ライトノベル小説における「エロ」はいいのか?

先日、ライトノベル小説が店頭に置かれている様子が「気持ち悪い」として、「エロいイラスト付きのライトノベル小説を子供が来られる場所に置くべきではない」というツイートが話題を呼びました。
しかし、小説とエロがセットで書かれやすいのは今に始まったことではありません。昔なら与謝野晶子の『みだれ髪』などが良い例でしょう。人間の心情を描く場合、「エロ」は大事な要素の一つです。

では、今更になってどうしてエロイラストが「気持ち悪い」と言われるようになったのでしょう。今回はその点について考えていきたいと思います。

ライトノベル小説における「エロ」はいいのか?

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その「エロ」、本当に必要なの?

最初に僕自身の心情を表明しておきましょう。僕は普段から、ライトノベルの表紙を「気持ち悪い」と思っています。
それは、本屋へ行くたびに思っていました。なるべくライトノベルコーナーを避けて歩くレベルで好きではありません。

特に好きではないのは、「男性性」の強調された作品です。複数の女が男に媚を売りながらまとわりついているような構図の絵が嫌いです(ハーレム系というそうです)。
ただ、これは好みの問題ですが、それでも主人公の顔がまったく赤らんでなく不愛想な場合(やれやれ系)はまだマシです。恥ずかしがっている様子がかかれているものは、正直見ていたくはありません。

ただ、これは僕個人の好みです。「エロ」が本屋から撤去すべきかどうかの議論には全く関係はありません。
例えば、僕は遠藤周作の小説が好きですが、遠藤周作の作品は必ずと言っていいほど「エロい描写」が含まれています。『わたしが・棄てた・女』の女を犯して捨てる表現は秀逸です。

論点は、特定の人物が「性的消費の道具」になっているかどうか

本屋に置いてもいいかどうかの議論をする場合、「対象が気持ち悪いからやめるべき」という判断は正しくありません。

「気持ち悪い」という感想は、特にコンテクストの多い本の場合には、誰かに必ず抱かれます。万人に好かれる本というものはありません。
だから、「気持ち悪いから消えろ」を許していたら、本屋そのものの存在が消え失せることになります。これは誰にとっても本意ではないはずです。

かと言って、全ての本を置いていいという結論になるかといえば、そうではありません。やはり、置いてはいけないような本は存在するでしょう。
現在は発禁に関する法律はないですが、あまりにも公序良俗を侵害するような書籍は販売中止になったりしています。

特に、特定の人を傷つけるような暴力行為や、異常なレベルでのわいせつ行為が描かれたものは炎上騒ぎになったり裁判沙汰になったりして販売中止になる傾向があります。
今回の論点は、ライトノベルの表紙のエロは、それに当たるかということです。元のツイートでは、どうやら「特定の性が性的消費の道具」になっていると言及されていました。

道具とは?

そもそも「道具」とはいったいなんでしょう?

ここで、「手段」と「目的」という言葉を考えてみたいと思います。
人間は、何かを達成したいと思ったとき、それを「目的」に設定します。たとえば、ご飯が食べたいと思ったとき、「ご飯を食べる」を目的にします。
そして、運よくご飯を食べることができれば、目的を達成します。

に対して、何か障害があって「目的」を達成できなかったとしましょう。例えば、家の中にあるものを食べたいのに、ドアの鍵がかかっていたとしまう。そこで、鍵を使ったとしましょう。
ここで、この「鍵を使う」という行為は、目的である「ご飯を食べたい」という行為の「ために」行われていることが分かります。
「この目的のために○○をする」と言った場合の、この○○を「手段」と呼びます。

このとき、「鍵」は、ご飯を食べるための「道具」となっていることが分かります。一方で目的に関わっている「ご飯」は道具とは呼べません。
すなわち、手段に関わっているものは「道具」ということになります。

ライトノベルのイラストは「性的消費の道具」になっているのか?

では、「性的消費の道具」とはなんでしょうか。

先の「手段」と「目的」と言う概念を使って説明すると、「性的消費」が目的となって「特定の性」が手段となっている状態のことです。
簡単に言えば、「性的消費をするために、特定の性が利用されている」というわけです。

ライトノベルのイラストが「性的消費の道具」になっているということは、つまり「ライトノベルの本来の目的とは別に、性的消費という別の目的があって、その手段としてイラストが使われている」というわけです。
言い換えれば、「小説に関係なく、別目的でエロが使われている」というわけです。

大抵の場合、エロの対象となる「特定の性」は、「人間の性(男、女など)」になります。これを見た人間は、まさしく「自分が性的消費の道具になる」ことを意識的にか潜在的にか恐れて不快感を示すのでしょう(Hint: 「モノ化」)。
つまり、不快感の根底には「自分が性的消費の手段となる恐れ」から来ているのだと思われます。

逆に言えば、明らかに自分が性的消費の道具ではないと分かる場合はそれほど不快感をしめすことはないでしょう。
簡単な例でいえば、「ミロのヴィーナス(Wikipedia)」を見ても不快感が生じないのは、それが明らかに芸術だと分かっているからです。

だから、ライトノベルのイラストが小説の要素に「必要不可欠だ」と判断され得る場合、そのイラストに対して不快感を示す人は少なくなるでしょう。
もっとも、その小説自体が「性的消費の道具」と見なされる場合は、イラストとはまた別の部分で不快感の温床になることもあります。

「目的」がどこにあるのかの自明性によって不快感が変わる

一般的に、小説は「ストーリーを楽しむもの」という目的があると見なされます。友達の話を聞いても、本を読んだ後の感想はやはりストーリーに言及したものであったりします。
この主人公は、こういういきさつがあってこの事件を起こしたとか、この二人は紆余曲折があって付き合い始めたとかそういったことです。

感動もまた、ストーリーがあってこそ喚起されたりします。同じような場面でも、登場人物の過去や場所などの演出などで様々に見え方が変わってきます。

逆に「エロ漫画」は、ストーリーを極力排することによって読者の目的をなるべく「性的消費」に向かわせるような傾向にあるようです。
このように、目的の所在によってその書籍の定義が変わると言ったようなこともあるそうです。

ライトノベルのイラストはまさに、目的の所在が不明瞭になっていることが問題になっているのだと思われます。
小説であると謳っておきながら、表紙からは「性的消費」を目的にしているように見える。ライトノベルは定義上「エロ漫画」ではないので、子どもが普通に立ち寄れる場所にも置かれることが多く、それが更に不快感を助長している。

「そのイラスト、本当に必要なの?」というのが、不快感を示している側の主張だと言っていいでしょう。
僕は、ライトノベルのイラストのエロ描写は「明らかに必要ではない」と考えています。たとえ、「登場人物を魅力に表現するため」と言っても、僕はもっと他に方法があるのではないでしょうか。

でも、目的の所在に自明性はあるのか?

言いきってしまいましたが、しかし、小説の目的の所在にそこまでの自明性は本当にあるのでしょうか。

ぶっちゃけていえば「ありません」。
これも断言できます。小説の目的が明らかになることは、恐らくほとんどないでしょう。

「○○(目的)のために、この小説を書きました!」という小説は、あるにはあります。しかし、その場合読者は「その目的とは何か?」という読みに執着するようになります。
だから、著者が目的の所在を宣言してしまった場合、読者の読みが画一的になってしまう傾向があります。

小説家は基本的に、多かれ少なかれ読者に色々な読み方で読んでほしいという姿勢を持つ人が多いです。
だから、著者が自ら情報を開示するようなことはあまりありません。

そのような場合、小説の目的の所在は、ほとんど自明的にはなりません。
だから、「このエロ描写は、小説の目的から逸脱する」と指摘しても、「それはあんたの読みが悪い」と一蹴されてしまう事態になります。
小説、ライトノベル、エロ漫画などのジャンルの境界線が不明瞭なのも、実はそこから端を発していると言えるでしょう。

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