文系と理系は分けた方が本当にいいのか?

日本にはびこる文理選択の謎

大学受験の際に「文系」か「理系」を選択するという経験をした方はきっと多いことだろう。その際、自分は大学で「何を勉強したい」のか、或いはもっと自分の将来にビジョンのある人は「何を研究したいのか」を考えるに違いない。
数学をやりたいなら理系、歴史を学びたいなら文系を選択する。選択したら、それぞれのカリキュラムに沿いながら大学受験に向けて勉強をし始めるというわけだ。高校によっては、「文系クラス」「理系クラス」のように、クラスを分けられるかもしれない。

ある日、高校の後輩からこんな相談を受けたことがある。
心理学部って文系か理系、どっちに分類されるんですか?」と。ご存知の通り、私立大学の心理学部の多くは数学科目を必要としない。場合によっては「文学部」の中に「心理学科」が設置されている場合もある。
しかし、行動主義心理学から認知心理学、神経心理学に至るまで心理学の研究は「統計学的手法」を取ることが多い(0。統計学って…バリバリ数学じゃないか。数学を使って変数を操作するのであれば、それって「理系」なのではないか。

そこで、僕の意見を表明しておくと、日本の心理学部は「文系」に位置すると考えている。そう、心理学部は理系ではない。

文系、理系の意味とはなにか?

そもそも文系・理系はいつから区別されるようになったのだろうか。文理分別教育が初めて見られるのは、どうやら「明治初期」のことであるようだ。当時の高校教育は次のようになっているらしい。

明治初期の中学校は初等中学と高等中学にわかれており、大学入学準備教育がなされていた。
初等中学は共通履修であるが、高等中学は文科と理科を置くこ とができるとなっていた。
文科では三角法、金石、物理、化学を除き英語、法律。歴史、経済、論理、心理学などが加えられ、理科では和漢文、英語、法律 などの科目の時数を減らすと記されている。
高等中学の入学年齢は17才である ことから、文・理分別教育の最初の例をここに見ることができる。(1

つまり、今のような文理選択によるカリキュラムの分別は明治初期ですでに行われていたようである
ここから想像するに、文理選択は今と同じように「大学の学部によって、限られた高校の時間で優先する科目を便宜的に選ばせる」という意図があったように考えられる。

僕がどうして心理学部を「文系」であると断定したかと言えば、単純に「大学入試試験の科目に数学や理科などの『自然科学系』の学問が必ずしも必要でない」からである。勿論これに国立大学は当てはまらないが、国立大学であれば更に「極限の概念を必要とする数学Ⅲを必ずしも必要としない」と定義し直してもいい。
要は「文系と理系という区分は、単に大学の入試に依存したカテゴリー」と考えている。もっと言えば、「高校が入試対策をするのに便宜的に利用しているカテゴリー」である。

この考え方は、文系・理系の分別教育の歴史と照らし合わせても矛盾は生じないように思われる。限られた高校生活で、全ての学問を網羅的に勉強するのは少々無理がある。できたとしても、部活動や学校行事を多大に犠牲にしなければならないだろう。
例えば、日本文学を大学で勉強しようと思っている人が、国語や地理、日本史と同じ時間生物を勉強しなければ大学に入れないというのは酷である。

それに、多数の生徒を抱える高校で、「個人のニーズにあったカリキュラムを作成する」のには限界がある。高校としてはある程度決まった「プロトライプ」を作成し、それに従って生徒を振り分け、学習を進める方が効率がいい。
そこで各科目間でのつながりの強さによってカリキュラムを決めるならば、「文系と理系」という、自然科学(数学、理科)の有無によって定められたカテゴリーを使うのは得策であるように考えられる。

文系・理系は早く卒業した方がいい?

僕が「心理学部は文系である」と断定した理由にはもう一つある。
先ほど僕は「文系・理系は大学受験の科目に依存したカテゴリー」と言ったが、それにもう少し意味を加えて、「文系・理系は大学受験の科目に依存したカテゴリーであって、それ以上の意味はないし、付与してはならない」と言いたい。
要は、「心理学部は、大学で数学を使うし理系なのかも」と思ってはいけないのである。何故ならそれは、「学問は文系と理系に分けられる」という神話を信じかねないからである。

もう少し説明を加えたい。要は「文系理系」は、高校が受験対策のために便宜的に作ったカテゴリーなのであって、「決して学問を二分するようなカテゴライズ」を意味するわけではないということである
もっと端的に言えば、「心理学部は文系に位置するが、心理学は文系ではない」ということだ。
例えば、「数学が必須である私立の心理学部」があるとすれば、それは迷いもなく「理系」に区分してよい。

僕のこの考え方に依拠すれば、そもそも「大学は文系に進む」などという日本語は成り立たない。「文学部に行くために、高校では文系を選択した」が正しいことになる。大学に無事入学して、「僕達文系はさ~」と決めつけるのはそもそもおかしい。
例えば明治学院大学の心理学部では選択科目に「数学」が選べるが、数学を選んで入学したものは別に「高校課程では理系だった」と言っても全く構わないのである。心理学はそのまま心理学である。勿論、社会心理学は「社会科学」、神経心理学は「自然科学」のように便宜的なカテゴリーは別に存在する。
そのカテゴリーに慣れるためにも、文系・理系は早く卒業した方がいい。

文系・理系のカテゴリーが生むステレオタイプ

僕は、高校課程において文理分別教育が行われるのには賛成だ。僕の身の上を話すと、僕はある国立大学の哲学科に入学したのだが、国立大学を受けるには5教科7科目(国語・数学1A2B・英語・理科1教科・社会2教科)を勉強しなければならない。
しかし、もし高校課程において文理の区分がなく、全てを均等に3年間勉強しろと言われたら、僕は国立受験をあきらめていただろう。大学受験への高校生の負担は大きい。必要なら入学後に勉強すればいいのである。

もちろんあまりに早く、文理選択させるのは危険だと思われる。ほとんどの高校は二年の内から文理選択をさせるらしい。僕の高校は三年で文理分別を行っているが、これにはだいぶ助けられた。思春期真っ盛りの高校生の心情変化は目覚ましい。
昨日嫌いだった科目が、今日になって好きになったということもあり得る。僕は小さい頃から理科が好きだったが、高校二年生の時に参加した「読書会」で自然科学よりも物事をより深く考える哲学の思想にハマってしまった(2

一方で同時に、文理分別教育には大きな危険が潜んでいる。と言うよりもう既に牙をむいているのかもしれない。
これはWikipediaの「文系と理系」という項目で引用されているものだが余りにも酷いのでこちらでも引用させていただく。小説家で工学博士の森博嗣さんと解剖学者の養老孟司さんの対談での森さんの発言である。

(「文系の人は『人間は言葉で考えている』と思っているようだが、僕は言葉で考えていない。思考の大部分は映像で、数字を扱う場合は座標や形で考える。」などと前置きしたうえで、)
文系の人は、自分のわからないことを言葉で解決しようとします。たとえば、独楽は回っているから倒れない、自転車は走っているから倒れない、ということを「理屈」だと思い込んで納得し、それで解決済みにしてしまう。
回っている物がなぜ倒れないのか、走っているとなぜ倒れないのかは考えようとしません。(3

ここまでの偏見もすさまじいものである。森さんはどうやら「多くの社会的活動では、言葉で割り切った方が処理は速いでしょうし、相手も同じ文系なら説得しやすいのでしょう」と弁解しているようだが、これも本当に偏見である。
哲学科同士の討論を聞いたことが彼はないのだろうか。
彼らは「愛」という言葉を巡って2500年以上もすれ違ってきてしまった歴史を知らないのだろうか。「言葉で割り切る」ことを簡単であるかのように決めつけ、フレーゲやヴィトゲンシュタインの功績を闇に葬ってしまうのか。

どうしてこんなことになってしまっているのだろうか(4。偏見の研究家で有名な社会心理学者のゴードン・オルポートは『偏見の心理』(1968年、培風館)で人間の「カテゴリー化」について次のように述べている。

人間の心はカテゴリーの助けを持って考えなければならない…いったん形成されるとカテゴリーは通常先行判断の基盤となる。私たちはほとんどこのプロセスを避けることはできない。秩序だった生活はカテゴリーに依存している。

要は、「人間はあるカテゴリーに依拠しながら物事の性質を判断している」というわけである。
カテゴリーがなければ、その人個人を認識することさえかなわない。このようなオルポートの説明を受けて、IATの開発者であり、実験社会心理学者であるマーザリン・バナージとアントニー・グリーンワルドは「ホモ・カテゴリカス」という言い回しを使用している(5

逆に言えば、「人々の認知はカテゴリー化に大きく影響を受けている」ということだ。「文系は、言葉の使い方が上手い」、「理系はより論理的に頭を使うことができる」などといったステレオタイプは、カテゴリー化の影響を受けているに違いない。
そして、そういったステレオタイプは逆に、「私は理系だから、論理的思考を働かさなければだめだ」という「自己成就予言(6」を伴う。

学際的な研究を勧めることにあたって

文系・理系に分けることに賛成とは言ったものの、文理が極端なものになり相互の交流が減ってしまうという現象にはやはり危機感を持たなければならないと思う
現代社会の問題は複雑であり、専門的な学問が一つあるだけでは解決できないようなことがたくさんある。他の学問とのかかわりが極端に少ない哲学でさえ、ポストモダンと呼ばれるこの時代は生物学や神経科学、実験科学などの自然科学の学問との密接なかかわりが必須となってきている。

学問の異なる研究者とチームになって研究するときに、互いの土壌を理解する土台が一切なければ、うまく連携がとれるわけがないのである。「文系だから、数学はできない」というステレオタイプが蔓延していけば、そういった連携のつたなさは加速していくだろう。

あくまで「文理分別教育は高校が便宜的に勉強させるためのカテゴリー」である、ということをもう一度強調しておきたい。
高校課程で文系を選んだからといって、例えば心理学の領域を研究したいのであれば、基本的な数学知識は高校生の時に習得しておくべきである。「文系」は「数学をやらなくてもよい」という免罪符にはならない。あくまで「文系理系」は高校の都合であって、個人の都合ではないのだ。

長くなったので、ここでいくつかの疑問を書いて終わりにする。

・文理融合の教育に「リベラルアーツ」が挙げられるが、実際成功しているのか?

・理系コースのある高校が増えてきている(例えば神奈川県には「サイエンスフロンティア高校」という、理数科だけの高校が存在する)。理系科目を中心に学ぶ教育は実際うまくいっているのだろうか。

・哲学、文学は実際社会の役に立つの?(因みに僕は役に立つと思っている!!)

・(あれ?理数科でも、数学科は・・・?笑)

・そもそも「役に立つとは?」つーか、そもそも論好きすぎだろって思うよね。ごめん、俺も思う。


(0 心理学の統計学の手法は、僕が別のサイトで説明した「心理統計学の基礎」を参考にしてみてください。きっとわかりやすく書いてくれているはずです。

(1 「日本における文系・理系分別教育の歴史」梅木松助、1995年。日本の文理分別教育の歴史が豊富に記載されている。しかし、明確な出典が記載されていないため信憑性に欠ける。この文章を読むと、30年前の日本でもいかに文理融合型の学部を増やすのが重要か強調されているかが分かる。

(2 その時からテーマの中心であった「愛とは何か」はまた別の記事で書きたい。思えば、ここで人生につまずいていたのか…笑

(3 森博嗣による発言、『文系の壁―理系の対話で人間社会をとらえ直す』(養老孟司、PHP新書、2015)30頁

(4 「文系と理系の違いが創造的思考に与える影響 (ヒューマン情報処理)」気になる論文である。創造的思考は、文系と理系でどう影響するのだろうか…。

(5 『心の中のブラインド・スポット 善良な人々に潜む非意識バイアス』マーザリン・バナージ、アントニー・グリーンワルド著、北村英哉、小林知博訳、北大路書房、2015年。

(6「自己成就予言」とは、根拠のない嘘や思い込み、この文脈でいえば便宜上作られた「文系・理系」と言うカテゴリーであっても、そういうように振る舞うと思い込めば現実にもそうなってしまう現象のことを言う。類似の概念に、血液型の話でもよく出てくる「バーナム効果」がある。

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