選択肢が多いほど幸せだと考えてしまう「マキシマイザー」とは?

選択肢は多い方がいいは本当か?

こんな場面を想像してみよう。

あるファミリーレストランに来ています。折角久々に来たし、今日は美味しいものが食べたい。胸を膨らませながらメニューを開けば、数々の魅力的な品が並んでいる。「今日の僕の食べたいものは何かな」と自問自答しながらそれを眺める。
…おかしい。メニューがたくさんありすぎて決められない。結局、いつも食べているカルボナーラを今日も選んでしまう。「まぁ、安定の味だよね。次こそは違うものを食べよう

一方で、ある餃子屋さんは大胆にもメニューが一つしかない。大きな文字で「とりあえずこれを食べておけ!」と書いてある。なるほど、これだけ強調された品なら美味しいに違いない。
そして、餃子を口にしながらこんなことを思うかもしれない。「この餃子、美味しかった!たべてよかったなぁ~。

もちろん、メニューが多いからって品がまずくなるわけでも、餃子しか作らないからって美味しくなるとも限らない。
この例で示したかったのは、要は「選択肢が多いからといって、人は必ずしも自由ではない」ということである。

選択肢が多ければ人は一見自由になれると考えがちだが、この人がカルボナーラを選んでしまったように、行動を制限されてしまうことがある。この情報過多の社会において、選択肢が与えられ続けて疲れている方もいるんじゃないだろうか。
「今日は何の服を着るべきか」と、Amazon社のAIを積んだスピーカー「Alexa」に自ら選択権を委ねている3歳の女の子の話はその最たるものだ(0

そもそも、「選択肢が多い」とはどういうことか

ここまで読めば、「選択肢が多いければ多いほど良いみたいな言説がなんで存在するの」と思う人がいるかもしれない。
しかし、例えば昨今のファミリーレストランはそういった思想に基づいて設計されている。メニューが多ければ、客に選択肢が増える。よってより多様な自由を行使できるというわけだ。
「カルボナーラとカレーを扱っている店」と「カルボナーラとカレーとオムライスを扱っている店」ではもちろん後者の方が「客の自由度」は高いと言える。

「自由」という言葉が出てきたが、「人は自由に行動していると思っているときに幸福感を感じやすい」と言われている(0.5

「自由」という概念を少し考察してみよう。

歴史的に見ても「自由という概念」は選択肢と密接に関わり合いながら形成してきた背景がある
例えば中世ヨーロッパでは、王による封建支配からの「逃走」という意味合いで「自由を獲得した」という表現が使われていた。そうして、「都市の自治」という新たな選択肢を得ようとしていたのである。

日本では江戸時代末期まで幕府による「封建社会」が民衆を支配していた。しかし、将軍の権力が天皇に返上され、西洋のそうした「自由」の概念が輸入されてくると、民衆は「選択肢」を求めて各地で民権運動を起こすようになった。
民権運動とはすなわち、国民にも「表現の選択肢」を認めさせようという意思表示である。(※要出典、要編集)

現代に話を戻す。昨今では「選択肢が増える」という設計思想で一番利益を得ている分野がSNSであるように思われる。SNSでは日夜「表現の自由」「情報を知る自由」「時間に制限されない自由」が叫ばれている。
好きなことを好きなようにやればいい」といったメッセージが書かれた絵が何万リツイートもされるTwitterでは殊更「選択肢の多さ」が、人々にとってどんなに大切かを表現している。

人々の直感では「選択肢が多ければ多いほど自由だ」という意見はある程度正しいと思われている。

選択肢が多かったときの方が幸せ度は高い理論

「僕は君のすべてなど知ってはいないだろう。それでも一億人から君を見つけたよ。根拠はないけど、本気でそう思っているんだ」レミオロメン『粉雪』より引用(1

そもそも、『粉雪』の中で歌っている誰かは、どうして「恋人を一億人の中から選んだと思い込んでいる」のだろうか?
中学生の時に本気で共感していた僕は、「恋人を一億人から選んだと思った方が、そこら辺の10人から選ぶよりも幸せだと思うからだ」と答えるに違いない。

単純に計算すれば、世界に恋人と二人しかいない状況で彼女を見つける確率は100%だとすると、一億人から見つける確率は0.000001%だ(頭の悪い計算すぎる。更に彼女が違う男に言い寄られる確率を考えればさらに低くなるだろう)。
なるほど、「君と僕が出会えたのは、宝くじの当たりを引く確率よりも低い。君と僕がこうして楽しく過ごしているのは、何億円の富よりも価値がある」と言われれば、そのままロマンスの世界へ誘われるというわけか。

人は無意識に人と比較するという「社会的比較理論」というものがある。
社会心理学者のレオン・フェスティンガーが提唱した社会モデルの理論で、その理論によれば「人は自分自身の評価を決める際に、無意識に他人と比較してしまう」ということである(2
心理学では、人は「より効率のいいものを選択しやすい」と考えられているため(3、自分自身で色んな変数や環境を考えるよりも他者との比較を通して自己評価を決めやすい傾向にあると言われている。

例えば「君が好きだ」と言われた瞬間に、「ああ、この人は、あの人でもなく、どの人でもなく、自分を選んだのか」と考える認知がこれにあたる。
相手に与えられた選択肢がより多ければ、自己評価は覆しがたいものになるため相手の評価を素直に受け入れられるようになるだろう。なるほど、その方が幸せである。

自分の選択を最大化しようとする「マキシマイザー」

ノーベル経済学賞を受賞した経済学者のハーバート・サイモンは、「様々な選択肢を比較して、より最大のものを求めようとする人間」を「マキシマイザー(最大値を求める者)」と呼んだ。
マキシマイザーとは、「完璧主義者のようなもので、購入や自己決定ひとつひとつに対して、それが自分にできる最高の選択だと確信する必要がある」人のことである(4

マキシマイザーは、自分が幸福であるためには、他の選択肢を考え尽す必要がある。「僕は今Aを楽しんでいる。何故なら、僕に与えられたBもCもDもEもー(中略)ーもZもつまらないからだ!」という行動原理に基づいて幸せの価値を決めている。
数ある選択肢の中で最高のものを選べば、自分は最大の幸せを得る」という理論的に導き出された信念がそこにはあるのだ。

マキシマイザーがもつこの理論は、ある思想に基づいている。それは、「この世界のどこかに必ず、自分にとって1番合っている選択肢が存在しているはずだ」という思想だ。これを僕は「理念」と呼んでいる。
ここでの理念とは、「一体それが何なのかわからないが、そこに存在している(実在する)という確信」というような意味だ(5。マキシマイザーは、理念を常に追い求めている

「幸せとは何か」を考えたときに、「本当に幸せなことが仮にあったとしても、そこに達することはできない。ただ『追い求める』ということは重要だと思う」という思考にいたることはよくあるんじゃないかと思う(6
マキシマイザーの信ずる理念は、そういった幸福感を考える際にとても分かりやすい指標を与えてくれる。現状に満足せず、より高い目標を求め、それに向かって人生を設計する。そういった設計を考える際に「選択肢は多い」に越したことはない。

マキシマイザーは本当に幸せになれるのか?

ここまでマキシマイザーについて論じてきたが、大体の読者は違和感があったように思われる。ハーバード・サイモンはこの「マキシマイザー」について決して肯定的な説明をしていない
しかし、より問題を明確するために敢えてマキシマイザーを持ち上げてみた。マキシマイザーの、一体どこに問題があったのか。

この問題に適切に解答を与えるのは案外難しい。というのも、「人は選択肢が多い方が幸せである」というのは、ある種直感的に正しく思われるからだ
そして、歴史的にもこの「選択肢を獲得する」ために、あらゆる革命を乗り越えてきた背景が存在したという話もした。
「選択肢を失くす」という体験は、その人にストレスを与えるのもまた事実だからである(僕は常にカルボナーラを選ぶけれども、そのファミリーレストランからオムライスがなくなるのを無条件に好まない)。

ということで、いくつか疑問点を挙げてこのページは終わりにしたい。

・ハーバード・サイモンが挙げたもう一つのタイプである「サティスファイサー(自己充足する者)」を考察する。

・「マキシマイザー」と「サティスファイサー」では、結局どちらが幸せか?その、心理学的考察。

・そもそも「自由に選択する」ってできるの?「自由意志」と「決定論」の論争に対する哲学的考察。

・暴挙。「幸せ」ってなんなの…。このサイトにそんな力があるのか!?まぁ、とりあえず書いておく。うける。


(0 「Co-Parenting With Alexa」が、とても痛ましい惨状を報告している。親の話よりも、人工知能の言葉の方を無条件に信じる傾向が子供にはあるようである。

(0.5 「自由意志信念に関する実証研究のこれまでとこれから哲学理論と実験哲学、社会心理学からの知見」でその概要が載っている。しかし込み入った話になるので別記事で紹介したいと思う。

(1 レミオロメン「粉雪」、作詞藤巻亮太。僕はこの歌が好きで、中学生の時代からよく歌っている。が、しかし、好きが高じすぎて、どうやら歪んでしまった。リアルで僕を知っている人間は、「あぁ~、あいつの粉雪!あれね!あのめっちゃ叫ぶやつ!」って思っている人もいるかもしれない。そういうことである。こなああああああああああああああゆき。

(2 参考: 「比較による自己評価と対人関係」(pdf) 大久保暢俊さん、2009年。

(3 「認知的倹約家」で調べてほしい。多分これに関してはまた別の記事に書きます。(※要出典、要編集)

(4 『一緒にいてもスマホーSNSとFTF』シェリー・タークル著、

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