「主観/客観」の転換点になったロックの思想とは⑤

前回は、デカルトが「主観/客観」の概念にどのような影響を与えたのか、そしてその問題点は何だったのかについて説明しました。

デカルトの功績は、「根底にあるもの=主観」が物自体にあったのを、人間主体へと移したところにありました。
しかしこの「物主体から人間主体へ」という大胆な発想が、「相対主義」や「独我論」などの大きな問題を生んでしまうというわけです。

その問題を解決する手立ては、「心に映し出されたイメージ」という定義で使われている「客観」を見直せばいいんじゃないか? もっといえば、「客観」の定義を分けちゃえばいいのでは? という発想でした。

その発想をした先駆的な哲学者が、イギリスの哲学者ジョン・ロックです。今回は、ロックの思想を手掛かりに、「客観」のあり方の変遷を説明していきます。

「主観/客観」の転換点になったロックの思想とは

このスコラ的用語法が逆転し,主観の意識の向けられる対象の意味でこの言葉が用いられるようになったのは,イギリス経験論,ことにロックにおいてであり,そしてカントにおいて初めて主観との対立概念として客観という言葉が明確に規定された。

ブリタニカ国際大百科事典「客観」より引用

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「心に映し出されたイメージ」からの脱却

「相対主義」になるのも、「独我論」になるのも、もとはと言えば物の存在をすべて「思惟する主体」から証明してしまおうとするのが悪いのです。
うーん、どうしたらいいんだろう……。ん? そうか、「とりあえず物の存在を主体から一部分離しちゃおう!」というのが当時の発想です。

ロックによる「外的対象」という意味での「客観」

イギリスの哲学者ジョン・ロックは、この発想で「物の存在」を分離させました。

まずロックは、デカルトのいうように「主体である人間が、物を認識している」とします。
その際、デカルトは「思惟する主体によって、物は存在できる」としたために、「物の存在」は「心に映し出されたイメージ」という発想を超えることができませんでした。

ロックの考え方は単純で、「心に映し出されたイメージ」とは別に、「心のイメージとは関係ない物そのもの」があるんじゃないかというわけです。
例えば、パソコンを見たときに「僕が見ているパソコンのイメージ」がありますよね。このイメージは、今まででいうところの「客観」です。
だけど、ロックはそれとは別に、「パソコンそのものの存在」もあるんじゃないかというわけです。だったら、ほかの人が「そのパソコン、いいねぇ~」などと声をかけても不思議じゃありませんよね。

ロックはまだ、「心に映し出されたイメージ」を「客観」と呼び、「物そのもの」を「外的対象」と呼んでいました。
しかし、この「外的対象」という見方こそ、現代で使われている「客観」という言葉の成立に大きな影響を与えたというわけです。

ちなみに、このように「物そのもの」の実在を認める立場のことを「実在論」と言います。一方で「心に映し出されたイメージ」しか存在しないとするデカルトの立場を「観念論」と言います(多分本人は否定しますが)。
この実在論vs観念論の争いは、現代まで続いています。それはまたの機会に……。

ロックの「物そのもの」って何?

ロックのこのような見方の問題点は様々にありますが、この文脈で一番の問題は「心に映し出されたイメージ」と「物そのもの」の間にはどんな関係があるの? ってところです。

ロックは「物そのもの」が、その人の触覚なり視覚なりを刺激して「心の中にイメージを作る」と言いました。
そのときに、「物そのもの」がどんな風にイメージを作るのか。そして、なんでそんなイメージが作られているのかなどにまったく言及がないわけです。

そこの説明がない場合、その「物そのもの」って一体なんなんだ? という疑問にも全く答えられません。「心に映し出されたイメージ」しか見ることができないのならば、「別に物そのものなんかなくても分からないんじゃね?」ということになってしまいます。
「物そのもの」の実在を信じる根拠がないということは、デカルトの理論に逆戻りになってしまうということです。
「パソコンそれ自体はそこにある。なんであるのか? いや、わかんないけど、あるったらあるんだ!」

「あるったらある」という発想は、哲学では是非とも避けていただきたい論法です。こういう発想に対して、「もしかしてないとも言えるんじゃないの」と言ったとき、この論法においては「うるさい! あると言え!」ということしかできません。
これがどうなるかというと、いわゆるイデオロギーに発展します。「俺の論に従わないやつは殴ってやる!」というわけです。

ロックの問題点への解決法

ロックの問題点に対しては様々な解決法があります。

「科学」の登場

「よくわかんないけど、そこに『物そのもの』はあると信じる」という態度は、「素朴実在論」と言います。
実はこれ、現代の多くの人間が持っている感覚ですよね。僕たちは、パソコンが目の前にあることを疑うことはありません。見てるし、触れるし。

実は、この「素朴実在論」は、科学では当たり前ですよね。実験結果に対して「これ、本当にあるの?」なんて疑っていたら切りがありません。
科学は「あるものはある」という発想で、理論を大きく展開してきました。その影響たるや、現代人の僕たちにとってはいまさら言う必要はありませんよね。

しかし実際は、「あるものはある」では説明できないことがたくさんあります。例えば、「悲しい」「嬉しい」といった感情なんかはそうです。
また、物理学でも「電子」や「陽子」など観測不可能な粒子にもあてはまります。これらは、見ることが原理的に不可能なため、「あるものはある」が適用できません。

科学はそれに対して、例えば感情のような心理学っぽい概念には「統計」を採用します。「たくさん調べたら、こんな傾向があったよ」みたいな感じで理解するというわけです。
物理学は、「量子論」という考え方を取り入れました。簡単に言えば、「あるかないかは分からん。だけど、両方を一緒に考えたらうまくいった」というわけです。長くなるのでここらへんで割愛します(1。

カントに引き継がれる

哲学では、「あるったらある」という論法はとりません。というか、きっと取ってしまったらもはや哲学の意義はなくなってしまいます。
もし「素朴実在論」を引き受けていたら、とうの昔に物理学や心理学に吸収されていたことでしょう。

ドイツの哲学者であるカントは、「ロックは『物そのもの』だけを変えていこうとしたから問題がたくさん起きたんだ。じゃあ、今度は『人間がそれをどうやって見るか』を考えていけばいいじゃないか!」という発想の元、ロックの問題点を解消しようとしました。
つまり、「客体」はこれでいい。今度は、「主体」を定義しなおそう! というわけです。

この論の詳細は、次回の記事に回したいと思いますが、先取りして言えば、カントは初めて「主観」という言葉を、「主体のあり方」を説明する際に用います。
ようやく、「物を認識する機能」を「主観」とするわけです。いや、マジで長かった……笑


以上が、ロックの思想と問題点、その語の流れの説明になりました。
ロックは「客観」の定義を見直しました。これによって「心に映し出されたイメージ」と、「物そのもの」が分離することになります。
しかし、この分離は「素朴実在論」という問題点を浮上させます。「あるったらある」みたいな暴力は哲学では許容できません。

しかし、この「素朴実在論」は現代の科学では非常に馴染みのある考え方です。僕らは皆、「素朴実在論者」と言ってもいいでしょう。

そうした「素朴実在論」からいかにして離れることができるか。その問題に果敢に立ち向かうのは、カントです。次回は、このカントの思想を説明していきたいと思います。


次の記事→カントの「コペルニクス的転回」で「主観/客観」が定まる


(1 科学が抱えている問題に関しては「哲学とは何か」で説明しています。量子論についてはまた別途で記事を作成しようと思います。

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