どうして本の読み方は多様なのか考えてみよう!

「本を読むこと」について論じることは可能か

そもそも「本を読むこと」について何かを言うことはできるのだろうか。前記事(本当に読書っていいものなの?)でとりあげた通り、僕たちは「読書」について分からないことが多すぎる。人によって「読書」のイメージは様々だ。

もし仮に「本を読む」ことについて論じることができても、それが極めて抽象的な(より曖昧でなんにでも言えそうな)議論になってはあまり意味がない。
そこで少しでも「分かること」を増やすために、「本そのもの」についてまずは少し書きたいと思う。

そもそも「本」って何?

そもそも、一言で「本」と言ったってさまざまな種類が挙げられる。小説から自己啓発本、専門書に実用書など多岐にわたる。図書館に行けば、様々なジャンルの本が置かれている。
ドイツの学術出版社「Walter de Gruyter」によれば2012年時点で蔵書数が世界一の国立図書館を「アメリカ議会図書館」とし、その蔵書数は3100万点に上るそうだ(絵画資料や地図など非図書資料を含めると1億5000万点を超えるらしい(1
しかもそれは一つの図書館の蔵書であって、今まで出版された書籍を含めればこれよりもずっと多いに違いない。1億5000万って…日本の人口よりも多いじゃん…(2016年時点で1.27億人)。

であるから、書籍の分類表は、いや、もう、凄いことになっている(詳しくは日本十進分類法を参照)。

本の定義も正直なところよく分からない。ユネスコ総会で勧告されたものには「本とは、その国で発行され、公共で利用可能な、少なくとも表紙をのぞく49ページ以上の印刷された非定期刊行物のこと」と定義されている(2
結構アバウトな定義でびっくりするが、要は「ある程度内容が豊富でいて、尚且つみんなが読める状態にあるもの」を本と呼んでいるわけだ。これではあまり判然としない。

例えば僕はある子供の母親がこんなことを口にしているのを聞いたことがある。「高校生になってまで「ライトノベル」だなんて、ちょっと幼稚すぎるよね。もっと「本っぽい」ものを読んでもらいたい…」と。

僕は、漫画も雑誌もライトノベルの本であり、読書の内にいれてもいいと個人的には思っている
例えば「知識を得ることは本を読む目的の一つである」と堂々と口にするならば、それらの本を除外する理由はない。「論理力が育たない」ということを方々で聞くが、僕はその意見に論理性が全く見えない。

しかし一方で、漫画やライトノベルは古くから「正統な本」から外されてしまう傾向にはあった。大学受験の準備の際に、僕は勉強のために漫画を読むことを自分で禁じたことがある。僕は、漫画を「論理力が育たない」ものと見なし、「正統な本」から外したのである
ライトノベルを高校生の子供に読んで欲しくない母親の気持ちは分かる。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』を読んでいるのを見たら、誰だって「何を遊んでいるんだ」と言いたくなるに違いない。

しかし、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』で大学に受かる人だっているとも言えなくもないのである。僕は残念ながらアニメしか見ていないのだが、ライトノベルながらこのシリーズは、人物描写の機微を正確に捉えている

また、このシリーズの登場人物はやたらと「ホンモノ」という言葉を多用するのだが、「ホンモノ」を巡る高校生たちの議論はきわめて抽象的で、それを読むには高度な論理力を必要とする。どこが「ライト」なのか…筆者にはよく分からない(3
登場人物は主に「進学校に通う高校二年生」で、卒業後の進路に関わる人物の葛藤も描かれているため、大学受験のモチベーションをあげるのにはとてもいい作品であるように思われる。

つまり、一見「正統な本」とは呼べない作品でも、読み方によっては「正統」になり得るのである読書は、その人の「パーソナリティ」にも左右されるのではないだろうか。

本の読み方は、人それぞれなのか?

読書はその人のパーソナリティにも左右されるとは一体どういうことか。ちょっとわき道にそれて、社会心理学の「パーソナリティ」について書こうと思う。

心理学におけるパーソナリティの定義は、パーソナリティ研究や流言、偏見研究の権威としても知られるゴードン・オルポートが有名である。彼は『パーソナリティーその心理学的解釈』で「パーソナリティは、個人の内部で、環境のその人特有な適応を決定するような、精神物理学的体系の力動的機構である」と書いている(4
この定義だけを見ても何のことだかわからないが、性格を心理学的手法、言い換えれば「科学的手法(5」によって量的研究ができる可能性を模索したオルポート特有の定義だと読めばなんとなく理解できる。

彼は、たくさんのサンプルを比較検討することによって「個人が環境に適応することにおける、ユニークな行動の決定」を予測できるだろうと言っているのである(6。パーソナリティにおいて強調されているのは「個人のユニークさ」と、「それを決定する環境や文脈(context)」の存在である。

文脈という言葉を敢えて使ってみたが、パーソナリティと読書はかなり近い関係にありそうな気がする
ここでこれからは一つの本、『読んでいない本について堂々と語る方法』(ピエール・バイヤール著、大浦康介訳、筑摩書房)(以下『読んでいない本』と表記する)に依拠しながら論を進めたい(7ピエール・バイヤールさんはフランスの精神分析家で、大学で文学を教えている立場にあり、本に関する膨大な知見を持っている人物である。

読書が環境や文脈、あるいはそれに伴うパーソナリティに影響していると思われるエピソードに、彼は「人類学者ので『ハムレット』に精通しているローラ・ボナハンとティブ族の会話の一場面」を挙げている。

ローラ・ボナハンはイギリス人の同僚が「アメリカ人にはシェイクスピアなど理解できないのではないか」といったことに対して「シェイクスピア劇は万人に理解可能だ」という仮説を立て、読み聞かせようとする。
しかし、言語や知識の面での違い(例えば、科学的に発展していない民族にはエアコンという言葉は通じないだろう)を除いても、決定的な困難が彼女に直面するのである。その端的な一場面を引用する。死後の世界を信じていないティブ族は「亡霊が歩いている」という説明に納得できず、ローラ・ボナハンが必死に説明しているシーンである。

「死人が歩けるわけがなかろう」と聴衆は口をそろえて異論を唱えた。私は少しは妥協してもよいと思った。「「亡霊」というのは死人の影なんです」
しかしこれにも彼らは反論した。「死人に影などない」
「でも私の国ではあるんです」と私はぴしゃりと言った。
すぐに不信の声がそこここに上ったが、長老はこれを鎮め、迷信にとらわれた無知な若者の愚論を前にしたときのように、そらぞらしくかつ慇懃なそぶりで私の意見に同調した。

「恐らくあんたの国では死人はゾンビでなくても歩くことができたんだろう」そして長老は、袋の奥から干したコラノキの実をひとつ取り出し、毒入りでないことを示すために一口かじったあと、残りを講和のしるしとして私に差し出した。

どうしてティブ族には亡霊と言う概念が理解できなかったのだろうか。僕たちは例えば「文化相対主義(8」に立つと、「たとえ僕たちが信じていなくても、相手が信じているならそういう理解がある前提で読めばいい」という態度で、例えばその文化に伝わる文化を理解していく。
 しかし、ティブ族の人々はそういう態度がとれなかったのだろうか。そう、できるわけがない。ティブ族の人々にはそういった「文化相対主義的な見方」ができるようなパーソナリティを持っていなかったのである

余談だが、個人的には「文化相対主義」には内部矛盾があるように思われる。文化相対主義は、「相手の視点に立つこと」によってその文化の相対的価値を理解していく試みである。
そうすることによって、例えば「嬰児殺し(子を殺す)」などこちらにとっては倫理上「悪の慣習」文化の目的も理解できるとされる。

しかし、その射程は理論上「理解ができない文化」にも当然及ぶことになる。「理解できない文化」を理解するとはどういうことだろうか。ローラ・ボナハンが『ハムレット』をティム族に納得させることができなかった原因がここにあると思われる。
『ハムレット』を如何に解体し、その集団に合わせた説明を試みても、シェイクスピアは理解されなかったのである

そもそも本は読めるのだろうか?

しかし、ピエールさんは、決して「ティブ族は『ハムレット』について語ることはできなかった」と説明するようなことは一切しない。ティブ族は、ローラ・ボナハンの語る『ハムレット』について、ある種の(「あんたの国では死人はゾンビでなくても歩くことができたんだろう」というような)批評をも加えていたのであると言うことができる。

ティブ族は『ハムレット』を読んではいなかったが、確かに『ハムレット』について語っていたのだ。ここで、ピエールさんの言葉を引用したい。

ティブ族の人々が自分たちの読んでいない本についてどうみても偏った意見を述べるからと言って、彼らの読み方が戯画的であるとか、見るべき点がないなどと考えてはならない。
それどころか、彼らはシェイクスピアの戯曲にたいして二重の意味で外側にいるー読んでいないだけでなく文化を異にしているーおかげで、それについてコメントする格好の立場にあるのである。

つまり、ティブ族は、彼らのユニークな価値観によって『ハムレット』について語っていただけに過ぎないのである。すなわち、読書はその人の環境や文化、パーソナリティに大きく影響されるのである
一方の文化で『ハムレット』が良いものと言われていても、もう一方では子供の落書きと同じようにみなされるかもしれない。試しにハムレットを僕の飼っている犬にあげたら喜んでかじってしまうかもしれない。
世界には多種多様な人間が存在するのと同じ仕方で、「本の読み方」も多種多様に存在してしまっているのだ。

こうなると、ますます「本を読む」が遠いところへ行ってしまったように感じる。因みに上記の引用にある「読んでいない本」とは単なる事実の記述である(つまり、これはあくまでローラ・ボナハンが「語った」のであって、ティブ族の人々は直接本を読んでいないという事実をそのまま「読んでいない」と記述したに過ぎない)。

ここで言いたいのは、ピエールさんは「完璧な読書などできない」という自説を念頭に置きながらこの本を書いているということである。本が読めるという先入観は、「読書を神聖化して」しまいかねない。ピエールさんはティブ族のエピソードの章の末尾でこう書いている。

われわれがすでに読んだ本と考えているものは、たとえそれが物質的には我々が手に取った本と同じであるとしても、われわれの想像界によって改変された、他人の本とは関係のない、雑多なテクスト断片の集合に過ぎない。

つまり、「読んだと思っても、それはお前の思い込みだ!」ということである。壮絶な「相対化」である。ここまでの長い討論で、「読書」の「分からない一面」を暴いてきたが、その究極形態がこれだと言ってもよい。

そもそも、本を読むのは紛れもない「自分」だ。「自分」は文化や環境、文脈などと言ったあらゆる要因に影響される。そんな不安定な状況で、「完璧な読書」は単なる「理念」に過ぎない。「理念」は創造的産物でしかなく現実的ではないため、「本を読む体験」を考えることにおいては、考えなくてもよさそうだ。

とにかく、「本は読めなさそう」である。…え?本当にそうか?(笑)

「本を読むこと」について考えること

本を読んだと思っても、それはお前の思い込みだ!」という、とんでもない結論が生まれてしまった。本当に「本は読めない」のだろうか?今後の展望としては、「本を読むこと」を考えるにあたって湧き出てきた疑問をちょぼちょぼと論じていきたい。

「自分」とは何か?という問題が出てきた。「自己と他者の問題」は古典的な哲学の議論の一つである。「自己」が分からなければ、どうやら「本を読むこと」について語れそうにない。なぜなら、「読書とは、きわめて個人的な経験である」からである

ピエールさんの本の紹介が中途半端に終わっていることである。こんな月並みな結論で終わるのなら、僕はこの本を紹介しない。ピエールさんの凄いところは、「本はそもそも読めない」という立場から独特な術語を使って(その多くはフロイトに依拠している)読書論を展開しているのである。彼の読書論は「本を読むこと」について、幅広い可能性をもたらしている

・そもそもまだこのサイトは哲学的知見が乏しい。多くの概念を自由に使えるように、コンテンツをどんどん増やしていきたいところである。こういった少し抽象的な議論には、先達の大哲学者たちの知見を借りなければ論じることはできない。

よければ、今度こそ三日坊主にならずに更新していきたいので、どうぞお付き合いいただけると幸いです。これからもよろしくお願いします。

てか、長すぎたわ…時間があるときにこの記事二つに分けるわ…


(1 「世界ランキング統計局」の記事「世界の国立図書館 蔵書数ランキング TOP100(2012年)」より引用。

(2 ユネスコの公式ホームページの「Revised Recommendation concerning the International Standardization of Statistics on the Production and Distribution of Books, Newspapers and Periodicals」より引用。原文は「A book is a non-periodic publication of at least 49 pages exclusive of the cover pages, published in the country and made available to the public. 」(英訳に自信がない)

(3 恥ずかしながら僕は「ライトノベル」を読んだことがない。理由は簡単で、「時間がなくて」そこまで手が回らないからである。ライトノベルに明るい方はぜひ教えていただきたい…。

(4 『社会心理学 キーワード』(山岸俊男編、2001年、有斐閣)P90を参考。

(5 「科学的手法」に関しては、このブログの哲学とは何か?、参照してほしい。

(6 しかし、現実にはそうはなっていない。社会心理学ではしばしば「人間ー状況論争(person-situation debate)」と呼ばれる一連の論議が存在する。しかし、パーソナリティ研究においては一貫して「相互行為」の考慮の重要性が説かれているように思われる。これについては別記事で。あるいは『新社会心理学 心と社会をつなぐ知の統合』(唐沢かおり編著、2014年、北大路書房)

(7 やっとこの本を出せた…。この記事を書くきっかけとなったのはこの本なのだ。この本は具体例を交えながら、読んでいない本について語る方法を臆面もなく書いてある問題作であり、名作です。モンテスキューやオスカー・ワイルドまで多岐にわたる作家の「読書」のエピソードが紹介されている。

(8 「文化相対主義」とは、「人間の諸文化をそれぞれ独自の価値体系をもつ対等な存在としてとらえる態度,研究方法のこと」(コトバンクより引用)。それぞれの文化には、それぞれの理解があるくらいの意味合いで今回は使っている。

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コメント

  1. ネオサ より:

    二宮金次郎も薪をしょって本を読んでいますね。
    「読書は良いこと」みたいな固定観念はずううーっと昔から熟成されてきたものなのかもしれません。

    • 白洲 哲 より:

      ネオサさんコメントありがとうございます!
      なるほど、確かに本は「勤勉」の象徴であったように思います。
      歴史的な影響が大きそうな気がします。
      そういえば、昔は勉強するにあたっての情報源は本しかなさそうな感じがします。