「主観/客観」という枠組みに激震を起こしたデカルト④

前回の記事→「客観」は「心に映し出されたイメージ」という意味だった


前回は「客観」という言葉が、近代以前にどう使われていたかについて説明しました。
客観は今の使われ方とは程遠く、「心に映し出されたイメージ」という意味を持っていました。

なるほど、主観は「根底にあるもの」を意味していて、客観に近い意味合いを持っていた。
それに対して客観は、今の主観に近い意味合いで使われていたということになる。
つまり、主観と客観は近代以前では逆転していたというわけです。

ただ、今のように主観と客観はセットで使われることはありませんでした。
それは、近代哲学の転換点にもしばしば挙げられる、デカルトにおいても同じだったというわけです。客観は「そのもののあり方」の一種でしかなかったのです。

しかし、一方でデカルトにおいて、現在の「主観↔客観」の構造の萌芽が見られるってところで前回の記事を終えました。
今回は、デカルトの問題点をピックアップして、「主観↔客観」の対立構造を理解するための下準備をしていこうと思います!

物主体から人間主体へ移行した激動のデカルト

この意味での主観(著者注: 「物事の根底にあるもの」という意味での主観のこと)は決定的な仕方で、デカルトにおいて「思惟(しい)するもの」として登場した。
確かに思惟するものは思惟という属性を担う基体=実体であり、その限り延長という属性を担う物体(延長実体)と並ぶ実体にすぎない。しかし思惟するものはあらゆる物体から純化された主観であり、延長する物体は明証的に知られる限りにおいて客観として存在するとされる。
それゆえ事柄としては、ここに「主観―客観」関係の成立をみることができる

日本大百科全書「主観」より引用

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人間が「主体」となることの意義

前回の繰り返しになりますが、「主観/客観」の構造がちらついてくるのはデカルトからでしたね!
ということで、今からデカルトの意義をもう一回明確にしていきましょう。

物主体から人間主体へ

ちょっとおさらいすると、主観は「根底にあるもの」を意味していました。
「It is a pig.」「It is you.」といったように、あらゆるものは「it=根底にあるもの」を主語として存在していました。
特に中世においては、「人間は神の被造物」であったために、物も人も等しく「主観」によって成り立っていたというわけです。

しかし、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」によって、「思惟する主体」を絶対疑えない原理として物事を考えていきました。
これは言い換えれば、「物は人間の主体によって把握されるんですよー!」という宣言だったというわけです。

デカルトではまだ主観と客観の用法は現代とは真逆で扱われています。しかし、デカルトの「人間主体」の考え方によって、次第に「物の根底にある主観」は姿を消していってしまいます。
こうして、哲学においては、「物主体から人間主体へ」と転換することになりました。

デカルトの「問題点」

宗教からの批判

「物主体から人間主体へ」なんてめっちゃやばそうな転換が、何の問題もなく受け入れられるなんてことはもちろんありませんでした。
特に反発があったのは、宗教関係でした。そりゃあ、今まで「人間は神の被造物」だったのに、「私が思うんだから、私は存在している」なんて宣言されたんだからたまったものではありません。
(ただデカルトは、「思惟する主体」によって「神の存在証明」もやろうとしていました。デカルト自身もさぞかし苦しんでいたに違いありません。この件はまた別の記事で……)

そういうイデオロギーっぽい批判を置いておいても、デカルトの理論にはやっぱり無理があります。

相対主義への批判

例えば目の前に「パソコン」があると言おうとしたとします。デカルトによれば、「思惟する主体」は絶対にあって、その主体がパソコンを認識できるから「パソコンがある」という風に証明できるというわけです。
じゃあ、ここで誰かが「おっ、そのパソコンって新型かい?」なんて声をかけてきたとしましょう。ん? その人はどうして「僕の目の前にパソコンがある」と認識できたのでしょう?

簡単な解決法としては、「その人の『思惟する主体』がパソコンを認識した」ということでしょう。しかし、それはおかしいのです。
これを認めると、「思惟する主体」は人の数だけあるということになってしまいます。つまり、「真理は人によって違う」ってわけです。デカルトの理論では、この真理によって世界を構成しようとしていたわけですから、「世界は人の数だけある」となってしまいます。このような結論を「相対主義」と言います。

この結論が極端になると、「世界が違うんだから、君と僕とでは話すことなんかない」ということになります。よく、「人それぞれだ」といって、会話をストップする人がいますが、それは相対主義に陥っています(1

独我論への批判

一方で、「その人自身も、僕の『思惟する主体』によって存在している」と考えたとしましょう。これは最悪の解決方法です。
「パソコンがある」のも「その人がいる」のも、僕の「思惟する主体」があるからだというわけです。つまり、「パソコン」と「その人」は同列だというわけです。
だから、その人がパソコンを認識したのは、「その人がパソコンを認識した」と僕が「思惟する主体」によって把握したからだというわけです。

簡単に言えば、「その人は実はパソコンを認識していない。僕がそう見ただけなんだ」というわけです。極端に言えば「世界があるのは俺のおかげ」ってわけです。誰かが僕に何を話しかけようとも、それは「話しかけているように見えているだけ」ということです。
ここでは、もはやほとんどコミュニケーションは成り立ちません。「世界にいるのは僕一人」というわけです。このような結論を「独我論」と言います。デカルトの理論は、このように「独我論的だ」と批判されることが多かったようです(1


このように、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という発想は、いろんな場所で批判に合うことになりました。
現代哲学でもよく取りざたされる「人間中心主義批判」とか「ロゴス中心主義批判」といったものも、デカルトのこの発想が元になっていることが多いのです。

じゃあ、デカルトのいったい何がまずかったのか。それは、「客観」という言葉をいつまでも「心に映し出されたイメージ」という定義で使っているところなんです。
ようやく、現代の「主観/客観」に至ろうとしているというわけです。

主体は人間の側に移った。次第に「主観」もそれに近い意味合いで使われていくだろう。
だから今度は、「客観のありかを考えていこう!」というわけです。その先駆けになったのは、イギリスの哲学者ジョン・ロックになります。

というわけで、次回はジョン・ロックの思想に触れていきたいと思います。


次の記事→「主観/客観」の転換点になったロックの思想とは


(1 もちろん、デカルト自身は相対主義を克服しようとしています。デカルトは「神の存在証明」を行なったうえでこのような議論を展開しています。簡単に言えば、「神は存在している。ゆえに、他者も存在している」というわけです。
だから、デカルトの発想は「人間が神の被造物である」という発想を決して捨ててはいません。だけれど、後世の、いわゆる「神は死んだ(ニーチェ)」を経験した人にとっては、デカルトは神を蔑ろにしているように映るわけです。「相対主義批判」も「独我論批判」もここから生まれているのかもしれません。

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