社会に疑問を持ったら大学に行け

前回の記事→「大学になんか行かなくてもいいと思える理由


前回の記事では、「消費社会」である現代において、誰もが「何を売っているのかわからず」、また「何を欲しいのかも分からない状態」であるため、「大学が役に立つかどうかも誰も分からない」という結論に至りました。

そういう状況で、「ブログで稼ぐなら、大学を出ていなくても成功できる」ことが分かったため、大学に行かない方がむしろ「コスパがいい」というわけです。

しかし、実感としては、僕は大学で得たことはたくさんあります。例えば、「専門知識の活用法」や「幅広い友達」、「高額な資料やソフトの利用」などです。
ただ、これらにも反論される余地があります。それは「会社」でもある程度は行えるからです。

では一体、「僕らにとっての大学の存在意義」とは一体何だったのでしょうか。恐らくそれを突き詰めればきっと、「大学にはいかない方がいい」という意見に対して真っ向から反論できることでしょう。

社会に疑問を持ったら大学に行け

この記事を書いた動機は、端的に言って「大学をうまく有効利用できなかったやつが、社会でイキってて、大学なんかいらないと言っている」ように見えて仕方がなかったからです。

「大学」という世界でも非常に大きな概念を、個人的な体験談だけで「真っ向から否定する」なんて、僕から見れば正気の沙汰ではないように思えます。
でも、そんなやつが社会で成功している……。僕は、こういう社会に対して疑問がぬぐえません

社会への疑問はいったいどうやってぬぐえばいいのでしょうか……。一つは「本を読む」ということです。しかし、日本で現在手に入る本の数は実に「77万点」だそうです。もちろん、絶版となったりするものも含めるともっとあります。
基本的に「本を読む」という選択肢は、大博打と考えてもいいでしょう。本を読んで疑問が解消するかどうかは、運です。

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高校生までは、「社会」に順応させられる

そこで、読書の代替案として「大学」があるわけです。大学は、「社会への疑問」に対して挑むのに適した場所だと僕は思っています。

「大学」って高い?

基本的に、大学に4年間通うには、国立大学なら最低でも250万円、私立大学なら多いところで1000万円かかるところまであり、決して安いとは言えません。
しかし、その代わり、社会保障が充実しているので、各地で学割が効いたりします。また、自宅から利用する場合には多大なお金がかかるような資料やソフトが無料で請求できたりします。
奨学金も比較的簡単に借りられるので、250万円と言っても「車一台分の値段」とは事情がかなり異なってきます。

また、「本を読む」よりも有利な点があって、それは「本を書いた著者そのもの」の講義を受けられるという点です。
本の著者、つまり教授の講義を受けるということは、自分の疑問を本を書いた相手に直接ぶつけられるということです。大抵の教授は、質疑応答の時間をとってくれます。講義を聞いて疑問に感じたこと、常々自分が思っていて聞きたかったことなどを無料で聞くことができるわけです。

通常、セミナーは一回5万円から15万円くらい、ゼミは一年間で10万円くらいです。そう考えると、国立大学では25単位分授業を取れば十分元が取れるわけです。

もちろん、250万円自体が安いわけでは決してありません。ただ、大学はそれに見合うくらいのコンテンツ力があるというわけです。

「社会に疑問を持つ」とは?

とは言っても、普通に過ごしていたら「社会に疑問を持つ」ということはあんまりなさそうです。
前回の記事でも言ったとおり、「社会に疑問を持つ」よりも「時代の趨勢に乗る」方が、幾分か賢い生き方のようにも思えるからです。

高校生までは、「言われたことを素直にやる」ことで、成績がとれます。提出物はちゃんと出す。定期テストはしっかり勉強する。身だしなみを整える。校則を破らない。

しかし、多くの高校生はきっと現状に満足していないように思えます。「なんで数学をやらなきゃいけないの?」とか、「こんな校則なくてもいいじゃん」とかそんな感じです。

僕も高校生の時はそうでした。身だしなみに関する校則は全て破りました。髪を金髪にしたり、第三ボタンまで開けたり、学ランを着なかったりなどです。
今思えば、本当にダサかったのですが、正直なところ「自分がどう見えていたか」にはあまり興味がありませんでした。僕はその頃、「色んなことを強制してくる学校が大嫌いだった」ので、きっとその意思表示だったんだと思います。

それはきっと僕に限ったことではないと思います。僕は塾で主に現代文を教えていますが、多くの生徒が「なんでここ、こう読まなきゃダメなの?」などと不満を漏らします。
「それは、この単語がこの文脈からこう使われていると”予測できる”から、この選択肢が選べないと”予測しなければならない”んだよ」というと、「なんで予測しなきゃいけないの?」と言われます。

なんで予測しなきゃならないか……。それはひとえに、「社会が何なのか誰も分かっていないから」だと答えます。予測できる技術がなければ、社会で生きることはできません。
ここまで言うと「なんでこんな社会で生きなきゃいけないんだ」と生徒は言います。この問いこそが、「社会への疑問」だと思っています。僕は、「大学に行って探求するしかない」と答えるようにしています。

どうあがいても規則に縛られる「高校生」

高校までは、「言われた通りのことをちゃんとやる」ことが求められていました。
この空気に対して取れる行動は二つです。「言われた通りにして成績を取る」と「言われたことに反抗をする」です。

しかし、規則に「従順」になることも、「反抗」することも、「規則の論理に縛られている」という意味で、実は行動レベルが全く変わりません。
例えば、僕は「言われたことに反抗して」、髪を金髪にして学ランを脱いでいましたが、もし「規則がなかったら」どうだったでしょうか。
僕にとっては「規則に反抗できれば何でもよかった」わけで、もしかしたら髪を金髪にすることも学ランを脱ぐこともなかったかもしれません。そういう意味では、僕の行動は完全に「規則に縛られていた」ということができると思います。

「規則がない」という状況は、高校生の自分はきっと想像できなかったと思います。「もし規則がなかったら一体自分は何をするのだろう」と妄想することはあっても、それを実行しようなどとは夢にも思わなかったはずです。
高校生の間はそうでないと困ります。いきなり、家から逃げ出して自由に生きる道を選ぶ、となってしまっては恐らく野垂れ死にするでしょう。

大学こそが初めて学べる「他者」

「規則がないという状況を想定できない」という場所では、実はほとんど「他者」が存在する余地はありません。
ここでの「他者」とは、「自分では想像もつかない、何やらわからないもの」という意味です。他者は、完全に「自己」ではありません。

例えば教師は、「規則を遵守する者」として「想定」することができます。だから、「教師が何を言っているかわからない」ということは通常はあり得ません。ありえたら困ります。「何かわからないけれど切れてくる教師」がいたら大変です。

高校においては、基本的に「何をすればいいか」が分かるようになっているはずです。なっていなければ、高度なことをやっているか、逆にその学校の体制がおかしいかのどちらかです。
「何をすればいいか」が分かって、それを素直に遂行するか、あるいは考えなしに反抗するかという選択肢しかないとき、人は自問する機会すら与えられることはないでしょう。

大学では、規則はほとんどありません。基本的には「単位を取れ」という規則すらありません(もちろん、取らなさ過ぎて「除籍」ということはありえますが……)。
しかし、規則がないとは面倒なもので、先ほど例に出した「何か分からないけれど切れてくる教師」がそこら中にいるのと同じになります。
だから常に「なんであんなに怒るんだろう」とかいうことになります。もしかしたら「自分が悪いのか」あるいは「あいつが悪いんじゃないか」とかいうことになります。

そうやって「自省」と「他者の分析」を通して、自己を「総合」していくわけです。大学は、アイデンティティの形成には欠かせません。

これは、「会社」でも一部同じことです。しかし、会社の場合は「失敗のリスク」が大きいです。社会人はお金をもらっています。言い換えれば、社会人は「社会のシステム」に参入させられているということです。
これを考えると、大学の方が「他者を学ぶ」機関としては好都合であることは明白だと思います。それに、「会社」の質は本当にそれぞれで上下します。正直、高校を卒業したてほやほやで「会社ガチャ」なんか引きたくありません……。


以上が、僕の考える「大学に行くメリット」になります。これはほんの一部です。「アカデミズム」の観点からも、大学のメリットはいくらでも考えられます。それにはまだ、僕の知識量では耐えられません(笑)

僕は、大学ではまともに何かを学ぶことはできませんでした。僕の知識の大半は、自分で読んだ本にかなり依存しています。正直もっとうまく使えばよかったと後悔もしています(笑)
独学だったり、読書をしていると「大学がいかにありがたい存在か」が強く再認識される機会が非常に多くなります。
僕はこの問題について、もっとたくさん考えていきたいと思っています。そして、「大学の良さ」を皆さんに伝えられたらと思います。

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