本の中にある、「縦のつながり」と「横のつながり」

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本の中にある、「縦のつながり」と「横のつながり」

本を乱読すること

僕は本をよく多読する。いや、乱読と言ってもいい。とにかく、たくさんの種類の本を同時に読む。
内容は、入るものもあれば、入らないものもある。その時々だ。3回読んでやっと覚えられるものもあれば、1回で身に付くものもある。

どのくらい同時に読むかというと、大体4冊くらいのときが多い。もちろん、同時と言ってもいっぺんに本を広げるという意味ではなく、短いスパンであっちこっちに本を取り換えるということだ。
とにかく、無秩序にいろんなものを読む。教科書、専門書、小説やら自己啓発本など幅広く読む。

さすがに、この乱読のサイクルの中に、哲学書は入れられない。哲学書は、何かと並行に読むことはできない。集中して考えたり、他の本を参照したりしながら読む。
だけれど、ほとんどの割合で一回で読み切ることはできず、一回手放してから、長い時間を空けてもう一回読み直すなどしながら読むことが多い。それも一種の乱読かもしれない。

乱読をしていて、本と本が微妙につながっていることを知ることがある。そして、たくさん乱読していく中で、そのつながりが主に二パターンあることに気が付いた。
今日は、この二つのつながりについて書きたいと思う。

参考文献やお勧め図書

小説を除いた、多くの書籍は「参考文献」というものが付いている。あるいは、「お勧め図書」を載せている書籍も少なくない。このブログも例にもれず、なるべくお勧め図書を載せるようにしている。

参考文献やお勧め図書を載せる理由は、恐らく自分で書いたものをより深く理解してもらう助けにしてほしいと思っているからだ。
「自分の言いたいこと」をいうためには、必ずどこか省略をしなければならない。でなければ、文章がどんどん冗長的になっていく。
しかし、その省略がその論を致命的に分かりづらくしてしまうこともある。

そして万人に理解されるように書くことは難しい。だから、その省略したことが、他の書籍にも書かれている場合、その書籍を参考文献やお勧め図書に載せればいいというわけである。

もちろん、専門書や自己啓発本では、そういった理由だけで載せているわけではない。他人から意見を借りたときには必ず、その出自を明らかにしなければならない。
その引用の仕方は妥当か。引用元がその論のエビデンスとして耐えうるものか。
哲学の論文では、主張が説得力のあるものでも、引用元や参考文献が怪しかったりすると突っ込まれるなんてことも少なくない。

ただ、そういう理由であっても、参考文献やお勧め図書が、その文章を補強するものとして関係づけられていることは明らかである。
つまり、あらゆる書籍は、「この本があって、今こう書いている」という関係性があるということである。

僕はこの関係性を、「縦のつながり」と呼ぶことにする。縦のつながりとはすなわち、他の本がその本の「前提条件」になっているときの関係性のことである。

縦のつながり:前提条件

あらゆる書籍は、縦につながっている。

本と本は、参考文献やお勧め図書によって関係づけられている。その本に書かれている内容が、他の本を読ませることになり、またその本が別の本へと導くというわけである。

僕は良く、「何の本を読めばいいかわからない」と聞かれたとき、その人に合いそうな本をとりあえず一冊だけお勧めするようにしている。
本を一冊読みさえすれば、その本の内容が、また別の本への関心を生むことになると信じているからである(もちろん、そうならないことも多いのも事実だが)。

本というのは、たくさんの省略から成り立っている。著者は、伝えたいことを言うために、蛇足になりそうな部分を省く。時には、言いたいことさえも敢えて省く。書くことは、省くことだと言ってもいいくらいに省く。
だから、読んでいる側には当然疑問がわく。何故こう考えられるのか。なんでそんなことが気になるのか。そういった疑問は、縦につながっている書籍に自然と目を向かせる。

しかし、一番面白いのは、著者が無意識に「縦のつながり」を作っていることである。しばしば、参考文献にもお勧め図書にも載っていない本が、縦につながっている場合がある。

僕の個人的な感覚では、これは小説に多い。小説は、参考文献を書かないことが普通である。だから、読者が主観的に、「この著者は、この作家の影響を受けているんだろうな」などと推測したりする。
その主観的判断がある一定の妥当性を持っているとき、そこには縦につながりが存在しているということになる。

作家の多くは、よく本を読んでいるため、作家自身の無意識な縦のつながりは必ず存在しているといってよい。だから、僕たちは「この本が好きなら、あの本もお勧めだよ」と、読んだ本に紐づけて他の本を紹介することができるのである。

横のつながり:偶然条件

縦のつながりのない本が、関係性をひょっこり持つときがある。つまり、前提条件で全くつながっていない本が、いきなりある本を呼び起こすというわけである。

本当にこれは偶然と言っていい。全く別の木が、偶然となりあって、幹と幹が絡み合うというような関係性だ。僕は、このように平行線をたどっていた二つの本が偶然近寄ることにより関係性を生むという性質から、「横のつながり」と呼ぶことにする。

人間に例えれば、生まれも育ちも全く別の人間が、偶然同じ職場になって仲良くなってしまったと言った感じである。今思いついたのだが、なるほど、自由恋愛による「結婚」なんかはまさにそんな関係性かもしれない。

なんかよくわからない。多分同じ構造を持っているからかもしれない。あるいは、ある一節が同じようなものだったのかもしれない。とりあえず、読んでいて、「はっ」ともう一つの書籍を思い浮かべられたとき、そこには「横のつながり」が存在する。

僕はこの関係性が好きである。
図書館とかで、本当にバラバラな書架から、何冊か持ってきては適当に目を通して棚に戻すというようなことをしている。
これを三日連続とか行なっていると、一日目やら二日目やらの本が、パッと思いつく。このときは、正直アドレナリンがでまくりである。
横のつながりがある本を二冊並べてもう一回読み直してみると、なんとなく相性が良くて、自分だけのアイデアが生まれたりする。もちろん、そうでないときもある。あるいは、「縦のつながり」だった、という場合もある(それも嬉しい)。

「どうして自分が、その本の中に横のつながりを見つけたのか」という問いは、実は自分のアイデンティティの発見の契機にもなる。横のつながりは、偶然性が高いために、「純粋な自分の発見」に近い(近い、だけで純粋ではない)。
そのつながりを明らかにすることで、「自分」という、より難解で複雑な構造を持った集合体の中にある「深さ」に若干近づくことができる。

横のつながりには、そういった可能性が潜んでいる、と僕は思う。


書籍には、前提条件でつながっている「縦のつながり」と、偶然に関係性を生み出す「横のつながり」があることを書いた。以上が、多読を通して僕の考えた二つの関係性のパターンである。

もちろん、こういったパターン読みにはあらゆる危険性がはらんでいる。例えば、本につながりと過剰に求めてしまった結果、「恣意的な解釈」を生みやすくなるという問題だ。

「接続詞」を一度決めてしまうと、人間はその自分の解釈を手放す選択肢を忘れてしまいやすい。だから、ありもしないことを、整合性だけを優先して繋げてしまう。僕はそれをすぐやる。それは極めて危険な読みである。
このことについては、また別の記事で取り上げたい。

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