的問題から、リアルタイムな反応は出ない。また、活性化する神経細胞が完全に分かるわけではなく、その「領域」が色付くのが分かるだけだ。そして、その色を読むのは研究者の「主観」である(8

いくら「客観性」を担保しようとしても隙間に入り込む「主観性」

仮にニューロンの機能がわかったとしても、その神経細胞の数は600億に登るらしい。600億の神経細胞が分かるなんてあり得るのか?そもそも、「神経細胞が分かる」とはどういうことだろうか?神経細胞に特定の機能の説明を加えていくのはやはり研究者の「主観」である。

人間には必ず「身体性」がある。身体は「文化や歴史、或いは個別性」に左右されてしまう。「本当の科学」が存在する世界は、「文化」が全くない世界だろう。そして、時間は止まる。しかも、その世界に「自由意志」はない。
科学が世界をそこまでしてしまうことは可能か?僕は、科学にそんな力があるようには到底思えない。

長くなってしまったので、ここら辺で今回はやめたい。今回は、「科学」の欠点と、限界の存在を少しだけ示唆した。また、新たな疑問点を提示してこの記事を終わらせたい。

「自由意志」と「決定論」の議論がとうとう出てきた。これを明らかにせずして、科学は語れない!

・自由意志がなくなると人はどうなってしまうのだろうか?実は社会心理学の研究には「自由意志信念」という研究領域が存在する。自由意志信念とは、人が「自由に行動しているという思い込み」である。実は、実験哲学は、通常90%以上の人が自由意志信念をある程度持っていることを明らかにした。

科学の限界をもっと掘り下げよう!この記事じゃ正直よくわかんなかったよね!笑 物理学でも、割と限界点は見えてきているらしいということをTEDで見たわ。紹介したい。

・そろそろ、「観念論」と「唯物論」の議論も気になって来るよね…。難しそうだよなぁ笑

・「心身二元論」はどうして評判が悪いのか!心身問題の議論も今とてもホットな話題だ!

そろそろ、もう少し基本的な哲学の話をしてほしい。確かに。込み入ってくると、もう僕の能力を大幅に超えちゃっている気がするんだよね。おこがましい。笑

ここもっとわかりやすく書いて欲しいとかあったら、コメントお願いします!


(1 サンドラ・ハーディング『科学と社会的不平等』森永康子訳、北大路書房。科学の定義に関して序章を参考にした。

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