「他者」から始める哲学

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「他者」から始める哲学

他者とは「なにかよく分からないもの」である

哲学において、「なにかよく分からないもの」は「他者」と呼ばれる。

人は数々の他者に遭遇している。
例えば、ジャンケンをするとき、自分は勝ちたいと思っても、相手が何を出すかはわからない。そして、自分の出す手を「最初はグー」の掛け声からものの3秒くらいで決めなければならないため、相手が何を出すかを予測することは原理上不可能である。
もちろん相手は、自分が何を出そうとしているかを知っている。状況とまとめると、つまり「自分は原理上知り得ない情報を相手が持っている」というわけである。こうなったとき、相手は他者として対峙するわけである。このような相手を、哲学では「他者性を持つ存在」と呼ぶ。

「自己」は他者との遭遇で形成される

他者性を持った存在と対峙したとき、人は何かちょっとした恐怖を覚える。何か「自己」の存在を脅かすような、そんな感覚。例えば、ジャンケンに負ければ、君はもしかしたら掃除を言いつけられるかもしれない。そして、ちゃんと掃除をするだろう。

これは言い換えれば、人は他者に敗北を期したとき、「自己」の今後の成り行きが他者によって制御されてしまうことを意味する。つまり、他者に自己が支配される。そうした支配に、人は嫌悪感でもって抵抗するだろう。自己は他者とは違うはずだ。こうして、人は自己を他者から隔離しようと試みるようになるわけである。

こうして、「自己」は他者性との遭遇によって形成されていくのである。「なにかよく分からないもの」との遭遇によって、自己は困惑し、自分の限界を知るわけである。

自分の限界を知るとは、すなわち自己と他者との境界線を策定するということである。境界線を策定することができれば、「自分のなすべきこと」が自ずと分かるようになっていき、自分の、社会の中での位置づけを理解していくようになるわけだ。

勝利によって拡大する自己

では、人はジャンケンに勝つとどうなるだろうか。ジャンケンに勝てば、君は相手に掃除を言いつけることができる。このとき、相手は自己の前に「言われたら掃除をする人」として現れるわけである。言う通りに動く人間には、他者性はない。つまり、ジャンケンに勝ったとき、他者は自己の前から消え失せるのである。

他者が消え失せてしまっては、自己と他者との境界線を策定する機会は与えられなくなる。そうなると、先ほどまで他者として対峙していた者に対して「自己を見出す」ことになるわけである。
このとき、嫌悪感を抱いていた相手に、一種の安心感を覚えることになる。そして、執着することになるだろう。なぜなら、「この人がいてくれれば、私は掃除をしなくて済む」からである。こうして、ジャンケンに勝てば勝つほど、自己は拡大していく。

勝利への執着が自己を消滅させる

ジャンケンに勝ち続けたら、その人に待つのは悲劇である。全てのジャンケンに勝った人間は、理論的には世界のあらゆるものが「自己」として現前する。全てが自分の思い通りとなり、結果的に社会の中での位置づけが行われず、自己が社会と融合してやりたい放題というわけである。

本当に死ぬまで勝てればいいのだが、ジャンケンと言うのは、勝てる保証が必ずしもないゲームである。人間はいつか負ける。そのとき、自己の境界線がきちんと策定できていなければどうなるのだろうか。社会の中での位置づけがないために、自己を保証するものが何もないので、結果的にあっという間に他者に侵略されることになるわけである。

現実世界では、ゲームに勝ち続けられる人などほとんどあり得ない。長く生きていれば必ず負けるときが来る。だから普通は、自己が肥大し過ぎて誰かに依存したり、自己が消滅してしまうと言ったようなことはほとんどあり得ない。
しかし、問題は、人間の「自分にとって都合のいいことしか認めようとしない」という性質である。この性質によって、人はしばしば「負けたという現実」を無視することがある。

ジャンケンみたいに、勝ち負けが分かりやすいときはこのようなことはまず起こりえないが、現実世界ではしばしば勝ち負けが曖昧なことがある。そのような勝ち負けを曖昧にできる状況下では、人は「勝った」フリをすることが多い。
その場合、疑似的にであれ人は「ゲームに勝ち続けている」のである。自由主義が横行し、たくさんの選択を迫られるこの現代において、勝者であり続けようとする人が後を絶たないのだ。

敗北から、自己に出会え

わざと勝負に負けろというわけではないが、ゲームがこのように自己に影響を与えているという構造を知っておくのは有意義なことである。常に勝つこと自体は望ましい。だが、負けたとき、そこから目をそらしてはいないかを反省することは重要である。
負けたときに人が得るべきものはたくさんある。まずは、負けたなと思ったら、目の前に現前する「なにかよく分からないもの=他者」に触れる必要があるだろう。
そうして、人は自己の限界を知り、「自分のなすべきこと」を知るのである。そうしてやっと、人は自立することができる。

他者がまだ何かよく分からないという人は、とりあえず立ち止まって、隣の人とジャンケンすることから始めてみよう。

参考文献

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