哲学とは何か?

哲学とは何かという問いに答えを出すのは難しい。
だけれど、少しでも雰囲気を味わえるように少し書いてみるとする。

哲学とは何か?

なぜ答えが出せないのか

実は別に、答えが簡単に出せないことってそんなに変なことじゃない。
世間には良くわからないことがたくさんある。例えば、「人はなぜ生きているのか」とか。そんなこと考えないって?じゃあもう少しありふれた例でもいい。例えば、「チョコはどうして甘いのか」とか。

そんなこと簡単じゃないかって? そりゃ、「砂糖を使っているから」だよって。
だけれど、砂糖を使わなくたって「甘い」ものはたくさんある。例えば、「リンゴ」とか「みかん」とか。もしも、チョコにリンゴが使われていたら、「砂糖を使わなくても甘くなる」かもしれない。

じゃあもっと大きくして、「糖質」が含まれているから、チョコを甘く感じることができるといったら?
しかし、これもちょっと考えてみるとそういうわけでもないことが分かる。

例えば砂糖やでんぷんなどのあらゆる「糖質」を構成する「グルコース(一般的にはブドウ糖と呼ばれている)」自体は、実はそんなに甘くない。
なぜなら、グルコースは分子が比較的小さくて、甘さを感じる前に吸収されてしまうからだ。科学的な話はよくわからないって? 僕もよくわからない。とりあえず、「糖質が含まれているからって、甘いとは限らない」とだけわかればいいね。

では糖質に条件を付けてみて、「『甘いと感じられる糖質』が含まれているから、チョコは甘い」と考えてみよう。これならグルコースみたいな甘くない糖質は除かれる。でも、ちょっと待とう。
つまりこれは、「甘いものが入っているから甘い」と言っていることになる。「甘いから甘い」って言い換えているだけでなにも「説明」になっていないんだよね。これを「トートロジーを犯す」っていうんだ。

AだからAだ」っていうのは、「なぜそれがAなのか」という問題について何も答えられていないよね。

「客観的」に考えることの限界とは

もうそんな問題に答えるのは無理だ、「チョコがなんで甘いのか」なんて考えるだけ無駄じゃないかって思うかもしれない。確かにそれは一理ある。「チョコがなんで甘いのか」を考えるよりも、もっと効率よく「チョコの甘さ」を調べる方法はある。

「科学的手法」によって答えは出せない

例えば、「甘いと思うもの」と「甘くないと思うもの」をたくさん集めてきて、「甘いと思うもの」だけに入っている成分を調べればいい。そうしたら、「スクロース」や「マルトース」なんて成分が見つかるはずだ。
もっとたくさんの数を集めたら、更にもっと詳細なことが分かるかもしれない。例えば、みんなが甘く感じるときにこの分子構造があるとか

そう、これは一般的に良く知られている「科学的手法」だ。たくさんのサンプルを調べて、「甘いという現象の原因となる成分」を導きだす。そうすれば、より多くの人が納得できる「記述」ができるんだね。

科学は理由より「記述」を求める

でも、待ってほしい。もう一回念を押すとこれはあくまで「記述」であって、「説明」ではないんだ。だから、科学的手法は「チョコが甘いという現象」は記述できても、「なんでチョコが甘いのか」という問題の「答え」にはならないんだ。

別にそれでいいじゃないかと思うかもしれない。実際そうやって出された答えには、一種の「正しさ」がある。

例えば料理を作るときに、「砂糖を入れれば甘くなる」という「記述」さえ知っていれば美味しいものは作れる。
スクロースのほかに、フルクトースやラクトースなんて糖質を知っていれば更に料理の幅は広がる。そうして作られた料理は当然甘くなるだろう。

一体何が問題なのか? こういう研究がさらに進めば、更に美味しいものが作れるじゃないか!

みんなが納得できる「記述」は難しい

しかし、ちょっと立ち止まって考えてほしい

例えば科学の目的の一つに、「客観性を持たせる」ということがある。これは言い換えれば、「たくさんのサンプルを観察して、みんなが納得できる記述を探す」ことに他ならない。

だけれど「みんなが納得できる」なんてことはあるのだろうか?
例えば、
「甘さ」が感じられない味覚障害の人にとっての砂糖は、きっと塩とそんなに変わらないかもしれない。じゃあ、科学的手法を用いて、味覚障害の人でも感じられる「甘い」を見つければいいじゃないってことになる。

そこでその後の研究で、「その人にとっての甘さ」は胡椒の成分だったとしよう。そうしたら「甘さが感じられない味覚障害の人は、胡椒が甘い」という記述が増える。そうすれば、次から味覚障害の人の料理に胡椒を入れればいい。

だけれど今度は、胡椒の味が分からない味覚障害の人が現れるってこともあり得る。「胡椒の味も分からず、甘さも感じられない味覚障害の人は、味噌が甘い」という記述を増やせばいいのだろうか?それはナンセンスだ。

問題は「客観性」以外にもある

客観を捨てれば倫理的問題が発生する

じゃあ、もう客観性を捨てて、その人に合う成分をその都度考えていけばいいじゃんってことになると思う。

しかしこれは荒唐無稽だってことはすぐにわかる。例えば、日本には1億人を超える国民がいる。一人ひとりに「その人にとっての甘さを検証」するなんて到底できない。

それに、仮にできたとしても、その日に生まれる人もいれば死ぬ人もいる。1日に何千人の人数分の「甘さ」を用意するのはほとんど意味がないといってもいい。
え? 例外は放置すればいいって? もし君が例外となって放置されたらどんな気分だい!?

科学は曖昧な表現を許せない

それに、「甘さって表現」も問題になる。
例えば、「君のことだったらどんなことでも許しちゃう♡」とか言っている彼氏に「彼女に甘いね」ということがあると思う。

しかし、彼氏は別に彼女に砂糖を食べさせているわけではない。どうして、「彼氏は彼女に甘い」といえるのか?
なんでそんなこと問題にするのだろうと思うかもしれない。しかし思い出してほしい。「
チョコは砂糖が入っているから甘い」と記述するときに、「砂糖が入っていなくてもリンゴは甘い」という例外があるだけで、「本当に砂糖がチョコを甘くしているのかという信念」は揺らぐ。

そもそも「甘い」とは何だろうか?それを考えずに研究をしていては、目的もなくただ作業していることになる。それを本当に「研究」と呼べるだろうか?

僕たちはチョコについて何も知らない

さて、科学的手法に頼ってばかりいるといくつかの問題点が出てくることが分かったところで、もう一回「チョコはなんで甘いのか」という問題に戻ろう。
ここまで読んで色んなことを考えた人なら、この問いがまた違ったものとして理解できると思う。

例えば、「そもそもチョコってなんだろう」とか、「甘くないチョコだってあるじゃないか」とか、もしかしたら「チョコの起源はなんだろう」とかいって歴史を振り返る人もいるかもしれない。
とりあえず、何が言いたいかって、僕たちは「チョコ」についてあまりにも何も知らないのだ。普段、「チョコって何?」って聞いたときに多くの人が「知らないの?バッカじゃん!」って言うにもかかわらずだ!

当たり前に思っていることを再度見つめ直す

僕たちがいつも当たり前に食べているチョコについてですらこんな有様だ。周りを見渡してみれば、僕たちは多くのことが「わからない」ことに気が付くだろう。

選挙でどこの党に入れればいいのか? 経済は今どうなっているのか? 脳死は死に含まれるのか? 今している仕事は本当に自分のためになっているのか?どこに住めばいいのか?などなど、疑問は絶えない。

SNSなどで、自分にとって嫌なことを書いている人を見かけたとしよう。君は怒るか泣くか無視するかもしれない。しかし一瞬でも「どうしてこの人はこんなことを書くのか」と考えるだろう。
そして、「どうして嫌だと思ったのだろうか」と考えもするかもしれない。君は「嫌なものは嫌だ!」で事を済ませるだろうか? 普段はそうすればいいと思う。
しかし、君の愛する人が嫌なことを書いていた場合はどうだろうか?

哲学の思想へようこそ!

哲学とは何かこの問いに答えるのがいかに難しいかわかっていただけたと思う。

哲学者たちはあの手この手を使ってこの問いに答えようとしてきた。ある人は過去の文献を緻密に分析して、ある人は概念を深く突き詰めて、ある人はいろんな場所へ行って体験して。そうやって「答え」に辿り着こうとした哲学者の奮闘が彼らの思想に詰まっている。

哲学を習う」とは、哲学者が血眼になって辿った道を読み解くことかもしれない。哲学者の思想は、思いもよらない仕方で僕たちの常識を裏切る。
「チョコがなんで甘いのか」という問いに対して、思わぬ見方を与えてくれる。そうして哲学者は思想を通じて僕たちにまた違った世界を提供してくれる

一緒に哲学しよう!

哲学者の思想に触れるのにてっとり早い方法は「彼らの著作を読む」ことだ。しかし、それは文章がしばしば難しく書かれていて、場合によっては読む気になれないということもあるだろう。

だからこのブログでは、そうした思想に触れるのに少しでも抵抗がなくなるように書けたらと思っている
だが、哲学はやはり、「
原著に自分で触れる」ことが一番役立つように思うので、その思想の要約というよりは、案内書として読んでいただければと思う。

一緒に思想の迷宮へ出かけよう

ようこそ哲学の世界へ!どうぞよろしくお願いします。

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