彼氏がサイゼリヤを使って彼女に試練を与えるのは当たり前である

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彼氏がサイゼリヤを使って彼女に試練を与えるのは当たり前である

彼氏が彼女に試練を与えることについて

少し前、付き合いたてのデートで彼女をサイゼリヤに誘って、それに応じるかそうでないかで彼女の器量の広さを試すといったような話が盛り上がった。
元のツイートは、その、いわゆる「試験」に否定的な意見を表明し、それに賛同するリプライで盛り上がったようだが、事態はそう単純ではなく、様々な論者が意見を言い、議論は熱を帯びていった。

試練は与えなければならない

僕も同じような口で、否定的な意見に違和感を覚えた。多分、このツイートを読んだときに直観的に「試験をするのは当たり前」だと感じたからだろう。
デートを重ねる理由は決して「楽しいから」だけではない。恋愛関係を進展する際、相手がどんな人間で、どうやって付き合っていけばいいのかをすり合わせる必要がある。
じゃなきゃ、中身のないデートとなって、ただひたすら時間を浪費していくばかりである。仲良くなっていくどころか、次第に話題がなくなっていき、相手の悪い部分が見え始め別れる羽目になる。

そうなりたくなければ、「相手はいったい何ができるのか」を常に見極める必要がある。その努力を不断に行って初めて、自分のしたいことをしたり、相手に何か要求できるわけである。

他者理解こそが「試練」である

僕がそう思うのには根拠がある。それは、「他者理解」そのものが「試験」と同質だということだ。

例えば、僕らは勉強をするために机を使う。僕らは机の形状を見て、その形状を活かすことを考えるだろう。そういうプロセスを通して、僕たちは机とうまく付き合っていくわけである。

逆に机の側から考えてみる。もちろん机は人間のように見たり聞いたりすることはできないが、もし机が仮に人間と同じように意図を持つことができるとして、机は人間をどのように見ているかという意味での思考実験だ。

机は人間とは違い、相手に合わせるために自由自在に形状を変えることはできない。机は、人間の前に、ただ立ちはだかるのみである。
であるから、人間とうまく付き合っていくには、自分の形状をうまくいかしてくれることを人間に期待するしかない。言い換えれば、人間に試練を与え、遂行を催促する。つまり、机は人間を「試験」しているのである。

人間の視点に戻ろう。人間は、机の「試験」を受けている。形状や製作者に意図された用途、周りの使用状況などを考慮に入れながら問題をクリアしていく。
問題をクリアすればするだけ、人間は机の「試練」に慣れていく。机は、応答するすべを持たないために、その試練が何なのか、そして解答を得ているのかは分からないが、人間がそれらをなんとなく「使いやすいなぁ」と実感を伴って理解するからである。そうして時間と試行錯誤を経て、机は人間にとって唯一無二の存在となる。

このプロセスが、「他者理解」と類似していることは、言うまでもない。

人間は相互に試練を与えあっている

人間同士の付き合いは、机の時のように「どちらかが試験を受けることを待っているだけ」ということは起こりにくいだろう。なぜなら、人間は机とは違い、試験を受けに行けるため、多くの場合そこに相互的な関係が起こるからである。

しかし、そのような性質を持っていても、人間はときに「動けない」ことがある。というのは、人間でさえも机と同じように何らかの形状を持っており、それ故に形状面での限界を有しているからだ。
例えば、簡単な例でいえば人間は、自分が手を伸ばしたときより上にある荷物を(道具を使わなければ)取ることができない。そうしたとき、その人は他の誰かに期待=試練を与える必要が生じる。この時の身長の低い誰かは、まさに「机」である。
机となったその人は、自分ができないことをやってもらうという形で試練を与え、自分とうまく付き合ってくれるように願うわけである。

もちろん、身体面での問題だけではない。むしろ、精神面での限界を迎えたときにこそ、人は試練を与えたがる。
例えば、一人ではつまらないというとき、弱気になっているとき、そして性行為をしたくなったときなどである。人間は大抵のことを一人ではできない。そんなとき、「私のことを助けてくれる?」などと、容赦なく「試験」する。
相手は、その試験をクリアしていくことで、(まさに机がそうであったように)仲を深めていくわけである。そして人間の場合に限り、相手も「試験」を容赦なく繰り出し、互いに特別な存在になっていく。

人は「試練」から逃れることはできない

他者とは「自分の存在を超え出る存在」である。相手が他者性を帯びたとき、相手は「なんかわからないもの」として自分の前に現前する。
逆に「試験をする必要なんてない」ということは、相手のことをすべて把握していると宣言するようなものである。そのような相手には他者性は現れない。端的に言えば、そんな相手と付き合って何が楽しいのだろう? 自分ができないことが全て相手にもできないのであれば、相手は何のために存在しているのだろうか。

試験をしているくせに、していないフリをするのはもってのほかである。相手に何か要求したとき、それは同時に相手に負担を与えることでもある。試験を受けるのは正直な話、つらいのだ。
相手に負担を与えておいて、自分は知らんふりなど、言語道断である。他者理解が「試験」の構造を持っている限り、人は「試験」から逃れることはできない。

「試験をするのは当たり前」だというのは、こういうわけである。人はもっと、自分が試験を与えていることに、自覚的になるべきだろうと、僕は思う。


余談だが、机に限らず、社会のあらゆるものは「試験」でできている。自転車や自動改札機など、あらゆるものを理解して初めて、僕らは社会に参入できる。社会=他者は常に僕らを試験している。

僕らは、常に他者を理解しなければならない運命にあると言えるのではないだろうか。

(サイゼリヤが、安くてダサいというレッテルを張られていることには、少々気の毒に思える……)

参考文献

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