本嫌いの僕が本を読むようになった理由

どうして「本が嫌い」なのか

僕は昔から本を読むのが好きではなかった。僕は比較的、あまり教育は熱心ではない家庭で生まれたので、無理やり本を読まされるということにはならなかったし、家ではあまり問題にならなかったのだが、学校では殊更「本を読め!」と言われることが多々あった。

しかし、「どうして本を読まなければならないのか」といった問いに対して明確に答えられる人間はほとんどいない。
僕は、本みたいな漠然としたものよりも算数や理科にのめり込んだ。「答えが一つに決まって」いて、それを「成し遂げる」という、「成功体験(1」が本に勝っていた。

「国語」という教科も嫌いだった。今振り返ってみれば恐らく国語だって設問なのだから「答えは一つに決まっている」のだろう。
しかし、小学生はたびたび「読書感想文」を書かされたり、随所で「読書は自由にしなさい」ということを言われる。「自由な読書」が許されるのなら「読まない自由も行使されるべきだ」と小学生ながら(もっと単純だったが)思っていた。

本と漫画が良く対比されて、漫画よりも本を読みなさいという人が割といる。だが、僕は漫画もあまり読まなかった。
そもそも、「ストーリー」を楽しむというのがよく分からなかった。漫画も読書も「独自の解釈」を求められる割には、「それは間違っているよ!」と否定されることがある。
漫画は絵がある分、「正解の読み」がしやすかったのだろうが、僕にはあまりピンとこなかった。

そんなこんなで、本に対する苦手意識は膨れ上がるばかりである。因みに、小学校時代は流行りの「J-pop」すら聞かなかった。よくスマップを知らないとカミングアウトして知人を驚かせたことがあった。
小学校の内にはまだ、「ドッジボール」でお互いにボールをぶつけあうだけで楽しかったので、作品に対するそういった「閉鎖的」な思考があまり問題にならなかったのである。

 知識が「モテる」要素の一つになった

しかし、本が嫌いな僕も、実は繰り返し星新一のショートショートシリーズ(『未来いそっぷ』など)だけは少し読んでいた時期がある(2。この本は単純明快で問題点が分かりやすい。この本だけは、なんとなくほかのどの本よりも面白かったのだろう。

中学受験を果たし、周りの子の学力レベルが上がった頃、話の中心はコロコロコミックから週刊少年ジャンプへと変貌した。
当時の僕はジャンプの楽しさが一切分からず(実は今も分かっていない)、ジャンプよりも面白い話題を探していた。SFチックで皮肉が満載だった星新一は、まさにそれだと思ったのである。

SF的な発想は当時のジャンプにはなく、僕は星新一に込められた喜劇的なバッドエンドをクラスのみんなに話すと、「発想が面白い!」などと褒めてくれた。
なるほど、本当は「星新一」から丸パクリしただけなのだが、ここまで反響があるのか。僕は次第に、本を読んでは「まるで自分が考えたかのように」話すようになった。

よく驚かれるのだが、内気で神経の細い気質は今でもある。初対面の人と話すときは本当に緊張するし、友達と二人で遊ぶ時も「話題が続かなかったらどうしよう」と考えてしまうときがある。
もしかしたら大学に入学してから、その傾向もだいぶ緩和されたのかもしれない。だが、小学校時代は特にひどかったのである。「君はどう思う?」と話しかけられるだけで、硬直するような子だった。

しかし、「星新一シリーズ丸パクリ」を始めてから思ったのは「単に話す内容がなかっただけ」だったんじゃないかって思うようになってきた。
次第に、僕は自然と本に手を伸ばすようになってきた。そうして仕入れてきたネタをみんなに話すことによって、なんとなくみんなの前で話すのが楽しくなってきたのである。

そのとき、授業で一人の子が、「なんでこんなつまんないものを教科書に載せるのか」と言った。そして教室の中の雰囲気はその意見に同意したようだった。先生も特に何も反論せず、「仕方ないよねー」なんて言いながら授業を進めていった。
何が仕方がないのか。教科書に載っているのにつまらないことなんてあるのか。僕は、「それが本当につまらないものなのか」に興味がわいてきたのである。

思えば『城の崎にて』が初めて触れた古典的名著だったように思う。僕はそれを読み込んだ。
志賀直哉の「死生観」というものがなんとなく理解できるようになった。「世界はつまらないもの」と決めつけていた僕だったが、本当にそうだろうか。
志賀直哉は「死にそうになった体験」を見て初めて、虫の死を身近に感じ、それを面白くみていた。僕にも同じような体験が起こるんじゃないだろうかと、読みながら思った。

僕にはまだ「正解の読み」というものが分からない。もしかしたらそれを「つまらないもの」と読むのも正解なのかもしれない。
しかし、僕はみんなのこの意見が気に入らなかった。僕の本の読みを、またみんなに聞かせたいと思い始めた。そうして、僕は国語の先生(僕の担任でもあった)に、『城の崎にて』の自説を披露するに至ったのである。

遠藤周作って誰だ。しかし、これがきっかけで、僕は遠藤周作にハマり、また、倫理学科に進んでいくことになるのである。人間何が起こるかわからない(6

人はなぜ「本を語る」ことができるのか。
これについてはまた別記事で取り上げたいが、簡単に言えばそれは「誰も本を完璧に読めない」からである。本を読めないからこそ、人は本を語り合う余地が生まれる。
だからこそ、その読解には必ずパーソナリティが混ざる。自然とパーソナリティに触れることで、本を媒介にして繋がることができる

そうして、親密な関係が生まれるというわけだ。本を語り合うのは楽しい(ときがある)。

(6 この件についてはまた触れたいところである。遠藤周作は本当に僕のパーソナリティに深く食い込んでいる。クリスチャンにならなかったのが不思議なくらいだ。因みに、僕はキリスト教は苦手である。それなのにどうして遠藤周作の著作が好きなのかはわからず仕舞いだ。

スポンサーリンク