失言を叩くことの正当性を山口もえの発言を踏まえて考えてみる

失言を叩くことは正しいのか?

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人は必ず「失言」をする

人は必ず「失言」をする。人生長いこと生きていれば、その間における多数の言葉のうちどれか一つは必ず失言になる。
それは、気を付けていても同じである。実は、失言は本人の意図によらず、失言たる資格を持ってしまう。
なぜなら、言葉はただ「読まれるように、読まれる」のみだからである。

「発言者の意図」は言葉内容から読み取れるか?

まず考えなければならないのは、「発言の内容には、発言者の意図が含まれている」という主張である。
発言内容が不明瞭な場合、良く言われるのは、発言者の意図を推測して、その内容を確かめればいいということである。
発言というのは、ある意図でもって行われるものだということを前提とした推論だ。

例えば、誰かが「リンゴが食べたい」と言ったとする。きっとみんなは、リンゴが手元にあれば、それを上げるだろうと思う。それは、「リンゴが食べたい」という言葉が、リンゴがほしいという意図でもって発言されうる言葉だと推測できるからだ。
おそらくほとんどの場合、それは正しい判断だろう。しかし、しばしばそれは裏切られる。「いや別に、今は食べたくないけど」なんて言われてしまう、なんてことは結構あるんじゃなかろうか。

この例から、発言者の意図を、その発言から推測するのはそんなに簡単ではないということが分かる。人は、かなりの割合で、言っていることとやっていることが異なることがある。
「今日はいい天気ですね」という挨拶は、ほとんどの場合、天気がいいことの再確認ではない。

このように、発言内容は、必ずしも発言者の意図を汲んだものではない。
むしろ、自分の意図がそのまま発言の内容に反映されずに苦しむ機会の方が、僕には多いように思われる。

「書き言葉」の多義性が「謝らない謝罪」を生む

更に言えば、一度発言されたものが文字になった場合、その言葉は更に発言者の意図から離れてしまう。
言葉が何かに書かれた場合、その言葉は、大勢の人に繰り返し読まれるものになる。そのとき、その解釈は読む人によって多様なものとなり、また、時間や場所によって大きく変化したりする。

こうなってしまえば、もはや発言者にその言葉を所有する権利はない。発言者が、「いや、実はこういう意味がある」と訂正しようとも、それすらただの一つの解釈に過ぎないものになってしまう。
それが、例えば読み手によって「失言」だと判定したときである場合、発言者はその無力さから、「そう読まれてしまったのなら、申し訳ありません」という、いわゆる「謝らない謝罪non-apology apology」しかできなくなってしまうわけである。

山口もえの発言の何が炎上したのか?

その発言が失言かどうかは、実は、その人の好き嫌いが判断基準になることが結構多い。例えば、先日、タレントの山口もえのこの発言が少しだけ炎上した。

人生が90歳までだとすれば中学の3年間は、90分の3年。人生長い意味で考えたら、この時間すごくつらいけど頑張ろうと思える。辛いだろうけど、それも一瞬。(出典元:山口もえが「ザ!世界仰天ニュース」でいじめ問題に持論展開するも炎上しブログで謝罪

これに対して、「学生にとってのその3年が、どんなに辛いことか想像できない人の発言だ」など、山口もえの配慮のなさを批判する言葉がぶつけられていた。

本人は、言葉足らずだったと謝罪しているようだ。「言葉足らず」というのは、「自分には、中学の時間を軽視するような意図はなかった」ということを表明したうえで、「それが伝わっていなかった」という意味である。
これは「本当は、私は悪いことなんか言っていない」という言い訳にも聞こえる。まさに「謝らない謝罪」に分類されるものだろう。山口もえは実は謝っていない。

しかし、別にこれは、山口もえだけが悪いわけではない、と僕は思う。よく見れば、「いじめは辛い」ということを、2度も強調している。僕はこの時点で、山口もえがそこまで炎上する必然性はないように思える。
それに、人生長い意味で考えたら、学生生活が短いのは本当だ。これが、40代前半の人間の意見だと考えたら、妥当なところだろう。彼女には人生があと50年しか残されていないが、中学生はまだ75年もある。彼女の励ましは、非常に説得力がある。
なのに、どうして山口もえの発言は炎上してしまったのか。

言葉の多義性に対する認識の甘さが生む悲劇

おそらく、芸能界で活躍し、容姿もよく、結婚をしていて世間的に評価の高い彼女が、いじめられた経験を持つ人間からはあまり好ましく映っていなかったことが原因ではないだろうか。
つまり、批判者は、山口もえや芸能界のことが嫌いだったから、批判したということである。元々自分に言いたいことがあって、その発言を利用して不満を爆発させたのだろう、と僕は考えている。

これは別に、山口もえを擁護するものでも、批判者を再批判するというものでもない。この文章は、そういう意図を持って書いていない。
おそらく、山口もえの発言が「そう読める」のも、その言葉で誰かが傷ついたのも事実であって、それを否定するべきではないと、僕は思っているからだ。
ただ、言葉というのは「読まれるように、読まれる」のみだという性質に対する認識の甘さが、このような炎上を多く生んでいるのではないだろうか、ということである。

「書き言葉」が氾濫する現代で考えなければならないこと

書き言葉が多く氾濫しているこの世の中で、「発言者の意図」というものは、どんどん力を弱めていっている。「言ったもん勝ち」「読んだもん勝ち」という倫理観が台頭してきて、SNSでは数多くの「失言」が血祭りに上がっている。

僕は、全ての「失言」が、本当は失言ではない、と主張したいわけではない。多分、悪意を持った失言は世の中にきっと多く存在している。
ただ、なんでもかんでも「失言」呼ばわりしては、炎上しているこの世の中で、きっと真の「失言」は隠されてしまっているのではないかと思うわけである。
もう一回、「失言」とは何かを見直して、言っていいことと悪いことをしっかり峻別する必要があるのではないだろうか。

参考文献

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