読書が神聖化されている
誰もが、こんなことを言われたことがあるんじゃないだろうか。「本を読みなさい。本を読まなきゃバカになるよ」と。
一般的に読書は良いことだと思われている。例えば大学でのゼミや会社の初対面の挨拶、もしかすると合コンでも、「趣味は読書です」と言う人がいる。
読書が趣味だと、なんとなく頭が良く見える。シェイクスピア、夏目漱石を読んでいるといえば、「すごーい!」などと皆みなから言われるかもしれない。僕たちは、「読書」を「良いこと」だと常識では考えている。
そんなに読書っていいものなのか?因みに僕の立場を表明すると、僕は心理学や哲学系の本を月平均10冊くらい読んでいて、一般的には読書量は多い方だと思われる(1。
しかし、実感としては、そこまで言われるほど読書がいいものだとは思えない。本を読んでも別にモテるわけじゃない!
どうして、読書はいいと思われているのだろう?本記事は、正統派の哲学における試みから遠くかけ離れているが、「常識を疑うこと」はやはり哲学の態度として大切だと筆者は考えているため、お付き合い願いたい。
ネットにはびこる読書の神話
「読書 メリット」とGoogleで検索してみれば、あらゆるページでいわれているのは「読書量と年収の相関関係(2」である。
具体的な数値は、そのデータの出所が少々怪しいので控えておくが(是非調べてみてほしい)、どうやら「読書に使うお金が多いほど、年収が高い傾向にある」そうだ。
確かに、読書をすれば単純に言って知識量が増える。知識量が増えればもしかしたら仕事で成功する確率も高くなるのではなかろうか。だが、読者も気が付いているかもしれないが、この説明はめちゃくちゃである。
そもそも、「この相関関係を説明する仕方は、別にこれじゃなくてもいいはず」だ。どうとでも言える。例えば、年収が高ければ金銭的な面で余裕があるはずで、そのお金で本を購入していると考えてもよいのである。
まぁ、ただ本を読むだけで仕事ができるようになるなんて本当は誰も考えないはずだ(笑)。
例えば、『ワンピース』を読むのと、デカルトの『方法序説』を読むのとでは読書体験の質が大きく異なる(決してどちらがいいとかそういった議論は期待していない)。また、同じ『方法序説』でもさらっと読むのと、じっくり読み込むのとでも、それによって得られる知識の質が変わってくる。
つまり、「どの本を読むか」或いは「どうやって読むか」によって読書そのものの形態は大きく変容するように考えられる。
そういった「読書法」に関しては、三谷宏治さんの『戦略読書 みんなと同じ本を読んではいけない』に詳細に書かれている。試しに、その「序章」の一部を引用してみる。
(読む本が凡庸になり、自分が凡庸な人間になってしまったと感じて)それからすぐに、楽しむだけの読書、ビジネスのためだけの読書から、自分の独自性を作り上げるための読書にちょっとシフトさせました。
楽しむことをやめたわけではありません。ビジネス知識の吸収をやめたわけでもありません。でも、自分を自分であり続けさせるために、単なる折衷でも平均でもない、独自のバランスや読み方が必要でした。
つまり、自らの読書体験の質を上げるために、「戦略読書」を考え出す必要があったということである。三谷さんは幼少期に「自分の好きな本」、大学在学中に「(必要に迫られて)ビジネス指南書」を読んでみて、それでは理想の人間像に全くなれていないことを悟った。
だから、自分に合った戦略を考える必要があったわけである。そして、三谷さんはそうした戦略で本を読み、その読書体験を通じて、ビジネスに活かし、成功にいたったようである。なるほど、確かに読書はすごい。やらなきゃ損だ。
しかし、ここまで力説されても疑問は残る。意地悪な見方をすれば、それはたまたま成功した要因の一つが読書なだけであって、別に本を読まなくたって成功している人はいる可能性だってある。
経験談をまとめた自己啓発本にありがちなことは、その「特異性」である。すなわち、それは三谷さん自身の成功例であって、それを僕たちが真似をしたってその通りにならないという問題が常に付きまとう。
「試しにやってみてもいいじゃないか」という発想は危険である。
そもそも、読書は時間がかかる。時間は有限ではない。読書をしてみたら失敗した…じゃ取り返しが付かない。その責任はいったい誰がとるんだ?自己啓発本には、そのような責任は生じないはずだ。責任を追及してもこれは「個人的な感想」だと言われて跳ね返される。
一方で、読書による効果を統計的に割り出すには、方法論的に困難がある。まず、「何を読書とするかが分からない」からだ。これに関しては別の記事で詳述するつもりである。
そもそも読書がなんだか分からない以上、その効果を調べる実験を計画しても、相関関係を示すのは不可能だ。
それに仮に分かったとしても、第二の困難が待ち受ける。基本的に本を一冊読み終わるのには最低でも1時間はかかるだろう。1時間も実験につき合わせるのは、被験者に対する負担が大きい。
しかし一方で実験室を離れて読ませるのでは余計な状況要因が入り込む余地を与える。つまり純粋に「本を読むことが何らかの影響を与える」という仮定を実証することはできないのである。
読書をすると頭が良くなるは嘘?
結論から言うと、嘘とは言い切れないが、本当とも言い難い。つまり、読書をしたらもしかしたら頭が良くなるかもしれないし、そうではないかもしれないということである。
何が言いたいかと言えば、「読書をすれば頭が良くなる、だからもっと読まなきゃ!」という意見をそう簡単に受け入れられないということだ。
それでも、そういうことを無批判に信じる人には、「え?そもそも頭のいい人だからこそ、たくさん読書ができるんじゃないの?」とお灸を据えたい(3。
文化庁の「国語に関する調査」(4では、「読書量は以前に比べて減っているか、増えているか」という質問に対して、回答者の65.1%が「読書量が減っている」と答えた。
そう答えた人に理由を尋ねたところ、「仕事や勉強が忙しくて読むひまがない」が51%、「視力などの健康上の理由」が34%、「情報機器で時間がとられる」が26%、その他多数(選択肢の中から二つまで選択可)だったそうだ。
このうち、「情報機器で時間がとられる」は最近の傾向であることが窺えるが、基本的には「時間がないこと」と「読書量」との間に何かしらの関係があるように考えてよさそうだ。
読書には本当に時間がかかる。僕も読書はとても遅い方で、難しい本になると一週間とかかけてしまうことも少なくない。確かに、「本を読まない理由」が「時間がない」というのはもっともな理由だと思う。
これは実感としても正しい。例えば、「僕は本をこれだけ読んでいるよ!」と友達に言うと、「よくそんな時間があるね!」と言われる。「本=時間がかかるもの」と言っても過言ではなさそうだ。
しかし実のところ、仕事の合間を縫って本を読んでいる人には、そういう意識がほとんどない。
例えば2016年に『蜜蜂と遠雷(5』で直木賞をとった恩田陸さんは、年間300冊以上(!)を読んでいらっしゃるそうだが、あれだけ短いスパンで小説を書かれている方が時間的に余裕があるはずはない。
ある友達は、「ビジネス本であれば1時間から2時間、小説は一日に3冊は読める」と言っていた。読書スピードは人によって本当に違う。だから、尚更「元々読書スピードが速い人が、本をよく読む」と言った方が妥当なんじゃないか。
じゃあ、「本を読む」ってなんなの?
結局こうなるんだよなぁ…。日常で本を当たり前の様にして読むのに、全くと言っていいほどわかっていない。巷には、たくさんの読書術がある。例えば「速読」や「パラグラグリーディング」、「三度読み」など。
しかし、本を速読することと精読することではやはり読書体験の質が違うだろう。文字を追うだけの読書体験と、しっかり感情移入しながら読むのとでは、その本に対する思い入れが変わってくるに違いない。
一方で「本を一冊」といっても、専門書と小説では脳の負担が全くと言っていいほど違う。例えば難読書で有名なヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(6は文庫本にしても150ページしかない。しかし、「へぇ、150ページ少々読んだんだ!僕はその間に小説を三冊読んだよ!」と言えば、間違いなくフルボッコだろう。
読書に関する統計はめちゃくちゃだ。読書アンケートの多くは自己申告である。しかし、誰に「読書って何?」と聞いても「分からない」と答える。分からないものを聞いてまとめてそれに関して対策を立てるなんて、砂の上に楼閣を作っているも同然だ。
とりあえず、「本を読むこととは何か」をもっと深く考えるしかない。
しかし、それを考えるにあたっては「分からないことだらけ」なので、一旦保留にさせていただく。とりあえず分かったことは、「本を読むのはすごい!」という神話をひとまずひっこめられそうだ、ということだ。世の中には読書が苦手な人はたくさんいる。
僕の友人にも、「生まれてからこの方、本という本は極力避けてきた」と言っている人がいるが、特に困難もなく(悩みはあるだろうが)仕事を楽しんでいる。実は、僕も「本が嫌い」だ。できれば読まずに過ごしたいとすら考えている。
じゃあ、どうして本を読むのか?実はそれが自分でもわからない。とにかく、「分からないことだらけ」だ。
読書には「分からないことだらけ」のことがたくさんあると分かったところでこの項を終わりにしたいと思う。別の項で「本を読む」という行為自体を取り上げ、哲学的な議論を少しでも展開できたら幸いだ。
ここまで読んでくださってありがとうございます。では、また。
(1 文化庁の「国語に関する調査」より。P10。驚くことに、約半数の人が本を一冊も読まないそうです。興味深いのはその下。「本を読むべき年代はいつだと考えるか」という質問に、10代が44%、20代が10%、年齢関係なくいつでもが25%となっている。本は若いうちに読むべきという意見が圧倒的に多い。
(2 相関関係は、因果関係とは異なる。統計において、「Xならば、Yである」という因果関係を示すのは基本的には不可能である。その理由は様々だが、一つ上げれば、社会においてXに入るような状況要因を一つに特定にすることは困難だからだ(この場合だと、年収が高い要因は、学歴が高い、行動力があるなど上げればきりがない)。なので、統計によって示されるのは「Xの傾向にあるものは、Yの傾向もある」といった相関関係である。この場合「Xの要因がなければ、Yの傾向を説明するのは難しい」と考えられるときだけ、その相関関係に意味が出てくる。因みに「比例」と「相関」を混同している記述は速攻で却下だ。
(3 これがいわゆる「鶏卵論争」である。詳しくはWikipedia(鶏が先か、卵が先か)を参照して欲しい。簡単に言えば、「卵はニワトリ無しでは存在できないし、ニワトリは卵なしでは存在できない。じゃあ、一体卵とニワトリはどちらから生まれたのか?」ということである。余談だが、「ニワトリは卵なしじゃ考えられないが、卵の中身が突然変異を起こしてニワトリになるケースは考えられるため、卵が先である」という結論があるみたいだが、それは単にニワトリそのものの問題が片付いただけである。
(4 国語に関する調査P11参考
(5 あの、本当にこの『蜜蜂と遠雷』は良かったので読んでください。読み終わったすぐ後の僕の読書紹介をそのまま引用します。
小説の紹介文は書いていて難しいなぁと思いました。この本は昨年の直木賞、今年の本屋大賞を受賞したことで有名ですね。舞台はピアノの国際コンクールで、年齢も生い立ちも様々の4人が音楽に対する情熱を燃やし、競い合う青春物語…と言いたいところなのですが(似たようなことが帯に書かれています)、読んだ後で僕のこの本に対する解釈は全く別のものになってしまいました。
勿論、感想は人によって様々でいいと思います。しかも、僕は前持った情報によってバイアスがかかっても、或いは好きな(嫌いな)人が読んでいた、という先入観でもって作品を見ることも肯定します。しかしながら「この本に対して自分が何を感じたのか」或いはもっと押し広げて「自分は本当はいったい何が好きなのか」といった自己に対する分析を常に忘れてはいけないと思います。
言葉にならないようなリアルな感覚をいかに感じ取ることができるか。この本の舞台である「コンクール」を通して、自分に対して一回挑戦してみるのはいかがでしょうか。
(6 ヴィトゲンシュタインの著作はどれも難読書指定されています。『論理哲学論考』は最たるもので、思想的にはこれは「初期ヴィトゲンシュタイン」に分類されますが言葉の独特な定義と極端に抽象化された議論が本当に…(ちなみに僕は買ったまま読んでいません)。しかし、現代は本当に良い時代で、岩波文庫で『論理哲学論考』を購入すると、訳者で現代哲学思想の研究家の野矢茂樹さんの解説が付いてきます。更に野矢さんは『『論理哲学論考』を読む』という本を、非常に面白い文体で書かれています。いやはや、これが本当にわかりやすい…。