集団はどのように形成されていくのか?

「子どもの疑問」にみる、哲学的問い

先日、電車の中で誰かの怒鳴り声を聞いた子どもが「どうしてみんなで仲良くできないの?」と、親に疑問をぶつけていた。
この問いは非常に単純で尚且つ、皆さんは常日頃から考えている疑問なはずだ。考えない日すらないかもしれない。

ここでいう「みんな」とはいったい誰のことを指すのだろうか。それはきっと状況によって変化するのだろう。
例えば電車の中で怒っている人を見かけてそう言っているのであれば「日本人」或いは「人間」というカテゴリーが想定されるかもしれない。「熊」が人間を襲っているシーンでは「生物」に拡張され得る。反対に、幼稚園であれば「クラス内のメンバー」と小さいカテゴリーで考えられているかもしれない。

ここで少し疑問になるのは、「問題の対象」、つまり「仲良くできていないメンバー」の中に「自分」は入っているのだろうか?
僕は大多数の人間は「自分を含めていない」ように思える。
例えば幼稚園のクラスで一人が怒って他の子を泣かせてしまったという場面を想像したい。そういったとき、「どうしてみんなで仲良くできないの?」と聞くのは、「仲良くできるはず」という確信があるからだ。
こうした確信の根拠を、人間は「自己」に求めやすい(1つまり、「自分は仲良くできている」という前提を置いているのだ。

クラスの子全員が「どうしてみんなで仲良くできないの?」という疑問を持っている確証はない。
しかし、「仲良くしたくない子ども」はいないはずだ。人は単純な共同体において「加害的なパーソナリティを持った人間」を避ける傾向にある。当然だろう。痛いことはされたくない。
ん?ならば余計にこの疑問は困難を極める。「みんなが痛くないことを望んでいる」なら、なおさら「どうしてみんなで仲良くできないの」だろうか。

集団はどのように形成されていくのだろうか?

こういう議論になったときに、一つの有効な手段になり得るのは「思考実験」だ。思考実験とは、現実にはあり得なさそうだけれども、その問題をより浮き彫りにするために具体例を想定するような思考プロセスのことだ。
もし…なら、どうなっちゃうのだろう?」なんて普段皆さんもやっているに違いない。

さて、どうして「仲良くできないのか」を明らかにするために、まずは集団がどのように形成されていくのかといったことを考える必要がある。
集団が「お互いに仲良くできなくなる場面はどういったときが考えられるか」を明らかにする必要があるだろう。
そこで、その「思考実験」をするために、あるシチュエーションを考えていきたいと思う(2

「どんぐり拾い」の思考実験

一人の子供が、ある森の1区画に「どんぐり拾い」をしにきた。森の中にあるのに、そこは少しひらけていて、落ちているどんぐりを拾うのにとても快適な場所である。
しかもここには、ほかの人が誰も来ないから、自由にどんぐりを拾うことができる。だからその子にとっては秘密の場所だった。その子は一人でたくさんどんぐりを集めてきてはそれを眺め、持って帰った。
その子がどんなに集めても、たくさんどんぐりが落ちているため、なくなる心配はなかった。

しかし、一人ぼっちで拾うのもなんとなく飽きてきたのだろう。その子は友達を誘い、その子と一緒にどんぐりを集め始めた。
どんぐりは二人で拾っても十分なほど落ちていた。だから子どもたちは二人で仲良くどんぐり拾いを楽しんだ。

その友達は大いに満足したのか、他の友達も連れてきた。元々いた子は秘密を破られて少し嫌な顔をしたが、楽しいことは多い人と共有した方がより楽しくなるに違いないと思い直し、三人で楽しくどんぐり拾いをした。
しかし、その数も十人を超すようになったころ、新たな問題が発生することになる。

それは、「どんぐりの数が足りなくなってきてしまった」ということだ。
資源の枯渇は、多数の集団を抱える人間にとって重要な問題となる。
そこで、子どもたちはこう行動を変えるようになる。「一人で多くどんぐりを拾ってしまうとなくなっちゃうだろうから、あんまりとらないようにしよう」ということだ。
そして、その行動が「良いもの」だとおもう信念は、他人の行動を決定するようになる。「あ!そんなに多くとっちゃダメ!僕の分がなくなっちゃうじゃないか!」

「命令的規範」から「記述的規範」への移ろい

このように、集団が大きくなってくると「相互作用」が働くようになってくる。互いが互いの行動を監視することで、相互に影響を及ぼすようになる。
「一度にたくさんのどんぐりがほしい」と言った個人的な欲求は、「誰かが多くのどんぐりを取ってしまうと、私の分がなくなる」といった他者による行動の影響の想定と矛盾するようになってしまう。
少ない人数であるときは、そうした想定は表に出てくることはないが、多くなればその影響を無視することはできない。

子どもたちはできるだけ多くのどんぐりを拾いたい。しかし、誰かがたくさん拾えばどんぐりはなくなり、楽しくなくなってしまう。
そういった葛藤が次第に、子どもたちの行動を変化させ、「うーん、このくらいとっても大丈夫かな。いや、ダメかな…」と、どんぐりを取る量の基準を決めていく。
そして子どもたちは「このくらいまで大丈夫かな」を暗黙の内にみんなで共有したかのように行動を決定していく。こうやって集団のうちに「社会規範」を形成していくことになる。

社会心理学者のロバート・チャルディーニは、特にこのような「(みんなもこのくらいだし)このくらいまで大丈夫かな」という社会規範を「記述的規範」と呼ぶことにしている(3
つまり、「自分の行動を決める際に、周りの人が共有しているであろう社会規範」のことだ。
そのうち、この(みんなもこのくらいだし)という条件が消えていくと、「みんなもこのくらいにするべきだ」という「命令的規範」というものへと移行していく。子どもが他の子どもに「そんなにどんぐりを拾っちゃダメ!一人10個までだよ!」と注意することが「命令的規範」を示す行動にあたる。

命令的規範」を守る人間は、その集団全員の合意を求めようとする。なぜならみんながこれを守らなければ、その規範の価値は低くなるからだ。
「一日ひとり10個までどんぐりを拾える」という規範は「みんなが本当に一人10個までしかどんぐりを拾わない」ことで、個人の欲求と社会全体の幸福に折り合いをつけられる。
一人でも「へへ、今日は100個拾っちゃった!」と勝手なことをすれば、どんぐりはなくなる。

そしてまた「記述的規範」へ…

残念ながら実際の社会では、「命令的規範」が完全に守られることは稀有である。
この「どんぐりの森」でも、こういう子どもが現れたに違いない。「ん?これ、こっそり持って帰ってもばれないんじゃないか?そもそもばれたところで怒られるだけだし、たくさん持って帰っちゃおう!」といった感じで。

しかもこうした行動が利益になるのは「命令的規範」があってこそなのである。何故なら、みんなが自分勝手であればたちまち「どんぐりがなくなるから」だ。
つまり、この子は「みんなが『一人10個まで』という命令的規範を守って」こそ恩恵を被ることができる。見方を変えれば、この子は社会にタダで利益を得ているというわけだ。
そういうことからこの子のような人間を「フリーライダー(ただ乗り)」という言い方をする。

実は、集団が少数であれば「フリーライダー」はあまり現れることはない。その理由には様々な仮説があるが、その一つには「人は他人の評価を気にする」という欲求が存在するからだと言われている(4
例えば近所の奥様方の「井戸端会議」の内容のほとんどは「他人のうわさ(ゴシップ)」である。
また心理学にも「人の目の写真を貼ると、人はより規範的な行動を取る」という報告もなされている。フリーライダーになりたくても、他人からの評価を下げることになるのは嫌なのだ(5

しかし、それも人数が極端に多くなってくると話は別である。子どもたちが150人まで達すると、もはや全員の顔を把握するのは難しく、一人ひとりに適切な評価をくだせなくなってくる(6。「ボナヘさん?誰だそれ。ボナヘさんが何をしようと私には関係ないよ」といった感じだ。
そうなると、「誰が命令的規範を守っているのか」が曖昧になってくる。そうなれば「ボナヘさん」がもし規範を守らなくても、誰も問題にしなくなってしまう。

そして、人の評価から解放された「ボナヘさん」は勝手にどんぐりを拾い始める。「まぁ、この形のどんぐりだけを拾えば、この森全体のどんぐりに影響されることはない」などと、新しい仮説を提唱するかもしれない。
更に悪いことに、ボナヘさんのその行動を見て、ほかの人も真似をする。そうして、「この形のどんぐりは拾ってもよい」という新しい「記述的規範」が生まれることになる。

違う「記述的規範」を認める人同士の争いへ

先ほど、「命令的規範」を守る人間は、みんながそれに合意することを求めようとすると言った。
つまり、「記述的規範」が新たに生まれると、「命令的規範」の価値が減少してしまうと言えるのである(もちろん、守られないからといって「命令的規範」そのものの価値がなくなるわけではないけれど)。

新しい「記述的規範」が現れたことによって、「命令的規範」の価値を守る必要が出てきたといえる。
例えば、「この形のどんぐりをとるのならば、この森に影響はないのだから、一日10個までを守る必要はない」という規範は、「一日10個までしかとってはいけない」という規範を侵食してしまう。これを守るには、「どんぐりがなくなっちゃうから」という条件文を復活させなければならないのだ。

従って、「命令的規範」をまた新たに形成するには、その新しい「記述的規範」を排除するか、とりこんで新しい規範を考えるしかなくなる。「記述的規範」を排除するには、古くから戦争が、最近ではその信念でもって圧倒するしかないだろう。
「ボナヘさんの規範は、長い目で見れば間違っている」という証拠をいくつも積み上げれば、従来の規範に改心する子どもたちが現れるに違いない。

誰もが納得できる「命令的規範」は可能か?

漸くこの哲学的問題にまで戻ってくることができた…。ほんと、ごめん、ここまで読んでくださりありがとうございます。あの、また、今度別記事で短くしますので…。

ここまで読んでくれた方は、「いかに集団を作るときに「個人の欲求」と「社会全体の幸福」が微妙なバランスで成り立っているか」が理解できたと思う。
「個人の欲求」は必ずしも「社会全体の幸福」を叶えるものではなく、また逆においても、「社会全体の幸福」を維持するばかりでは「個人の欲求」を阻害してしまう恐れもある。

そうであったときに、「どうしてみんなで仲良くできないの?」という問題から、いつどこでも、つまり時間/空間的に普遍的な「命令的規範」を作りだすことは可能だろうか?という問いに変えることができる。
すなわち、「みんなが仲良くできるような、唯一のルールを作りだすことはできるのか」を敢えて問うというわけだ(7

例えば、パッと思いつくのはみんなが「科学的思考」或いは「論理的思考」を働かせるだけの能力を持てば、みんな等しく生活ができるんじゃないかということだ。
みんながちゃんと「1+1=2」をちゃんとやれば、例えば資源(どんぐり)を分配するときに、全員が等しく欲求をかなえられるんじゃないか。

しかし、この考えはすぐに捨てなければならないということがわかる。そもそも「1+1=2」をみんなが均等に行うという事態を想定するのは不可能だ。
そもそも「1+1=2」とは何だ?「1」とはいったい何を表しているのか。「どんぐり1個の1」には少々無理がある。何故ならどんぐりにも「10g~30g」くらいまではばらつきがある。

仮にどんぐりを等しく分配しても、それを受け取る側である「人間」にはさらに大きな個人差がある。例えば、少しもらえば満足の子と、たくさんもらわないと満足できない子がいる。その欲求をどうやって科学的に分析するのだろうか。
「その個人差も、神経科学がすべてを解明すれば問題なく等しく分配できる」と反論できるかもしれない。
しかし、それはいつだろう?「神経科学が仕事を終えるまで」僕たちはどのように生きなければいけないのか、という嘆きに同じような反論ができるだろうか。

「みんなが仲良くする世界を考えること」の大切さ。

みんなが仲良くできる世界」はきっとあるだろうという説は、哲学における一つの重要な立場となっている。一方で、「みんなそれぞれ分かり合えない世界なのだろう」という説ももちろん存在する。
そうした議論は哲学の世界において決着が着くことなく平行線をたどっている(8どちらもどちらで納得できる説明があり、お互いに矛盾する理論を唱えているのだ。

ただ、人間は「その場その場」で、「仲良くできるルール」を考えながら、それに従って行動を決定している側面を持っていると僕はいえると考えている。
人は様々な「規範」を用いながら日々を生き抜いている。「みんなが仲良くしている世界」を問うことは、別に意味のないことではない。
電車の中で「人の怒り」を目の当たりにした子どもは、そうやって葛藤し、成長していくのである。

哲学の営みで生まれたあらゆる思想は、その成長に大きなヒントを与えるかもしれない(与えないかもしれない)。とかなんとか、色々また吹き出しそうになってしまったところで今回は終わりにしたいと思う。

・もう本当、あらゆることを好き勝手書いたので、次回から「用語説明」みたいな感じで書いていきたいと思います。

・科学哲学者のサンドラ・ハーディングは「科学も一つの文化である」と述べている(これは歴史家のトーマス・クーンの考えの潮流をひいている)。「科学を哲学する」とはどういうことか、を少しまた説明したい。

・社会心理学の学説ばっかり引用しているけれど、問題があるんじゃないの?哲学じゃなくね?-あります。本当にごめんなさい。詳しくは「哲学とは何か」に書きましたが、今回の例でいえば「仲良くできないという状況はどんなときか」を「記述」できても「どうして仲良くできないのか」を「説明」することはできません。本当に、どうしたらいいんでしょうね…。もしかしたら「現象学」が一つの懸け橋になってくれるかも…?(また今度書きます)


(1 こういった人間の判断を「自己係留判断」という。この判断を行うとき、人は「自分ができるのであれば、他人も難なくできるだろう」という「偏見」を持ってしまう傾向にある。この偏見は「自己係留バイアス」とか、「係留と調整ヒューリスティックス」といった名前が付けられている。

(2 この「思考実験」は、社会心理学者である戸田正直さんの「キノコ喰いロボットのデザイン」(1961)という論文を参考にしながらアレンジしています。僕の思考実験は子供で行っていますが、本論では「ロボット」がある惑星に送り込まれたときにどの要素が必要になるかを考察するものとなっています。このように「非人格的なものの適応的進化」を考えることによって、人間の「環境への適応」の問題がより浮き彫りにしています。詳しくは「複雑さに挑む社会心理学」(亀田達也他著、有斐閣)を参照してください。

(3 実は、「記述的規範」と「命令的規範」の境界線は極めて曖昧で、このように規範を二つのカテゴリーに分類するのには少し問題があるかもしれない。今回の「規範形成」は、2017年の日本社会心理学会の発表にある、「記述的規範から命令的規範がいかにして形成されるか」という論文を参考にしている。この論文では、カントの「定言命法」を参考にして、「Xならば、Yである」という「仮言命法」を「記述的規範」に、「Yである」という「定言命法」を「命令的規範」に対応させ、その移行を「条件文(Xならばという文)の欠落」という観点から検証していた。

(4 そのほかの理由としては、「人は悪いことをすると罪悪感を感じるようになっている(共感作用)」、「そもそも人間は集団に志向性を持っている(郷党的な利他主義)」などがある。どちらにせよ、僕は個人的に「共感」や「情動」というものが鍵になっていると勝手に思っている(笑)

(5 それでもフリーライダーが現れてしまったときに、人間が行うのは「サンクションシステム(賞罰)」の導入である。「人に贈り物をお互いにどの程度するか」といった実験でフリーライダーが現れたとき、実験参加者はなぜか「コストを支払ってまで」、逸脱者に対して進んで罰を与える傾向にある。しかし、本文にあるようにサンクションシステムは万能ではない。人数が多くなると、そのシステムを維持する「二次的コスト」の負担が大きくなるため、「誰が罰を与えるのか」といった問題が出てくる。「自分はやりたくないけれど、だれかやってよ」といった需要の矛盾を「二次的ジレンマ」と呼んでいる。

(6 150人という過程は、行動生態学者のダンバーによる「社会脳仮説」に依拠する。ダンバーは、その個体の知覚や認知、思考など社会を形成するにあたって必要な能力をつかさどる「大脳新皮質」の大きさが、社会集団の大きさに相関するという仮説を唱えている。人間はそれによるとおよそ150人くらいの社会集団を作ると仮定されると言われる。

(7 そういった議論の限界を、哲学者のカントは『純粋理性批判』によって指摘している。彼はそういった「純粋理性」は神にのみ実現するとした。私たち人間は「傾向性」によって多かれ少なかれ影響されていて、傾向性から脱出できない存在だと説いた。そして、そのような「傾向性」を「純粋理性」に向けるには、先ほどの「定言命法」によってはじめて可能になると説いている。社会心理学は、その学問の性質から「命令的規範」が存在するかどうかにはほとんど関心がないため、その存在を問うのは哲学の領域になってくる。

(8 「みんなが仲良くできる世界がある」と考える立場は「絶対主義」、「みんなそれぞれ分かり合えない世界なのだろう」と考える立場は「認識論的相対主義」という用語を想定しながら用いている。詳しくは『科学と社会的不平等』(サンドラ・ハーディング著)を参考にしてほしい。

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