経験的主観を超越する!?カントの「超越論的主観」とは⑧

前回の記事→経験的主観が抱える問題点とは何か?哲学のあり方を考える


前回は、「経験的主観」という概念を取りあげて、その説明とそれが生み出す「懐疑的相対主義」の問題点を考えました。

「経験的主観しかない世界」は同時に「みんな違う経験をしているから、それぞれが別世界で生きている」という相対主義的な発想を生み出しました。
それは、「メタ常識」にそぐわない結論を導いたり、道徳的な問題も発生してしまうという点で避けなければならないんだろうというわけです。

カントは、この経験的主観を認めた上で、新しい主観のあり方を打ち出すことになります。それが今回説明する「超越論的主観」です。

経験的主観を超越する!?カントの「超越論的主観」とは

彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjektである。

世界大百科全書「認識論」より引用

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ア・プリオリに持っている感性や悟性

「経験的主観」しかないとするから懐疑的相対主義を生む。
ならば、経験的主観の他に、何か別の主観があればよいのではないか、というのがカントの発想です。
ということで、「超越論的主観」とは何か、どういう認識枠組みを持っているのかを今回は解説したいと思います!

カントの物自体

その前にちょっと復習しましょう!

カントは、「客観」を「心に映し出されたイメージ」と「物自体」の二つに分けました。
「心に映し出されたイメージ」は具体的に言えば、人間側があらかじめ持っている認識によってあらわれる現象みたいなものです。
これは、現在僕たちが素朴に持っている「客観」という言葉の意味とほとんど同じになります。

一方で、カントは「物自体」という概念を仮定しました。簡単に言えば、「現象となって表れる前の、物そのもの」です。
この「物自体」は人間が認識することはできません。つまり、認識の外にあります。そうすることで、素朴に物の実在を信じると言った「素朴実在論」を避けることができました。

「物自体」は実体がないなら、主観にもない

「実体がないこと」を、哲学では「観念」と呼ぶのでした。
「物自体」はカントによって「観念的なもの」と言われます。

じゃあ、人間はどうやってその「観念的なもの」を現象化させているのでしょうか。カントによればそれは感性(時間/空間)と悟性(カテゴリー認識)だということでしたね。

カントによれば、この感性と悟性は人間がア・プリオリに持っているものだと言います。ア・プリオリは日本語訳だと(先天性)とかって訳されます。
要するに、人間は生まれる前から、感性と悟性を持っているというわけです。
まぁ、そりゃそうですよね。ア・プリオリに何か能力を持っていなければ、経験することができないんですから。

しかし、生まれる前ということは、なるほど、これは経験的主観じゃ持ちえません。なぜなら、経験的主観では、経験によって主観が形成されていくわけですから、経験が始まる生前では持てるはずがないからです。

つまり、実体のない「物自体」の仮定には、同じように実体のない(観念的な)「主観」を仮定せざるを得ないというわけです。
カントによれば、この「経験によらない主観」は遡って考えれば仮定できるそうです。これを「超越論的主観」といいます。
超越論的主観とは、簡単に言えば「今の自分を自分から離れて見ること」を言います。哲学的に言えば、「主観を客観化する」というわけです。

超越論的主観なら懐疑的相対主義は現れない

さて、カントは超越論的主観こそ、感性と悟性がア・プリオリに備わっていると言います。

「みんなが違う世界を生きている! だから、一つの絶対的な真理はない」という懐疑的相対主義は、「人それぞれ同じ経験をすることができない」というところから出てきました。
しかし、超越論的主観においては、経験によって認識能力が変化することはないので、皆が一様に同じ認識をすることになります。

だから、「みんなが違う世界を生きている」という結論はもはや生まれることはないのです。こうして、カントは「懐疑的相対主義」を避けることができたというわけです。

超越論的主観の問題点とは?

カントのこうした「超越論的主観主義」は、様々な批判を呼ぶことになります。
今回はその一部を紹介しましょう。

経験的主観から超越論的主観へ

しかし、経験的主観から超越論的主観へは具体的にどうやって至ればいいのでしょうか。

人は生きていると必ずある仕方で経験をします。それは、母親のおなかから生まれたときから始まります。
産まれて瞬間に経験をすることが決まっているのですから、「経験的主観」から離れた体験を想定することは非常に困難なものになってきます。

これが不可能であれば、また懐疑的相対主義に逆戻りです。実際に超越論的主観へ至るような具体的な方法論があればいいのですが、カントは明示していません。

本当に空間/時間という感性を持つのか

人間が「空間/時間」という概念でもって現象を把握しているというのは本当でしょうか。

例えば、時間という概念が揺らいだ有名な発見があります。アインシュタインの相対性理論です。
それまで絶対的なものだと思われていた時間ですが、アインシュタインによると時間というのは「速度」(一般相対性理論だと「質量」)に比例するのだそうです。

すると、質量のない粒子である「光子」などは、時間が流れていないことになります。しかし、僕たちは光を見ることができます。すると、「時間」という形式は本当にア・プリオリに備わっているのか? という問題が現れます。

しかし、この「時間」はあくまで物理学の文脈に根拠を持っているものです。だから、カントのいう「時間」にはあまり関係がないのかもしれません。
例えば、「光子」に時間がないというのも、時間という枠組みがあるからこそ認識できるのかもしれません。最初から時間がなければ、もしかしたら「光子」のその特異性はあり得ませんよね。

ただ、「時間」そのものの認識のない部族もいたようです。アメリカのある部族である「ホピ族」は「時制(過去/現在/未来)」というものを持っていないそうです。
代わりに、ホピ族は「顕在態」と「潜在態」という概念で現状を把握している。
顕在態とは「分かっているもの」、潜在態とは「分かるもの」という意味です。

簡単に言えば、僕たちでいう過去と現在は顕在態に含まれます。つまり、その場にあって理解できるものは顕在態です。
一方で僕たちでいう未来は、まだ僕たちの目の前には現れていません。ですから、潜在態はその場にないものを指します。

そこには、もはや「時間」という概念はありません(というのも、その概念を数直線で把握することはできません)。
実は、日本人の祖先や他の多くの部族もこの「態」を使用していたそうです。

人間中心主義をどう克服するのか

西洋の哲学で大きな問題となっている主義の一つに「人間中心主義」というものがあります。

これはデカルトなどにも言えることですが、世界の存在が「人間前提」になってしまっているという批判的な見方をする場合に使われることがあります。

特に現代思想では、「動物の視点」というものが問題となりました。僕も犬を二匹飼っているのですが、時々、犬が人間のような行動を取るときがあります。
例えば誰かが誰かにマッサージをしていると、犬が「僕にも構って!」と嫉妬したように吠えてきます。うーん、犬の「まなざし」ってあるのかなぁ。

犬は少なくとも「超越論的主観」に至るといったことはなさそうです(あったらおもしろそうです)。
だから、カントの哲学はしばしば「人間」を過大評価しているのではないかという批判があるわけです。


カントの超越論的哲学は、哲学界に大きな貢献をもたらしました。

たとえば、ドイツ観念論の継承者であるヘーゲルは、固定化されている主観を「自己運動」する主体として捉え、主観はより形而上学的なものへと発展してきました。

また、現象学の開祖であるフッサールは、先ほどの「経験的主観から超越論的主観」へ至る道を、エポケー(判断保留)と還元を通して方法論的に明らかにしていくという超越論的現象学を打ち立てていくことになります。

人間中心主義批判から、フィールドワークを通じてさまざまな「まなざしの構造」を理論化していったのが、レヴィ=ストロースです。
彼の仕事はのちに「文化人類学」というジャンルを確立していき、「構造主義」とよばれるようになっていきます。いやぁ~、これが本当にかっこいい。

カントは今でも、あらゆる学問で言及される超大物です。それだけ、カントの影響力がぼくらにとって非常に大きなものだったといえるわけです。
カントを研究する意義は、ここらへんにあるのでしょう。

ということで、カントでもって今回のシリーズである『「主観/客観」の対立構造の成り立ちは何か!』は終わりにしたいと思います。


ホピ族の内容はこちらを参考にしました。

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